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19世紀の製塩-企業家

Nineteenth Century Salt Making The Entrepreneurs

ヨーロッパ塩生産者団体のホームページ「Salt Association」より

 

塩税の終焉に続く数年間は企業家に魅力的であり、塩産業の新しい財政自由度の利点を利用し、化学的技術に基づいた新しい塩を探した。その一人はウィリアム・ファーニバルであった。

 

 約1811年のドロイトウィッチに近いストーク・プライアーで運河建設中のかん水泉の初期の観察でウィリアム・ファーニバルは上手く岩塩とかん水を発見させ、彼は1820年代半ばに運河のそばに新しい製塩所を作った。沸騰かん水からの蒸気の熱を利用することによって平釜法の効率を上げるためにおよそこの時期に数多くの特許が取得され、ウィリアム・ファーニバルは新しい技術を採用した製塩所を実際に建設することによって顕著であった。

 ストーク・プライアーに彼の特許製塩所建設後に、彼はチェシャーに移り、そこでウィンズフォードとアンダートンに“特許製塩所”を建設した。彼の製塩所は生き延びたが、ファーニバルは同意された市場価格を下げて他の塩製造者の不興を買った。彼の生き延びた事実の声明に従って、伝えられるところでは彼は他の製塩者の関心によって“でっち上げられ”、刑務所で最後に聞かされた。約1830年のファーニバルの製塩所は、単に日用品に関連した食品としてだけでなく、化学工業用として新しい塩需要を満たすために建てられた多分、最初の物であった。

 新しい製塩所の成長は必然的に過剰生産を来した。幾つかは失敗し、または持ち主が変わり、一方、他の製塩所は生き延びた。1888年に製塩所の90%以上が合併してソルト・ユニオンを形成するまで、そのような問題は世紀の大半にわたって産業に付きまとった。

 ストーク・プライアーでは、製塩はジョン・コルベットの下で整理されてきた。彼は成功し、1880年代までに主要なイギリス塩製造者になった。1880年代に、コルベットのストーク・プライアー製塩所とウィンズフォードのジョセフ・ベルディンの製塩所は新しい複合企業のはるかに最も価値ある事業所となった。それぞれは60万ポンド以上の価値であった。

 ルブラン法アルカリ工場が製塩所と一緒に建設されるのは一般的ではなかった。他の重要な原料が石炭、石灰石、硫黄であったからで、水運によるこれらの入手が重要であった。チェシャー・ソルトに基づくアルカリ工業のために、マージーサイドはランカシャーの石炭、北ウェールスの石灰石、シシリーと後にスペインから輸入される硫黄が容易に入手できる理論的な場所であった。初期のアルカリ工場はストーク・プライアーに建設されたが、次第に利益が出なくなり、閉鎖された。