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18世紀の製塩-内陸の白塩

Eighteenth Century Salt Making Inland White Salt

ヨーロッパ塩生産者団体のホームページ「Salt Association」より

 

18世紀の内陸白塩製造は家庭需要の増加と奴隷貿易に伴うブリストルとリバプールの財政困難に刺激された輸出市場の拡大とともに成長した。

 

 リバプール商人が支えた18世紀のお主要な出来事は1721年のウィーバー航海条例の通過と173211日から始まったフロッドシャムとウィンズフォード間の交易に対するその後の航海法の適用であった。何トンもの岩塩と白塩がウィーバーから積み出され、それらの総収入は現在チェシャー記録所にあるウィーバー・アカウント・ブックに記録されている。塩務局局長の1733年報告書は、26ヶ所の製塩所からミドルウィッチに集められた(すなわち、ミドルウィッチとウィンズフォードを合わせた塩)白塩の交易は17ヶ所の製塩所を持つノースウィッチを既に凌駕していた。ウィンズフォードはミドルウィッチに集積した塩の既に重要な部分を占めていたが、航海条例の開始によってウィンズフォードの貢献は急速に拡大した。1721年のウィーバー航海条例に対する補足でナントウィッチと同じほど遠いウィンズフォードの上流まで航海を広げ、ナントウィッチとミドルウィッチとの間を航行できるデーン川を作ろうとした。しかし、これらの計画は具体化されなかった。

 ウィーバー航海条例はナントウィッチとウィンズフォードの製塩所に大きな利益をもたらしたが、1777年のトレントとマージー運河の開通でミドルウィッチと、ロートン、ラフウッド、フィーロックのフィーロック谷に沿ってある

製塩所の戸口まで水運できるようになった。ミドルウィッチ下流では、ブラインドレイズ運河は境界線まで達し、ミドルウィッチとプレストン・ブルックとの間の最後の20マイルについては障害はなかった。ルートはノースウィッチの北側を周る運河を通り、アンダートンのウィーバー航海が閉鎖される前に岩塩抗とウィンシャム、マーストン、マールバリーの製塩所に通ずる水上輸送であった。これはウィーバー船まで輸送するために便利であった。

 製塩釜の大きさは18世紀を通して拡大し、ポンプ技術が進んで深いかん水井戸を掘って清澄で濃いかん水を汲み上げらえるようになった。1712年にニューコメン・スチーム・エンジンが考案されたが、チェシャーかん水をポンプで汲み上げたエビデンスはない。増加してくるかん水必要量には馬力または水車で多分、十分であった。かん水ポンプを駆動する最初のスチーム・エンジン(消防ポンプ)と実際にボルトンとワットの最初のチェシャー契約は1777年にエドワード・サルモンの新しい製塩所に提供された。それはサールウッドのトレントとマージー運河の側にあった。これは1775年のワットの特許に基づいたレシプロエンジンであった。エドワード・サルモンの新しい工場は、谷間の下流のロートン側にある17世紀のロートン製塩所の存在まで拡大されて建設された。

この新しい製塩所からの生産量の多くはウィーバーで積み換えてリバプールまで送るために運河でアンダートンに運ばれたが、それよりも東方面のポッテリーズ以遠まで著しい交易もあった。1790年代まで、ロートン製塩所は塩を国の運河システムでパディントン・ベイスンの倉庫や運河のトレント終点にあるシャールドロウの倉庫に運んだ。ここから塩はさらに遠くハルまで船積みされた。

それでもナントウィッチ集荷では、ラフウッドの新しい運河横の製塩所と一緒に新しいロートン製塩所は僅か2ヶ所の小さな製塩所があるだけのナントウィッチの塩生産を完全に低下させた。ロートン製塩所は、ミドルウィッチではまだ使われていたが古い柳の小枝で作った籠に塩を入れて船積みするためにヘッシアン袋の導入で信頼された。エドワード・サルモンは彼の妻のお蔭で製塩所の所有者となった。彼女は17世紀以来そこで製塩してきたロウンデス一族の最後のメンバーであった。