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19世紀の製塩-製塩技術の発展

Nineteenth Century Salt Making Development in Salt Making Technology

ヨーロッパ塩生産者団体のホームページ「Salt Association」より

 

ファーニバルの門出後、“特許釜”の発展は3製塩所全てと間違いなく他の製塩所でも続けられた。世紀末まで、塩ユニオンは特許釜の原理に基本的に基づいた“機械釜”をまだ使っていた。そのような釜は1920年代にストーク・プライアーでまだ操業していた。

 

 しかし、ほとんどの製塩所は伝統的な平釜法を使い続けており、19世紀中に2釜タイプ、大きな釜、通常の釜に基づいた基準パターンで操業された。両タイプは釜の中央から塩を掻き寄せる12フィートのソルト・レーキを操作できるように標準的な24から25フィート幅であった。

 大きな釜は長さが約40フィートで、急速に加熱したので、燃料ガスの熱はかん水を急速に沸騰させ、隣接している乾燥室も加熱し、そこで塊となって乾燥された塩は粉砕され、酪農製品や家庭用に適するように細かい乾燥塩に摺りつぶされた。通常の平釜は大きな釜の少なくとも2倍の長さであった。それらには隣接した乾燥室がなかったので、排気ガスは煙突に達する前に釜を加熱するだけであった。しばしば3つの普通の釜が一つの煙突に分配にされた。通常の釜の火は粉炭で覆われて釜は弱火にして低い温度で煮詰められ、大きな結晶を得た。アルカリ製造者用の工業用塩は12日後に釜から収穫されたが、もっと長い期間ではもっと大きな結晶が得られ、皮なめしや水産用の塩は23週間後の結晶であった。結晶は釜から引き上げられて、釜の脇に水切りのために積み上げられた。水切りされた塩は、その後、倉庫または直接船または貨物列車のいずれかに手作業で移動された。

 様々な工程の変化があった。1860年-1880年の期間に幾つかの製塩所は木製の釜を蒸気を使って加熱した。その温度で35 - 40℃で約6週間操業後に魚業用の塩を収穫した。20世紀初期までに、ウェストン・ポイントのマージーかん水塩製塩所でソルト・ユニオンはモンド・プロデューサー・ガスで加熱された普通の平釜で魚業用の塩を生産した。

 かさばった“チェシャーの塩”でアルバートF. カルバートは、密閉されて沸騰している釜からの蒸気と煙道ガスは他の釜と最後の普通の釜を加熱するために使われるように複雑に配置されているホジキンソン特許工程について主張を疑わしいほど誇張して述べている。工程は彼等のナントウィッチ製塩所でソルト・ユニオンによって試みられたが、拒否された。カルバートは本の中で、特許権保持には失敗し、したがって、工程を促進することに特別な関心を持てなかったと述べた。ソルト・ユニオンの工程排除に続いて、カルバートはロートン製塩所の賃借権を得て、ホジキンソン工場を買収したコマーシャル・ソルト社を設立した。これはノースウィッチからロートンに移され再建されたが、上手く操業できず、次第に解体された。

 チェシャー塩産業とのカルバートの関連は長い間ミステリーであったが、アルバートF. カルバートの伝記のオーストラリアにおける出版と共に近年だけで“カルバートのゴールデン・ウエスト”が十分に実現したことは、彼の運命が西オーストラリアの金鉱地で決められ、そこで彼は有名な祖父のジョンF. カルバートの足跡に従ってきた。祖父は今でも決定的な1853年の著書:“グレートブリテンとアイルランドの金鉱山と世界の黄金地帯”の著者であった。20世紀初頭の他の革新的な製塩法は1903年のハリー・ティーの特許ティー・プロセスであった。そのプロセスは粉砕された岩塩の溶融と溶融された塩の不純物を除いて、塊を作るために鋳型に流し込むことによって岩塩から直接使える塩を作った。塊は粉砕され、魚業用や食卓用に摺りつぶされた。ティー製塩法は塩鉱山シンジケートによって北アイルランドのカリックファーガスで1910年に操業され、1913年にもまだ楽天的なプレス・レビューを受けた。しかし、それにもかかわらず、平釜法との競争に負け、短い利用に終わった。