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塩を原料とする化学工業

The Salt-Based Chemical Industry

 

ヨーロッパ塩生産者団体のホームページ「Salt Association」より

 

 水で、あるいは混合、あるいは加熱などをした時に容易に変化する物質を通常扱う錬金術師の経験に化学工業は起因していた。塩は将来有望な物質ではなかった。しかし、加熱された硫酸塩(別名緑礬または硫酸第二鉄)は硫酸(濃硫酸)を生じ、それは塩と反応して塩酸を生ずる。錬金術師時代にこれは塩が関与する限界であった。彼等は、塩が金を溶かす王水の生成に寄与してきたことを知らなかった。硫酸と後に塩酸は繊維漂白で酸性化助剤としてのバターミルクと置き換わったが、スウェーデンの化学者シーレが二酸化マンガンと塩酸を反応させて、塩素を発見した1773年に躍進した。塩素が植物性物質を漂白できると言う彼の観察は、工業漂白としてアルカリ中で薄い塩素溶液を使って繊維を漂白できるようになった1785年にフランスの化学者ベルソレーによって応用された。塩素漂白の早期使用で顕著なことはスコットランドのジェームス・ワットとマンチェスターのトーマス・ヘンリーであった。この初期の塩素漂白応用で塩、硫酸、二酸化マンガンの混合物から現場で塩素を発生させた。1790年代に、チャールス・テナントがセント・ローロックス工場を建設したグラスゴーのテナントとマッキントッシュによる容易に持ち運びできる漂白粉の導入でこの技術は不要となった。

 19世紀に化学工業の拡大について基本的な要求は塩からのアルカリ製造であり、初期の実験は18世紀半ばに行われた。この研究でリーダーとなった人物はジェームス・ワットであり、早くも1766年に石炭の存在下で塩と生石灰を反応させてアルカリを生産することを試みたことを述べることは興味深い。1780年代に、ジェームス・ケアーはある程度成功し、生石灰と石炭を混合させた出来たカリウム/硫酸塩廃棄物(彼の硝酸工場から)からアルカリを作った。彼はスタッフス、チップトンに大規模な石鹸工場を建設した。

 ジェームス・ワットの議会へのロビー活動は化学品製造のために塩税を割引してもらうことに失敗した。これはブリテンの塩を原料にしたアルカリ工業の成長を大きく阻害し、最終的な信用はフランス人のニコラス・ルブランに頼ることであった。ルブラン法に基づくアルカリ工場は1795年にウィリアム・ロッシュとロード・ダンドナルドによってタインサイドに建てられた。ナポレオン戦争により塩税は非常に高くなり、塩税を支払った塩を原料とする化学工業の成長の刺激を抑えた。何人かのアルカリ製造者は塩が無税であるアイルランドの利益を享受しており、一方、タインサイドとグラスゴーでは、石炭が混じった無税の塩や硝酸製造からの副産物である廃棄硫酸塩からアルカリを製造するウィリアム・ロッシュや何人かの他の製造者によって著しい活動があった。

 このようにして、塩税廃止前の30年間でルブラン法によるアルカリ製造の中心地はタインサイドやスコットランドであった。マージサイドのアルカリ製造はアイルランドのアルカリ製造から1823年のヴォクスホール工場をジェームス・マスプラットが建設したリヴァプールまで、彼の到着を待つことであった。