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ルブラン法

The Leblanc Process

 

ヨーロッパ塩生産者団体のホームページ「Salt Association」より

 

 1760年代から、アルカリ生産用の原料として塩の使用に関心が増加した。1768年の法律は税率を大きく下げて農民によって肥料として汚れた塩や平釜スケールを使えるようにした。一方、エジンバラでジェームス・ワット、ジョセフ・ブラック、ジェームス・キーアはプロセスを積極的に研究し、原料の塩を無税にするように議会に働きかけた。1771年にジェームス・キーアはソーダを作る特許についてあまり上手く応用できなかったが、それにもかかわらず、原料として硝酸製造からの廃棄物である硫酸カリウムと硫酸ナトリウムを使うプロセスを推進した。原料は生石灰と反応した。彼は当時有名であったスタッフォードシャーのチップトンでアルカリと石鹸工場を建設した。これらの安い硫酸塩の副産物を使ってキーアは塩のかかる高い消費税を逃れたが、彼のプロセスは遅く、収率が悪かった。ワットは蒸気動力のために化学工程をあきらめ、彼のパートナーであるマシュー・ボールトンと一緒に当時同じ様に有名であったソーホー鋳物工場を建設した。

 他の重要な進歩はロンドンの物理学者で化学者であるジョージ・フォーダイスの進歩であった。彼は塩と硫酸との反応で塩酸と硫酸ナトリウムを製造するためにサウス・シールズに工場を建てた。ここは塩からアルカリ生産に向けて最初の大きなステップとなった。しかし、フォーダイスの主要目的は、伝統的なバターミルクに対する代替物として使われてきたおよそ30年間も使われてきた“濃硫酸”に対する強力な漂白剤として“海洋性酸”の供給であった。ここは塩からアルカリへの化学工程の重要な第一段階となった硫酸ナトリウム(ソルトケーキ)の生産地となった。再び収益性は塩税によって脅かされ、塩についての塩務局と国会の両方に対するフォーダイスの1780年請願、無税は関税委員会によって阻止された。彼等は輸入バリラやカリウムで得ていた高収入に対する脅威として請願を見ていた。結局、1782年にガラス製造で使われる硫酸ナトリウムに関して無税の特権を与えられたが、生産されたアルカリは全てトン当たり20sの課税を課せられた。

 一方、1775年のフランスでは、ジョセフ・ブラックと取引してきたオルレアンのデュークは塩からアルカリを作る工程に対して賞を提供し、1783年にこれはニコラス・ルブランに授与された。特許は1791年に与えられ、デュークはセント・デニスに工場を建設した。しかし、デュークは1793年に処刑され、工場は没収された。1802年にナポレオンによって返されたが、ルブランは困窮していて工場を操業できず、1805年に自殺した。しかし、彼は化学革命の中心となった工程に彼の名を残した。イギリスでは、ルブラン法に非常によく似た工程が既にジェームス・ケアーと何人かの他の化学品製造者達によって操業されていた。ロード・ダンドナルドや他の人と協力してウィリアム・ロッシュはルブラン特許に等しい工場を1795年にタインに建設した。しかし、これらの進展の全ては高い塩税によって不利な状態に置かれ、塩税は追加的な戦時歳入を確保するためにピットによって上げられた。1796年に、ピットは塩務局業務の自由なレビューを指定し、1798年に塩務局は解体され、塩税行政は消費税委員会に返された。

 ナポレオン戦争の終戦は拡大したアルカリ工業からの塩税廃止の圧力増加をもたらした。特にスコットランドとタインであったが、タインではルブラン法がフル操業しており、1823年にジェームス・マスプラットはヴォクスホール・リヴァプールにアルカリ工場を建設した。塩税廃止運動は税金の全体的な非効率に焦点を置いた議会の質問に従って成功し、1823年から塩税は次第に減らされ、1825年に完全に廃止された。

 塩税の廃止は塩産業の急速な拡大を刺激し、特に急速に成長している化学工業から増加した市場需要を満たした。チェシャーでは大規模な塩工場がウィンズフォードならびに運河がウィーバーの近くを通っているアンダートンのトレントとマージー運河に沿って建設された。ミドルウィッチのフィールロックとロートンのトレントとマージー運河に沿ったどこでも、運河は長く建設された塩工場のそばを通っており、これらの工場は新しい命を与えられた。皇帝の成長とともに、チェシャーの塩は世界中に輸出され;西アフリカ、(奴隷貿易の遺産)と北アメリカ、インド、オーストラリア、ニュージーランド向けであった。

 運河網の拡張と特に鉄道の建設は陸上輸送を安くし、それによりチェシャーとウースターシャーの塩製造者は低価格の塩を国中に配送することができた。内陸と海岸の小さな塩製造者は競争できず、次第にビジネスから撤退した。

 日常品に関連した食品であることから、白塩は拡大している漂白工業とルブランのアルカリ工業用の支配的な化学原料となった。これには未乾燥の散塩が最も適していた。典型的な大きさの25フィートx100フィートの平釜が伝統的な湾の塩に匹敵した粗い漁業用の塩も生産できた。

 19世紀における塩産業の拡大は必然的に過剰生産と不安定な価格をもたらし、生産と価格を管理するための貿易協会を作る継続的な試みがあった。1880年代までに、化学品生産用の塩需要はかん水を原料にしたアンモニア・ソーダ法アルカリ工業の拡大からの競争で低下し、海外の国々が自国で塩産業を発展させるにつれて輸出は減少した。1888年にこの状況は産業界の約90%を買収してソルト・ユニオン社を作る結果となった。白塩製造者とルブラン法によるアルカリ製造者の両方による順位を近づける必要性は1888年にソルト・ユニオンを、1890年にユナイテッド・アルカリ社を設立する結果となり、それぞれは彼等のそれぞれ業界の約90%を占めていた。