アンモニア・ソーダ法
The Ammonia-Soda Process
ヨーロッパ塩生産者団体のホームページ「Salt Association」より
19世紀初期に、かん水とアンモニアの混合を通した二酸化炭素の泡は重炭酸ナトリウムを得て、それはキルン加熱でソーダ灰に変えられるとこは既に知られていた。何人かの研究者達によって反応が調査されたが、これを工業規模にまで到達させた最初はアーネスト・ソルベーであった。1873年にブルナーとモンドはベルギーのソルベー社からアンモニア・ソーダ法の許可を取り、ノースウィッチのウィニングトンに工場を建設した。
これは塩からソーダ製造でルブラン法よりもきれいでより効率的な方法であった。さらに、ルブラン法は白塩の供給に基づいていた。アンモニア・ソーダ法はかん水を使い、したがって、蒸発コストを節約した。他の原料は石炭、生石灰、ガス工業からの液体アンモニアであった。
ブルナーとモンドはソルベーからのイギリスの権利を有利な王の特権と交渉した。特権は1873年にサンドバッハ近くのマルキンズ・バンクのアンモニア・ソーダ工場を建設した競合会社には適合されなかった。会社は利益を出すことが出来ず、1880年にブルナーとモンドによって買収され、彼等の第二工場となった。
塩産業のこの合併と塩を原料とした化学工業にもかかわらず、いくつかの会社は独立したままで、新しい企業家が産業に参入した。新しい塩工場がナントウィッチ、ミドルウィッチ、サンドバッハに建設され、アンモニア・ソーダ工業のブルンナー・モンド独占を破るいくつかの試みがあった。後者のほとんどは失敗し、ブルンナー・モンドに吸収されたが、最終的にユナイテッド・アルカリ社によって達成された。同社は同社のフリートウッド製塩工場に隣接して大規模で成功したアンモニア・ソーダ工場を建設した。ここはプリーサル・ソルトフィールドからかん水を得た。そこでは会社がアメリカン・オイル工業から得たカリフォルニア掘削装置を使うコントロールド・ポンピング技術を開発した。
そのうちに1884年にミドルウィッチのチェシャー・アルカリ社はミドルウィッチに混成アンモニア・ソーダ・ルブラン工場を建設し、1891年にボーマンとトンプソンはナントウィッチ近くのロストックに同様のアンモニア・ソーダ・ルブラン・アルカリ工場を建設した。両工場は1910年後半にブルナー・モンドによって次第に買収された。チェシャー・アルカリ工場は閉鎖され、ボーマン・トンプソン工場は最初の漂白粉と塩酸設備を持ったブルナー・モンドに提供し、塩素市場に参入した。これは、ブルナー・モンドがウェストン・ポイントのカストナー・ケルナー工場とミドルウィッチのエレクトリック・アルカリ工場を買収して10年後の1919年まで続いた。
1892年にマーガトロイド・アンモニア・ソーダとソルト・シンディケートは最近発見された天然かん水の供給に基づいてミドルウィッチに大規模なアンモニア・ソーダ工場を建設した。この工場はブルナー・モンドによって所有され、1962年まで操業が続いた彼等のミドルウィッチ工場となった。マーガトロイド・シンディケートの主支配者はマンチェスターのブラックレイ・ダイワークスのイヴァン・レヴィンスタインであり、彼はノースウィッチ近くのプラムレイに次の独立アンモニア・ソーダ・ヴェンチャーも指揮していた。アンモニア・ソーダ会社(AMSCO)は1908年に設立されたが、これもブルナー・モンドによって買収され、1919年までに閉鎖された。
イヴァン・レヴィンスタインに所属し、彼の息子のハーバート・レヴィンスタインから買収されたブリティシュ・ソーダ工場を建設するために1916年に買収したスタブレイ工場が主幹工場であることは興味深い。