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塩と塩税

18世紀の製塩

Salt & the Salt Tax.

Eighteenth Century Salt Making

 

ヨーロッパ塩生産者団体のホームページ「Salt Association」より

 

古い時代では塩はしばしば財源であり、歴史的に多分、最も課税された日用品であった。

 

 シュチュアート時代初期に塩、ワイン、タバコに課税したが、塩は王政復興後のチャールス二世によって課税されなかった。1688年に彼の相続に従って、ウィリアム三世はいわゆる“現金に欠乏して”、この問題を解決するためにオランダの会計士を連れてきた。アルコールやタバコにもっと厳しく課税すると同時に、新しい形の塩税を1693年に導入した。これは塩を消費する時点の代わりに生産した時点でお金を徴収した。

徴収地域と徴収者

 塩税は海外塩と国内塩の両方に適用され、2つの別々の局で徴収された;海外貿易に対する税関と国内取引に対する消費税局である。この配置は不満足であることが分かり、1702年から両塩関税局と塩消費税局は財務省の別部門として設立された塩務局によって取り扱われた。5人の監督官が任命され、その領域は“徴収”地区に分割された。

 塩が生産される各徴収地区には徴収者がおり、監督官と製塩所の数に応じた多くの塩務官である。検量人や見張人のような多くの定員外の役人もいた。指名された多数のスタッフがいたにもかかわらず、汚職が流行し、部門活動全体に塩の密輸が広がった。

 チェシャーはナントウィッチ、ミドルウィッチ、ノースウィッチ徴収所に分けられた。ロートン、ラフウッド、ダートウィッチはナントウィッチ徴収所に含められ、ウィンズフォードとウィーロックはミドルウィッチ徴収所に含まれた。統計値が見積もられた時、この配置はしばしば明確ではなかった。例えば、1733年にナントウィッチ徴収所の総生産量の中で、わずかに約1/10だけ、または多分それ以下がナントウィッチの町で実際に生産された。

国内塩取引に及ぼす影響

 国内で生産された白塩にかけられた税金はその市場価値の数倍であり、輸入された外国塩にかけられた税金の2倍であった。魚業用塩については、税金は大きく減らされ、岩塩は白塩よりも低い率で課税された。アイルランドへの岩塩の輸出は18世紀のほとんどの期間で無税であり、このことはアイルランド海岸のあらゆる所で建設された製塩所によるアイルランド岩塩精製産業の著しい成長に寄与した。

 岩塩精製は“再生塩”として知られているオランダ方式の適応であった。ビスケー湾岸の海水の天日蒸発で生産された灰色で低純度のフランスの湾の塩は海水に再溶解されて(海水は既に2.5%の塩化ナトリウムを含み、一方、飽和かん水は約26%塩化ナトリウムである)、平釜加熱による蒸発で白塩に変えられた。17世紀までに、“再製塩”である湾の塩精製はイギリス海岸の製塩所でも実行され、安いチェシャー岩塩が利用できるようになると、輸入された湾の塩に置き換わり、1690年代から新しい岩塩精製所がマージー河口域その他に建設され、その後、塩法の拡張はアイルランドを除いてイングランド、スコットランド、ウェールスにこの交易をさらに広げることを禁じた。

 アイルランドは塩税の期間を通して白塩の主要生産者となり、アメリカ、ロシア、スカンジナビアに輸出した。無税の白塩の利用はアイルランドのバター製造の成長を促進させ、魚、牛肉、豚肉を塩漬けして樽詰めに白塩が使われた。アイルランドは世界最大のバター輸出国となった。魚はスコットランドやスェーデンから輸入され、塩漬け、樽詰めされて西インドに再輸出された。

 アイルランドの特権のある立場はイングランド内陸のかん水汲み上げ者からの抗議をもたらしながら、白塩取引で論争となる損失について補償するよりも多くの岩塩輸出が非常に増加してきたことがチェシャーで一般的に認識された。一番大きな影響を受けたのは、チェシャーの岩塩精製に関する制限が産業の全体的な衰退に寄与したスコットランド海岸の塩生産者であった。チェシャーの外側に新しい精製所の設立を禁止した1702年の塩法は塩税が存在する間、引き続き残った。議員法がリバプール近くのガールストン・ドックに建設された新しい精製所を許可した時の1793年に一つの例外があった。

塩密輸者

 予想されたように、アイルランドからイングランドに帰る白塩の幅広い密輸があり、このため西海岸を下る海塩製造は衰退した。

 密輸と他の脱税は塩税が存在する限り一般的であり、稼いだ歳入が塩税の執行に含まれる膨大な費用を正当化するかどうかは疑わしい。