かん水の電気分解
The Electrolysis of Brine
ヨーロッパ塩生産者団体のホームページ「Salt Association」より
かん水電解の化学は19世紀の始めにデイヴィーとファラデーによって示されていたが、工業規模(塩素、カ性ソーダ、水素の製造)のかん水電解は工程で要求される高電流を供給するダイナモ・ケーブルが1870年代に発明されるまで待たされた。
電解槽の開発研究は1880年代に始まった。2つの基本的なタイプが研究された;“水銀法”と“隔膜法”であった。1892年に、イングランドでカストナーとベイカーはロッキング水銀槽の特許を取り、一方、オーストリアではケルナーが同様の設計の水銀槽の特許を取った。ベルギーのソルベーに同意した1895年の特許に続いて、(その後、特許権をケルナー・セルに渡した)カストナー・ケルナー社が設立され、1897年にランコーンのウエストン・ポイントに大規模なロッキング・セル装置が建設された。北アメリカの特許権はマシーソンによって許可され、ロッキング・セルの大きな装置が同じ年にナイアガラ滝に建設された。
カナダではル・スール隔膜装置が1893年にラムフォード滝で操業を始め、電解カ性ソーダが世界で初めて市場供給された。この同じ年に、ハーグリーヴス-バード隔膜槽の小規模な装置がウィドネス近くのファームワースで操業した。1901年にエレクトリック・アルカリ社が設立され、ハーグリーヴス-バード隔膜槽の大きな装置がミドルウィッチのクレッドフォードに設立された。
この工場の公式記録はICIの設立とその後の工場閉鎖によって1930年代に残念ながら失われた。前述したように(真空蒸発法参照)、この工場は最初の商業規模の多重効用かん水蒸発缶を建設し、純粋な真空式せんごう塩は、電解槽からの薄いかん水をその後、電槽に再循環させるために飽和にしなければならないためには最も適しているように思われる。ウエストン・ポイントでは、水銀かん水電解槽からの薄いかん水は干潮のマージに排出されるだけであった。
1890年代のかん水電解法の開発は、塩を原料にした化学工業のパターンにさらに変化をもたらした。ルブラン法とアンモニア・ソーダ法の両方はナトリウム由来の製品と塩素由来の製品(または廃棄物)を別々の段階で生産し、生石灰-ソーダ法によってソーダ灰からの転換によって需要のあるカ性ソーダだけを生産した。他方、電解法は同じ収量でカ性ソーダ、塩素、水素を生産した。必要なければ、水素は大気中に放出される一方、カ性ソーダ(腐食性の液体)と塩素(毒性ガス)は両方とも備蓄問題を持っており、二つの製品について理論的に同量のすなわち、バランスの取れた市場需要を要求した。
電解法の始めの頃、塩素は生石灰に吸収させて主に漂白粉に転換されたが、1903年までにカストナー・ケルナーが液体塩素市場を調査し、ドイツから液化ガスのボンベを輸入出来るようになった。液体塩素市場は、戦争ガスとしてその後の塩素使用で大きく拡大した。液化する必要のない電解法からの塩素は水素を燃焼させることにより塩酸に、あるいはカ性ソーダに吸収させることにより次亜塩素酸ナトリウム漂白剤に転換される。
20世紀初頭に、カストナー・ケルナーとユナイテッド・アルカリ(後のICI)はイギリスで塩素-カ性ソーダ生産の市場をほとんど保有した。カストナー・ケルナー工場でロッキング・セルの建設は1902年に中止され、その後、全ての拡張はソルベー設計に基づく長い水銀槽となった。ロッキング・セルは1928年までカストナー・ケルナー工場で操業を続けた。しかし、1896年にマシーセンによってナイアガラ滝に建設されたロッキング・セルは1963年まで操業し続けた。
およそ1908年の異常な契約はカストナー・ケルナーによる既存のロッキング・セル銀行であるソルト・ユニオンへの貸付けまたは売却であった。これらはソルト・ユニオン工場近くに移動された。そこで彼等はソルト・ユニオンの真空蒸発装置によるかん水とカストナー・ケルナー工場がソルト・ユニオンの配管で得ている多分、かん水も精製するために使用するカ性ソーダを生産した。ソルト・ユニオンのロッキング・セルからの塩素は漂白剤に作られた。この電槽室は1938年まで操業を続けられた。
1914年に、イギリスの電解産業はウエストン・ポイントのカストナー・ケルナー水銀電解工場とミドルウィッチのエレクトロ-ブリーチ社のハーグリーヴス・バード隔膜電解槽工場によって象徴された。塩素について戦時の需要は政府に圧力をかけ、ユナイテッド・アルカリ社は1915年にアメリカ合衆国からギブスの隔膜電解槽を輸入した。確かにミドルウィッチや多分、多の所でもドイツ・タイプ隔膜電解槽を操業していた十分な政府の記録はなかった。ユナイテッド・アルカリ社の初期のギブス電解槽はサリヴァン工場、ウィドネス工場、セント・ヘレンズのハードショウ・ブルック工場にあった。後に、ゲイトシードのアルフーセンズ工場、フリートウッドのヒルハウス、ノースウィッチのウェード工場で建設された。
1914‐1918年の戦争していた間に、チェスターフィールド近くのスタヴレイのスタヴレイ鉄化学会社は基本的なベンゼン、トルエンのようなコールタール化学品の生産を超えて、硫酸や硝酸を生産して化学品事業を拡大させ、ピクリン酸、TNT、面火薬の戦時大手供給者になった。会社はその範囲を塩素化有機物に拡大することを計画しており、ブリティシュ・ソーダ社がスタヴレイで計画中の水銀電解槽の建設のために主として塩を生産するように作られたサンドバッハでかん水生産地を購入した。そのような電槽は市場になかったので、彼等はカストナー・ケルナーから引き抜いた技術スタッフの長の助けを借りて自前で建設することを決定した。スタヴレイ電解槽の最初の建設は約1922年から明らかな成功であり、1926年に会社は経験に基づいて新しい電解槽を制作するためにパリとベルリンのクレブス社と協力を結んだ。これはクレブス-スタヴレイ電解槽として世界中で販売された。この年の製品のクレブス電解槽とカストナー・ケルナー電解槽の写真は関心を引くほど似ている。
1930年代まで、イギリスは水銀電解槽技術の中心であり、一方、大陸と北アメリカでは、クロールアルカリ生産の大半は隔膜電解槽であった。ドイツの化学会社大手とIGファーベンが合併した1933年後では、大半のドイツ会社は水銀電解槽設計と操業に変わった。この傾向は戦後の再建まで続き、1950年代に公開市場で水銀電解槽のドイツ設計が利用できるようになった。ドイツの電解槽は50年代半ばにサンドバッハとエルスメアー・ポートに建設され、2,3年後に、1926年のスタヴレイ・ケミカルズのクレブス電解槽室はドイツの電解槽に置き換えられた。
ICI内では、ウエストン・ポイントのカストナー・ケルナーに加えて、フリートウッド、ヒルハウスのロックサベッジ近くとブリンガムとウィルトンでICI-ソルベー水銀電解槽の電解槽室があった。
戦争直後に、当時、ギブス隔膜電解槽のICI装置はまだ操業中で、電解槽のこのイギリス補足は1949年に加えられ、その時、サンドバッハでマーガトロイドはS型ホーカー隔膜電解槽を建設した。当時、このタイプのホーカー電解槽はアメリカ合衆国の総クロールアルカリ生産量の大部分を占めていた。
1960年代に、ブリンガムとティーズ・サイドに残っていたICIギブス電解槽、ノースウィッチのウエイド工場、フリートウッド近くのヒルハウス工場の多分、電解槽も設計が同じでホーカー電解槽に建設されたICI隔膜電解槽に置き換えられた。
1960年代の重要な開発は産業をあげて広範囲な研究の結果で、消耗しない塩素陽極用の構造材料として炭素に置き換えられたことであった。チタンは容易に利用できる材料となって、液体塩素を取り扱うプラント用の理想的な材料であることが分かった。しかし、同時にこの腐食抵抗は電極材料として不適当な基盤金属であった。チタンでコーティングした白金はこの問題を解決することが分かったが、白金でコーティングしたチタンは塩素が発生する陽極として電解的にグラファイトより劣っていることが分かった。白金でコーティングしたチタン電極は海水系の陰極保護で上手く使われており、研究の新しい道を開き、酸化ルテニウムをコーティングした陰極が塩素が発生する電極用に必要な特性を持っている発見につながった。
ビアーの特許に基づく酸化ルテニウムをコーティングしたチタン陰極を持つ水銀電解槽はイタリアのデ・ノラ社によって導入され、PVC製造用の塩素を製造するためにサウスウェールズのバグラン湾の大規模装置用にBPケミカルによって選択された。一方、ICIは貴金属酸化混合物に基づいてコーティングした陰極のさらなる開発に関与しており、新しく設計された永久的な金属陰極が全てのICI電解槽で使われた。
永久的な金属陰極の導入は多分、前世紀のクロールアルカリ技術で最も重要な進歩であった。
近年、水銀電解槽と隔膜電解槽技術の両方で他の進展が見られた。電槽は大きさと通電能力で増加した。後者は高電流半導体整流器の発明で可能となった。
しかし、電槽運転で水銀陽極とアスベスト隔膜の使用を排除することが最近強調されてきた。1970-年代以来、多くの工場は合成隔膜とイオン交換膜の開発を進めてきた。この努力に並行して、既存の電解槽に使われている水銀やアスベストの環境に対する影響を上手く減らしてきた。これらにより極端に低い水準まで上手く減らしてきたので、電解槽室は経済的な稼働期間で操業を続けられるようになって来た。
隔膜とイオン交換膜の進展は後退を予言でき、塩素が出る電極室の腐食条件に耐える材料の必要性に加えて、効率を良くし経済的に膜寿命を延ばすために、供給かん水を極端に精製し、厳しい品質管理が必要である。