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塩の歴史

The History of Salt

ヨーロッパ塩生産者団体のホームページ「Salt Association」より

 

 塩は記録された歴史以前から長く使われてきた。時代の夜明け以来、動物達は塩の必要性を満足させるために自然な塩給源に通ずる道を本能的に歩んできた。

 初期の狩猟者は動物の肉を食べることで塩を摂っていた。彼等が農耕生活に変わった時、食事が変わり、肉で慣れ親しんできた同じ塩味を塩(多分、海塩)が野菜に与えることを彼等は知った。

 数千年間にわたって、塩が食べ物を保存し、皮をなめし、傷を治すのに役立つことを彼等は学んだ。遊動民族は塩を携帯し、他の集団で異なった品物と塩を交換した。この塩の歴史の章は古代から化学革命まで塩を我々の関係の旅にあなたをお連れしよう。

 

古代

 約4,700年前、書物として知られている一番古い物の一つである中国のPng-tzao-kan-mu40種類以上の塩を記録していた。それには今日でもまだ使われている方法と同様の二つの塩の抽出法と製造法を述べていた。

 塩の関する記載は古代バビロンの粘土板とエジプトのパピルスにも明らかにあった。書かれた証拠がなくても、製塩と使用が全ての古代社会で生活の特徴であったことを我々はかなり確信できる。近代の交易や技術から隔離された所では、今日でもまだ有史前と同じ方法で塩を作っている。

 イギリスの小島では、有史前の人は海水から、または内陸のかん水泉が発見された幾つかの場所から塩を作ってきた。これらの活動の痕跡の確認は難しいが、考古学的証拠は今や青銅器時代まで遡れる。

 チェシャーは新石器時代の交易ルートにあり、鉄器時代のブリトン人がウェストモーランド石の斧と塩を多分交換した塩田と交差している場所であった。

 

鉄器時代

 ブリテンで鉄器時代製塩の考古学的証拠は、粗雑な陶器の遺物と製塩に関係し、ブリクタージとして知られていると認められる支持柱の発見に大きく基づいてきた。海水または内陸の泉からのかん水は火に架けられたこれらの容器の中で蒸発し、塩の塊が残った。

 リンカシャー、東アングリア・フェンランド、エセックス海岸に沿って鉄器時代のブリクタージの広範囲な発見があった。ここで海水は幅60 cm、長さ120 cm、厚さ約12 mmの陶器製平釜で濃縮された。その後、濃いかん水は柱で支えられた小さな陶器製容器で蒸発され、容器を壊して塩の塊を得た。チェシャーとウスターシャーにある製塩場の考古学的遺跡は、海岸にあった製塩場と比べたとき、ブリクタージで比較的少量を生産していた。出来上がった塩は、それが作られた独特の粗雑な陶器製容器で配送されたように思える。したがって、これらの容器から成るブリクタージはウェールスや西イングランドの広い地域にわたって鉄器時代の居住地で発見されてきた。

 ミドルウィッチとナントウィッチの間の粘土層はこれらの鉄器時代の場所で発見された破片から陶器を作るために使われていたことを示した。考古学者もミドルウィッチとナントウィッチの間の地域で鉄器時代の製塩の証拠を発見してきた。

 ミドルウィッチでの発掘で、かん水を加熱する鉄器時代タイプの陶器製容器をのせる炉が発見された。

 

ローマ時代

 ブリテンでミドルウィッチ、ナントウィッチ、ノースウィッチのローマ人は鉛製の塩釜を使い、ミドルウィッチとナントウィッチの発掘は広範囲な製塩集落を明らかにした。

 ローマ兵士は一部塩で支払われた。このことからソルジャーと言う言葉は-塩を得ることを意味する‘サル・デアー’から来ていると言われる。同じ語源から、サラリーと言う言葉は‘サラリウム’から来ている。

 塩は希少物資で、高価な日用品であり、その価値は伝説的であった。上手または下手に座るために宴会で人の地位に従って席の配置で塩は上席を明らかにした。人の塩程の値打ちもないことは大きな屈辱であった。聖書は‘地の塩’であるとしてある男達をほめている。

 ローマ征服時代に、イギリスの製塩場は数多くの沿岸地やチェシャーやウスターシャーの内陸の塩泉で長く設立されてきた。塩はローマ軍隊に対して欠かせない日用品であり、この需要は軍の製塩場を設立することで満たされた。内陸の製塩場で、ほぼ飽和に近いかん水は、薄い塩水の海水を蒸発させるよりも塩を作るのに少ない燃料と時間で済む。

 北部へのローマ軍の進行は紀元前約60年までにチェシャーに到達し、チェシャーとミドルウィッチに軍事基地を設置した。チェシャーは供給地であり、軍の鉛と銀鉱山のあるノースウェールスの管理には便利な軍事基地であった。ミドルウィッチでデーン川の上流に防御基地の砦を建設し、ここは北への主要な軍用道路にある準備基地となった。ミドルウィッチでローマ人は軍事砦と存在するケルト人の製塩集落との間のクロコ川のそばの土地に製塩場を作った。

 ミドルウィッチとナントウィッチの両方で、遺跡発掘で皮革製造場、陶器製造や加工木材、粘土を詰込んだピットのようなローマ時代の多くの発見物が見つかった。しかし、両場所には多数のブリクタージはないように見えた。ブリクタージは他の製塩場の特徴であり、鉄器時代/青銅器時代の居住を示す物であった。ミドルウィッチでは初期の製塩を示すいくつかのブリクタージが発掘されたが、ナントウィッチで2002年の遺跡発掘では、初期または後期の居住地にはないローマ時代の鉛製平釜が発掘されている。しかし、平釜を支える基礎構造物の証拠はなかった。

 

アングロサクソン時代

 鉄器時代からローマ時代と中世時代を通して、そして20世紀までドロイトウィッチの同じ場所で連続的に塩生産されてきた。

 しかし、チェシャーでナントウィッチとミドルウィッチの両場所における最近の考古学は、ローマ人が緑地に新しい製塩所を建設し、その後、そこは放棄されて農業地になったことを確認した。

 これは5世紀に始まったのか、または従事中でも可能であったかのいずれかである。一つの説明は、これらはローマ軍の製塩場であり、自分達の必要性のために塩を供給していた、一方、ローマーノ‐ブリティシュ塩製造者達は近くにケルト人が建設した製塩場を長く占領し、現地の人口とウェールスに来て北に旅する旅商人の伝統的な必要量を供給し続けたことである。これらの長く設立された製塩場はそのうちに中世の‘ウィッチ’になった所であった。

製塩とドゥームスデーブック(土地台帳)

 製塩は最初、ウェールス人が管理した時代を通し、その後、アングロサクソン・マーシアの一部としてローマ人のチェシャー後に続いた。交易の同じパターンが続き、後にこれは北からのバイキングの影響を受けた。チェシャーにおけるアングロサクソン製塩の最初の記録が1086年のドゥームスデーブックで発見される。

 1086年にチェシャー“ウィッチ”の塩産業は1070年の暴動後にウィリアムによって打ち壊された廃墟からゆっくりと修復された。しかし、ドゥームスデー委員達の仕事は潜在的な価値を調査することで、彼等は“エドワード王時代の”製塩と販売の財政管理の存在する記録を利用した。アングロサクソン規則の数世紀中に発展してきて長い間に確立された産業がどうでなければならず、ローマ人の管理要素を保持できたかをこの記録は述べている。この期間中に技術的な変化はほとんどなかった。

 ドゥームスデーもアングロサクソン製塩の他のひとつの秘密を明らかにしている。今ではないが、ブルワーデストンの領地に製塩場があったが、ウェールスの離れた部分であるメラー・サイセグのイスコイデの領地であると考えたことを我々は学ぶ。1086年にそこはロバート・フィッツフーに支えられたが、司教によって要求され、1094年のセント・バーブルグの財団憲章によると、ロバートは製塩場をアベイに返し、その後、それはフルウィッチ四番目のチェシャーの“ウィッチ”として知られるようになった。

 ドロイトウィッチで委員達はウースター・ドゥームスデーに協定上の登記をした。町とその製塩場は“無駄”にはならず、多分、1066年以前より変わらないで続いてきた。

海岸の製塩

 ドゥームスデーはまた、リンカンシャとコーンウォールの間の海岸に沿って海岸の製塩場を所有している彼等の領地も記録している。そのような領地の数の引用された推定値は約300 – 1195ヶ所であったが、どんな数値であろうと、相当な数字であった。主要な濃縮地はリンカンシャ-東アングリアン沼沢地と南海岸にあった。

 イングランドの海岸製塩は天日蒸発の利益を得て、季節稼働の傾向であった。しかし、乾燥した塩を得る最終段階は火にかけてかん水を蒸発させることであった。最初は陶器の容器で、後に鉛製の釜となった。沼沢地の排水の結果として、これらの場所の多くは今や数マイル内陸にあり広範囲な考古学の対象物となってきた。

 

ノルマン人と後期中世

 ローマ人が占領した後、数千年間も生産法は変わらないで残ってきた。塩炊きは儀礼と伝統によって束縛されていた。血液または卵の白身は懸濁液を凝集させるために凝集剤として使われた;多分、尿は浮遊選鉱剤として使われた。

 19世紀まで、塩の主要用途は冬の数ヶ月間、食品を保存するために使われた。塩は多分、最初に交易された日用品であった。その土地で塩が採れなければ、馬の背や船(または砂漠ではラクダのキャラバン)によって遠くから持ってこなければならなかった。

 ノルマン人が来てもチェシャーの製塩産業にすぐさま変化はなかった。3ヶ所の“ウィッチ”は王(現在のウィリアム)とアングロサクソンのアール・エドウィンによって同じ様に維持され続けた。しかし、これらは全て1070年の反乱とウィリアムの崩壊に従って郡の所属になった。短期間、フラマン人の貴族ガーボッドがチェスターの伯爵であったが、1年後に彼は家に帰り、ウィリアムの甥アブランシェスのヒューゴが最初のノルマン人伯爵になり、彼の男達の間で郡の領地を分け、ノースウィッチとミドルウィッチはヒューゴ伯爵の領地として維持され続けたが、Hundred of Warmundestrouにある(ナントウィッチになる時に)不特定の第三のウィッチはウィリアム・マルバンクに譲渡され、ウィッチ・マルバンクとして知られるようになった。統治権の変化にもかかわらず、アングロサクソン法律と製塩の習慣は維持され続けたことを我々はドゥームスデーから知れる。

失われた“ウィッチ”

 チェシャーはアングロサクソン時代に別の“ウィッチ”を獲得したこともドゥームスデーは明らかにしている。ブルワーデストンの失われた領地の登記は、チェスターの主教に所属してきたと主張されている製塩所を含んでいる。しかし、ヒューゴ伯爵は製塩所のある領地をロバート・フィッツフーに与え、チェスターのセント・バーブルグの新しいAbbey1094年の財団憲章は、“フルウィッチの”製塩所はロバート・フィッツフーの贈物の中に含まれた、と記録されている。ブルワーデストンは今日のイスコイデのタウンシップと明らかにされてきたが、そこは今ではチェシャーのメェラー・サイセッグ、フリントの飛地、ミグランドのタウンシップの隣接地である。

 フルウィッチかん水ピットは高地と低地フルウィッチとして知られているウィッチブルック谷に沿った二つの村落にあった。1284年のルドランのスタチュートに接してフリントが作られ、川はウェールスとの境となったが、フルウィッチの名前はそのまま残された;多分、かん水ピットが川の両側にあったからだ。中世後期にはフルウィッチの名前はダートウィッチに変えられた。

 ドゥームスデーによると、3ヶ所のチェシャーの町は1071年に荒廃し、1086年までに一部だけ回復された。他方、ウスターシャーのドロイトウィッチはノルマン人征服の結果としてあまり損傷されなかった。ウスターシャーのドゥームスデーは318ヶ所の製塩所を記載しており、鉛製の釜の存在、鉛鍛冶屋、溶鉱炉、薪の必要性にもおよんでいる。しかし、これらはチェシャーの製塩所と同じ様であったけれども、法律の記述はない。この時期と1086年前に、ドロイトウィッチは内陸の塩生産の最も重要なセンターで、チェシャー全体よりも多くを生産した。

人口と塩需要

 歴史を通して、また産業革命まで、製塩の主な理由は冬の数ヶ月間のために食品を保存することであった。現地で塩が得られなければ、馬の背中または船[砂漠ではラクダのキャラバンで]遠くから得なければならなかった。塩は多分、最初の交易日用品であった。

 明らかに、塩需要は人口の大きさで変わる。1066年と14世紀半ばとの間で、イングランドの人口は大体2倍になり、したがって、塩需要も2倍になった。

 ウスターシャーとチェシャーに加えて、多くの海岸の製塩場があった。これらはリンカシャーとノーフォーク沼沢地と特に南海岸に沿ったサセックスに最も多くあった。これらの海岸センターは大陸と共に白い塩の著しい輸出交易を維持しており、これは海岸産業繁栄の主要因であった。ドロイトウィッチやチェシャーの内陸塩産業は地方で重要のままであった。陸地の輸送費は、陸送でロンドンに来る塩は裕福な人だけに手頃な価格であった。イギリスの塩は主に海岸の製塩場からロンドンに行くが、塩の主要給源はビスケー湾であった。

 1152年にヘンリー二世のアキテーヌのエレアノールとの結婚で、南西フランスの広大な領域がイギリス主権の下になった。ガスコンのワインとビスケー湾の塩について確かなイギリスと北ヨーロッパ市場があった。この交易はロンドンと南部イングランドを通してイギリスへの輸入があった13世紀を通して繁栄した。ロンドンで塩商人の交易はブレッド通り地域に集中しており、ここで相互援助のために彼等は製塩者組合を作った;後に主要都市の同業組合となった。

かん水添加物

 鉛製釜の大きさと平釜製塩の技術は1千年間にわたって本質的に変わらないで維持されたが、かん水への添加物として血液、卵、エール(一種のビール)の使用を述べた唯一残っている記録は16世紀から始まった。これらの添加物中のタンパク質は浮遊選鉱法によって地下からの濁ったかん水を清澄にするために役立った。その方法では、細かい浮遊している固形物を集めて取り除く。“浮遊選鉱法”と呼ばれるこの技術は鉱物処理で今日でもまだ使われている。デ・レ・メタリカのアグリコラは16世紀初期のサクソニーでかん水添加物として血液、卵、エールの使用を述べている。チェシャーとサクソニーの両方でこれらの添加物の一般的な使用は一致しており、ローマ人の征服まで遡る。

 

チューダー王朝の塩とスチュアート王朝期間

 チューダー王朝とスチュアート王朝期間までに、イングランドの人口は黒死病以前の数値に回復した。塩はフランスや南部イングランドの海岸製塩所からロンドンへまだ運ばれたが、16世紀までに著しい量の塩がスコットランドから来た。そこは安い海岸の石炭と鉄釜で海水を蒸発させた。

 1560年代に、スコットランドの習慣をまねることを探していたエリザベスは新しいタイプの鉄釜の使用に特許を与えた。それはタインサイドの塩製造者に輸入塩に勝る市場の優位性を与えるからだ。成功しなかったけれども、その後のチューダー王朝とスチュアート王朝の経営者は海岸製塩を奨励する試みを繰り返し行ってきたので、イギリスで必要な全ての塩はイギリスやスコットランドの製塩場から来た。17世紀までに、これは製塩会社との交渉を含めた。その会社は主要な東と南海岸の塩製造町の塩交易者が参加していた。

チェシャーの塩産業

 一方、ドロイトウィッチとチェシャーの内陸の塩産業は北と西の内陸地域に供給をし続け、ロンドン市場にわずかな影響を及ぼした。鉛製釜でかん水を煮詰めて作られた細かい塩は粗い海塩よりも漁業用の用途には不適と考えられ、高い輸送費のため、ロンドンの相場には明らかに合わなかった。

 チェシャーの塩産業が直面していた他の問題は製塩に燃料として使う薪が次第に不足してきたことであった。人口が増加してもっと農地が必要となり、南からチェシャーに移動してきた鉄産業が必要とする木炭を生産するための木材需要と競合したために、管理された低木森林地はプレミアムが付いた。

 

技術と近代初期の変化

 約1620年代までに、釜を焚く木材の費用のために製塩を持続できなくなり、チェシャーの製塩者は東チェシャーのリンカシャー鉱山や北スタッフォードシャーから容易に得られた安い石炭に変えなければならなかった。

 しかし、鉛製釜で製塩する伝統的な方法で石炭の使用はしばしば鉛を溶かすことに気付いた。ウォーリングのチェシャー規則は製塩時間を制限した。その目的は利用できる時間内にできるだけ早くかん水を蒸発させることであった。ハンチントンの伯爵は1635年にナントウィッチを訪ねた時、幾つかの製塩者がほとんど毎日釜の漏れを修復することに気付いた。その結果、鉛製釜から鉄釜に次第に変わっていった。

 かん水はオーバーヘッド・システムで木製導管により各製塩所に配られた。導管の数は1回川を渡り共同貯水槽に移すように制限された。1624年に壁に囲まれた土地の調査で、大きな森林通りと小さな森林道路の間に“共同の貯水槽”があり、一杯の長さに広がっていることを知った。釜の下の火は“walling in kale”と呼ぶ決められた期間だけ燃やされることが許された。与えられた時間で製造できる塩の量は限られていたので、塩の生産量は限られた。

鉄釜の導入

 鉄釜は約16201630年の間にチェシャーに導入された。およそこの時期、王立森林の燃料貯蔵は急速に減って、木材伐採の管理は逼迫した。

 ローマ時代以来、鉛製釜は適切に標準サイズであり、最初、Wallingのナントウィッチ支配者は同じ大きさの鉄釜に置換えることを要求した。全ての釜は標準サイズで、Wallingの支配者は彼の“物差しで”チェックした。しかし、チェシャーを通して昔の管理は次第に崩壊して鉄釜の大きさは大きくなった。

 鉛製釜から鉄釜への変化は不利益がない訳でもない。鉛製釜は腐食しないし、容易に制作でき、さらに古い釜は新しい釜に容易に再製できた。他方、リベット止で作られた鉄釜は製作費は高く、かん水で腐食され、錆は塩に色を付けた。それらは鉛製釜のように再製できなかった。

塩田の拡張

 早くも1620年代に、マンチェスターの南のダンハム・マッセイ地のボリン谷でブース家族と、ナントウィッチの北方ウィーバーのそばの彼等の土地にスミス、ニーダム、デルブス家族によって製塩場が作られた。これらの製塩場は1個の大きな鉄釜と石炭火力を持っており、同様の改造はミドルウィッチとノースウィッチでも行われた。

 17世紀には、手、水車、または馬のいずれかで作動するかん水ポンプが広範囲に採用された。そのようなポンプは約1550年のアグリコラのデ・レ・メタリカに描かれている。

1669年にノースウィッチで、リバーズ伯爵は丁度、町境界の向こうのレフトウィッチ・アイに3基の大きな鉄釜を持った製塩所を建設した。釜は連続的に塩需要に従い石炭を利用して稼働されたことが生き残れた理由である。塩はせんごう工場のロフトに積み上げられ、石炭は冬の数ヶ月間のために備蓄された。Wallingの規則に関する記述はない。卵、血液、エールはかん水を清澄にするためにまだ使われ、内陸製塩のこのパターンは次世紀でも続いたが、釜の大きさは大きくなった。

 他の製塩町で“自由交易”の発達にもかかわらず、ナントウィッチは1695年のWalling規則に従って作業するように努力していた。当時、占有者であったサミュエル・アクトンは彼の壁に囲まれた土地に新しいかん水ピットを掘り、何の規則にも従わずに連続的に塩を作り始めた。町は、アクトンが訴訟で勝った最高裁判所判決を持ってきて、町を破産させた費用を賠償させた。アクトンは製塩者として事業を続け、町のピットを引き継いだ。しかし、これは大きな塩の町としてのナントウィッチの本質的に終焉であった。

岩塩精製

 リバーズ伯爵は荷馬やしばしば荷車で石炭を得ていた。多くはランカシャーから来たし、いくらかはピカーリングスが満潮になった時、船でウィーバーに荷揚げした。近くの石炭供給場を探している時、1670年に岩塩がナントウィッチ近くで発見された。その発見はアダム・マルチンダーレから王立協会への‘Philosophical Transactions’の16701212日の手紙に書かれていた。

イタリック文章省略

 1690年代までに、その地域で幾つかの岩塩坑道が掘られ、褐色の岩塩が水に溶かされて再結晶により白い塩に精製された。リバプールの商人は、海水からの再結晶は10%の節約になることに素早く気付き、精製工場をリバプール、ダンゲオン、フロッドシャムのメルセイ河口域に建設した。他の工場はディー河口のヒルブレに建設された。

海岸の製塩

 海岸の製塩は17世紀に繁栄し、特にカンバーランド、エアー、タインサイドファイフのような海岸の炭田があるところで、そこでは国王が革新を奨励し続けた。この革新の一例の明らかな理由は1635年のウィリアム・ブレレットン卿の“トラベルズ”に見られ、その中で彼はシールズの新しい製塩場を彼の義兄弟ダンハム・マッセイのウィリアム・ブースの製塩場になぞらえている。

 南部イングランドの伝統的な塩貿易港で交易は続き、製塩は輸入と“塩再製”工程により灰色のベイ・ソルトの再結晶で拡大した。チェシャーの岩塩発見は新しい好機を提供し、チェシャーの白塩製造者の警報に対して数多くの精製所が設立された。さらにチェシャー以外の沿岸の精製所の増加は1702年条例によって妨げられた。

 製塩は塩釜を加熱し、かん水から水を蒸発させるために大量の木材を必要とした。この結果、チェシャーの森は著しく減った。ランカシャーとスタッフォードシャーの石炭が塩釜の代替燃料としてチェシャーのウィッチに届き始めた。石炭を運んでくる同じ荷馬隊列が南部ランカシャーや陶器製産地の成長している市場に塩を持って行った。

 チェシャーの木材の払底と燃料を得る必要性から、リバプールの商人が非常に保守的な塩交易の足場となった。彼等は制限法で欠陥だらけの“煤煙で曇った”汚い活気のない町からノースウィッチをイギリスの塩生産の中心に押し上げた。

 

塩と化学革命

 塩産業に及ぼした化学革命の影響は巨大であった。

 塩抽出法と精製法の改善と新しい塩用途の発見がもたらされた。非常に広範囲な事項をカバーするために、塩の歴史のこの章を次の章に分ける:

18世紀、19世紀、そして20世紀の製塩

  18世紀の製塩-内陸の白塩

  18世紀の製塩-平釜製塩技術

  19世紀の製塩-製塩技術の発展

  19世紀の製塩-企業家

  19世紀の製塩-貿易のしきたり

  20世紀の製塩

貿易に及ぼす影響

  塩と塩税

  工業化学品としての塩

  塩税後の製塩

塩生産の発展

  アンモニア・ソーダ法

  イギリスにおける真空式蒸発法の発達

  かん水の電気分解

  ルブラン法

  塩を原料にした化学工業


    真空式蒸発法

  真空式蒸発缶の設計と操作