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19世紀の製塩-貿易のしきたり

Nineteenth Century Salt Making Tricks of the Trade

ヨーロッパ塩生産者団体のホームページ「Salt Association」より

 

チェシャーの伝統的な細かく白い塩は魚業用には適しているとは考えられず、粗い海塩がむしろ選ばれた。

 

 1740年代には、フランスとの戦争の時でも海軍省は海軍に供給するためにフランス湾の塩をまだ購入していた。問題はミドルウィッチのトーマス・ロウンデスによって調べられ、1746年の彼の“改善されたかん水塩”と1748年の“かん水塩所有者達への勧告の手紙”で、実質的に開放平釜作業の一般的なせんごう法となった開放平釜操作法を彼は勧めている。基本的にこれは比較的大きな平釜の中で低温でゆっくりと蒸発させた。

添加物の導入

 トーマス・ロウンデスも固くて透明な結晶を作る平釜添加物として明礬の使用を最初の参考としている。明礬は20世紀に同じ目的のために普通の平釜にまだ加えられていた。ロウンデスも魚業用塩の一般的な特徴である大きなピラミッド型の“ホッパー”結晶の成長を述べており、細かい塩は観察されなかった。普通の塩のようなトーマス・ロウンデスの“改善されたかん水塩”は乾燥室で乾燥する必要はなかったが、平釜横のハードルで十分に乾燥するまで水を切った。

改善された抽出と精製

 18世紀中には、より深いかん水井と改善されたポンプ技術により清澄なかん水が得られ、濁ったかん水を清澄させるための血液、卵、エールの使用は必要なくなった。しかし、18世紀(または多分19世紀)のある時に、乾燥室で塊として作られた伝統的な細かいチェシャー塩の結晶の大きさに幾つかの添加物が小さな変化を起こしたことを観察した。卵白または血液の添加による残った泡は、添加物が全く使われない時よりも僅かに大きな結晶を与えることがひょっとしたら観察された。これは軽い大きな塊を作る。いろいろな添加物は19世紀のテキストに掲載されており、例えば、バターや他の油脂、石鹸、膠である。製造者は明らかに彼等の“秘密のレシピ”を持っていたが、話題は十分に研究されていない。20世紀までに、動物の膠と軟石鹸が標準的な添加物であった。

 開放平釜では、塩結晶は蒸発かん水の表面で形成され、攪拌されなければ、大きさは重くて浮いていられなくなるまで成長する。その後、結晶は釜の底に沈み、これが起こる場所はかん水の表面張力に依存している。これは膠によって増加し、軟石鹸によって低下する。

 塩結晶の大きさは塩結晶のかさ密度に影響を及ぼし、したがって、大きな結晶を作る膠は低いかさ密度の塩を作った。小さな結晶を作る石鹸は高いかさ密度を与える。重さでなく嵩で売る西アフリカに販売する商人は低いかさ密度を好み、一方、軟石鹸の添加で作られた細かく高いかさ密度の塩はバターやチーズ製造に好まれた。

 幾つかの条件下で、かん水表面上の結晶は蒸発率を低下させる繋がった固い表面を形成する。これは“凝固形成”として知られており、凝固を形成する傾向は膠の添加で強化され、軟石鹸の添加で阻止されることが観察された。製塩技術はどれくらい多くの膠または石鹸をかん水に加えるかを知ることであった。

 適当な型枠に結晶スラリーを流し込んで塊を作る乾燥塩製造法は世界中で行われており、鉄器時代のブリティンで確かに採用された。少なくとも12世紀前から19世紀まで、内陸の製塩者は“バローズ”として知られている円錐形の柳製型枠に結晶スラリーを最初に流し込むことによって乾燥塩を作った。19世紀には、“タブ”と呼ばれるニレ材の四角錐型枠に次第に変わってきた。様々な大きさのタブがトンまでの多くの乾燥塩塊を表示して使われた。最も人気のある大きさは80’sでそれぞれの乾燥塊の重さは28ポンドであった。これらが産業を通じて基本的に標準形と大きさであった。乾燥室と同じ様に、デザインと実行は冷却用の溝の間の煙道を一段高くした鋳鉄で覆った配置が基本的に標準であった。最初に作られた塊は壊れ易く、取り扱いで十分に強くなるまで、溝の中に立てられた。その後、最終的に乾燥するまで、熱い煙道の上に塊の片側を積み上げられた。全工程は約二週間を要した。