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20世紀の製塩

Salt Making in the 20th Century

ヨーロッパ塩生産者団体のホームページ「Salt Association」より

 

真空式せんごう塩は20世紀の後半まで開放平釜塩とは完全に置き換わらなかった。真空式せんごう塩の細かくて均一な結晶は塩塊製造用や魚業用のようないくつかの用途には不適当であった。開放平釜は幅広い範囲の大きさの結晶を作り、熱効率的にはあまり良くないが、設備建設費は非常に安く、平釜タイプの塩について特別な市場需要があるので、残り続けた。

 

 ソルト・ユニオンは多くの効率の良くなくて古い平釜製塩所を20世紀の初めに閉鎖したが、塩の市場需要がないからではなかった。1890年代と20世紀の最初の25年にミドルウィッチ、ウィンチャム、サンドバッハ、スタッフォード、リムとティーズサイドで新しい平釜設備を持った幾つかの独立製塩会社の設立があった。これらは全てソルト・ユニオンとの競争であった。1908年にスタッフォードで、チャンスとハントは田園地域に大きなチリングトン・ホール平釜製塩所を建設した。この設備はオ-ルドバリのアルカリ工場用に通常の塩を供給した。そこでは真空式せんごう塩は塩塊火炉のライニングを痛めることが分かった。

 他の会社は平釜操業を拡大し、真空式せんごう工場も建設した。ステイブレイ・アイロンとチェスターフィールドの化学会社の子会社であるブリティシュ・ソーダ会社は1919年にサンドバックにガルシア真空式せんごう工場を建設した。ここで彼等はケストナーの三重効用かん水蒸発缶を建設した。それは戦時のグリセリン工場からの物でかん水使用に変更された。これは外側加熱式の強制循環蒸発缶で、当時イギリスで最新のかん水蒸発缶であった。

戦争間の時期に、内部キャランドリアのマイアリーズ・タイプの小さな真空蒸発缶がほとんどの塩製造者によって建設された。ティーズサイドのグレイトハムとミドルウィッチ製塩会社の子会社であるセレボス、サンドバッハのパルマー・マン、リムのチャールス・ムーア、スタッフォードのマンガーズ、ウインカムのニュー・チェシャー、ストーク・プライアーのソルト・ユニオンであった。これらの全ての製塩所で、平釜製塩は真空蒸発と一緒に続けられた。

1930年代の製塩

1930年代末までに、平釜時代は終わることが明らかになった。平釜塩を必要とする(そして真空式せんごう塩が不適正な)用途の多くは冷凍のような技術革新のために無くなった。真空式せんごう塩を供給しなかった二つの市場は塩塊工程とまだ需要の多い西アフリカへの低いかさ密度で生産された塩の輸出であった。

1973年にソルト・ユニオンはICIに買収され、ICIの塩部門となった。これらの需要を満たす塩の経済的に生産出来るように真空式蒸発法の改良に関する研究が始まった。研究方向の一つは1922年にオスローで開発された結晶化を制御するための結晶工程の応用であったが、製塩には応用されなかった。工程を研究するためのパイロットプラントが戦前にウィンズフォードに建設され、戦後には実機の蒸発装置がウスターシャーのストーク・プライアーに三重効用蒸発缶の第四効用缶として建設された。いわゆる結晶またはオスロー蒸発缶の重要な利点は通常の真空蒸発缶からの母液かん水を使う能力で、まだ純粋な塩を生産でき、それによって廃液問題とかん水損失を減らせた。

オスロー蒸発缶は“顆粒塩”として知られている球状結晶の塩を生産でき、これは塩塊工程のマンハイム炉で使うために適していることが分かった。ストーク・プライアー製塩所が結局閉鎖された時、オスロー蒸発缶はランコーンのウエストン・ポイント製塩所に移され、そこで今日のオスロー蒸発缶ラインに加えられた。そのラインはその場所で複雑な蒸発装置の部分を形成している。

低いかさ密度の真空式せんごう塩のためのICIの研究は立方体ではなく樹枝状構造の結晶成長を調べた。この研究は低いかさ密度の樹枝状塩を生産するために微量のフェロシアン化ソーダ(フェロシアン化第二鉄)を添加する結果を得た。

 この研究からの副産物は、これを4 ppmと言う少ない添加量で固結防止に有効であると言う発見であった。この性質はサイロ内の乾燥塩の重大な固結から本当の危険性を避けた。乾燥真空式せんごう塩のバラ積みタンカーの乾燥塩を顧客の貯蔵サイロに空気輸送できるようにした。

1950年代の製塩

 1950年代の特許はICIとオランダのKNZ社の両方によって取られ、フェロシアン化ソーダの使用はどの工場でも今や標準的な工程であった。これらの開発で1950年代半ばまでにICIの塩部門はウィンズフォードの平釜工場を全て閉鎖した。

 戦後まもなく平釜製塩は次第に低下し、化学工業の一般的な拡大の結果として新しく第二世代の真空式蒸発装置を建設した。サンドバッハ・パルマー・マン製塩所で、1930年代の小さなマイアリーズ製塩所は約1950年に同じ大きさの同様の装置に加えられた。1950年代でもブリティシュ・ソーダ社は1919年の外部キャランドリアケストナー蒸発缶に非常に大きな内部キャランドリア三重効用マイアリーズ蒸発缶を加えた。後者は最終的に解体する前にさらに3年間操業された。

 セレボスとパルマー・マンは非常に大きな食用塩供給者であった。他方、ブリティシュ・ソーダ社の塩需要はスタブレイの塩素-カ性ソーダ必要量と連動しており、クロールアルカリ操業はマルガトロイド塩化学品工場と1950年に操業を始めたサンドバッハの工場ともプラントの大きさを指定した。リムのチャールス・ムーア真空式製塩工場はディスティラーズ社に所有されており、化学品製造用に指定されているが、1950年に負けて吸収され、結局、マルガトロイド社に所有されているディスティラーズ社の合同所有となった。

 スタッフォードで三重効用オスロー蒸発缶が建設されたが、ストーク・プライアーでICIにより使用されている蒸発缶やウエストン・ポイントの後の蒸発缶よりも上手く行かないことが分かった。

1970年代の製塩

 ミドルウィッチの全ての平釜工場は1970年までに閉鎖され、閉鎖された最後の主要工場はサンドバッハのパルマー・マン工場で1971年に操業を停止した。

 グレイトハムやミドルウィッチのセレボス工場、サンドバッハのブリティシュ・ソーダ工場を含めて、全てのスタッフォード製塩はブリティシュ・ソルト社の発足とともに1969年に停止した。1960年代には多くの小さく古い真空製塩工場が閉鎖され、この傾向は1970年代にもかかわらず続き、その時代までに塩生産は二つの場所に合併された。全てのICI(後のソルト・ユニオンで現在のイネオス)を代表するウエストン・ポイントの工場とセレボスとアマサル・グループの合併を代表するミドルウィッチのブリティシュ・ソルト工場である。

 新しいニュー・チェシャー・ソルト社はウインカムで三番目の真空式白塩製造者として2006年まで残った。彼等の小さな三重効用スエンソン蒸発缶は、二つの主要な工場では前には実行できなかった特別に高純度の塩用の市場の注意を引けるようにしている。

 歴史的な正しい判断のために、最後の平釜工場のチェシャーはリオン・ソルト工場で操業している平釜として残っていたが、1986年に操業を止め、現在では作業博物館として、産業記念として工程が復元されている。