そるえんす、1998, No.39, 25-34
私の技術行政歴
−塩研究の開発体制強化、世界の塩事情や健康問題の情報収集・発信−
橋本 壽夫
はじめに
昭和38年4月に専売公社に入社し、58年4月に本社へ転勤するまでに在籍していた試験研究機関における出来事は「私の研究開発歴」として前号に書いた。ここではその後、本社に転勤してから平成10年10月に退職するまでのあいだ、塩技術行政やその他の仕事にたずさわったことを記すこととする。
本社に来てからの15年間に、日本専売公社とそれを取り巻く環境は大きく変わり、昭和60年には公社から民営化して日本たばこ産業株式会社になった。塩の専売制度は維持されたが、たばこの専売制度は廃止された。昭和63年3月には塩、海水資源等に関する研究に対して資金助成をするソルト・サイエンス研究財団が設立された。平成9年4月には92年間続いた塩の専売制度も廃止された。それに伴って、これまで続けてきた塩事業の一部を引き継いだ組織として財団法人塩事業センターが設立された。
当然のこととして、これらの変革に参画し、新しくできた組織にも所属してきた。20年間の研究開発業務から技術行政・指導業務に移り、戸惑いとともに塩専売制度の将来がまったく判らない中で、国内塩産業の自立化政策を支援する何らかの展望を開く作業を続けてきたことのいくつかについて述べたい。
日本専売公社から日本たばこ産業株式会社へ
塩技術担当調査役所属調査役
本社への転勤辞令に書かれた私の肩書きは、見出しのように誠に奇妙であった。塩技術担当調査役という課が分担していた仕事は、製塩に関する技術的な事項であった。塩の生産や品質についてのデータを製塩会社から収集し、それを整理して製塩各社や膜メーカーにフィードバックし、各社がそれを見て自社の悪いところを改善させることとか、試験研究の指導や製塩コストの低減に向けて技術的な検討をし、低減効果が見込まれる場合には採用を促すことなどであった。
転勤でT塩専売事業部長のところへ挨拶に行ったときに言われたことが、後から考えると本社における私の業務を決定づけることとなった。「橋本君、ご苦労さん。20年間もいた研究機開から来てもらって本当にすまないと思っている。研究開発では専門的な深い知識を培ってきて、ある分野で深い知識を持っていれば、他の分野では知識がなくても済まされただろうが、ここでは、そうは行かないんだ。本社と言うところは、何でも知っていなければならない所なんだ。塩の技術に関する限り、尋ねられて答える人は君の上には誰もいないんだ。そのような立場だからしっかりやってもらいたい。」と言われたのである。
研究開発体制の問題点
昭和46年の塩業審議会答申に沿って行われた第四次塩業整備という合理化で、塩の生産方法は塩田製塩法(21工場)からイオン交換膜製塩法(7工場)に転換され、5年間で塩の買い入れ価格を段階的に下げていくことが決定された。そして塩の研究開発については、海水総合利用も念頭に置いて膜メーカーを含めた製塩会社が取り組むように要請された。この答申に沿って専売公社は防府製塩試験場を閉鎖し、小田原製塩試験場でも4研究室のうち1研究室だけが塩の研究を担当し、多くの塩の研究者をたばこ部門に転換させたので、80人以上もいた研究者は20人たらずになってしまった。私も転換者の一人であった。
さて最初、本社で塩の技術行政を担当する立場になった時、入社以来、塩の技術研修を受ける機会もなかったのに、日本塩工業会の技術研修会で講師として教えなければならなくなった。製塩技術の勉強をするかたわら、塩の試験研究機関をこれからどのようにしていけば良いのか悩んだ。塩業整備以来15年以上も経つのに、塩の研究機関には人材の補充がほとんどなく、高齢退職で研究者は減る一方であり、塩研究の将来は自然消滅にもなりかねない状態であったからである。ある時の立食パーティーで、小田原時代の元部下であったH君に人材の補給を訴えられても返す言葉がなかった。
塩専売事業本部では専売公社の民営化に向けて新しい塩専売法の制定について検討が行われた。一方、民営化された会社が塩の専売制度をどのような考え方で運営して行けばよいかについて、総裁は塩業審議会に諮問した。塩業審議会は塩専売事業の運営方針を決定するとか、問題が派生したときに開催されてきた。
塩業整備後、合理化による5年間の塩買い入れ価格低減計画は、昭和49年、52年の第一次、第二次湾岸戦争に伴うオイルショックによる原油高騰で破綻し、その都度、塩の買い入れ価格を引き上げざるを得なくなった。したがって、路線変更に伴って何回か塩業審議会が開催された。この塩業審議会で技術に関して、どのような議論があったのか調べてみた。計画の破綻を迎え専売公社は塩の技術開発をもっと進めるべきである、との意見が委員から出されていたが、具体的にその意見を取り入れた様子は見られなかった。
そこで塩の研究開発を積極的に進めるには、塩業審議会の答申の中にそのことが出来るような何らかの文言を入れてもらわなければ何も出来ないと考え、上司のY調査役とE部長に働きかけた。幸いにも昭和61年に発表された塩業審議会小委員会報告の新しい塩産業政策運営の機構という項目の中で「新しい機構は、……海水総合利用を考慮した技術開発、塩の利用等に関する調査・研究等の機能とともに自立化を促進する当面の支援機能をも併せて遂行することを求められる。支援機能は、……イオン交換膜の性能向上を含む技術開発の促進、援助……等広範にわたるが、」との文言を盛り込んでもらえた。
専売公社は昭和60年4月から民営化され日本たばこ産業株式会社になった。それと共に奇妙な課名は塩技術調査室とやっと理解される名称になり、初代の室長となった。
塩の試験研究開発体制の強化
塩業審議会の小委員会報告に技術開発の必要性を盛り込んでもらうとともに、民間会社になり少しは意識が変わったのではないかと思われたころ、研究開発部の0技術調査室長に新人の採用をお願いに行った。ところが「塩専売制度の行方が不透明であるので採用するわけにはいかない。塩専売事業本部の方で然るべく整理してもらいたい。」と言われ、見方が甘かったことを悔いた。世の中の動きは、異業種間の交流によって新製品の開発や新しい事業を創生して行こうとの機運が高いのに、同じ社内に塩とたばこという異業種をもっておりながら、そのことを一考する気風もないことが解ったからである。
そのうち社内全体の試験研究開発部門の見直しが始まった。塩技術調査室の0調査役が塩部門の担当者となって、昭和63年に小田原試験場(民営化とともに製塩が脱落していた)を塩専売事業本部直属の海水総合研究所とし、毎年計画的に新人を採用するとともに、運営は塩技術調査室が当たることとなった。別にソルト・サイエンス研究財団を設立し、広く学会の英知を集められるように基礎研究に村して資金助成を行い、実用化に向けた新しい研究課題の芽が生み出されれば、その後の研究は海水総合研究所で行えるような体制を築いた。この辺りについては本誌の37号で少し詳しく述べた。
海外塩産業の情報収集と配布
塩専売法の目的の一つは国内塩産業の育成で、海外の塩産業との競争で負けないような国際競争力を付けることであった。つまり塩業の自立化を達成することであった。海外の塩産業と競争できることを目標にしているにしては、それらに関して持っている情報は乏しかった。これでは専売制度が廃止されたときに競争しなければならない相手の力が解らない。そこでいろいろな書籍や雑誌を探し、出来るだけの情報収集に努めるとともに、海外出張がある折りには、市場で商品の収集をするとか、製塩企業を訪問するようにした。幸いにも、後に述べるように国際塩シンポジウムを開催する機会を利用して、海外出張の折りには海外の製塩企業を見学するスケジュールを組み、アメリカやヨーロッパの塩生産者業界団体とも緊密な関係を作ることが出来て、いろいろな情報が入ってくるようになった。財団の「月刊ソルト・サイエンス情報」に重要な記事は掲載されるようにした。
しかし、今ではシンポジウム開催後6年も経っているので、個別の企業については、トップレベルの人達は退職したり、激しい会社間のM&Aでポストから外れ、次第に情報が集めにくくなってきた。収集した情報は先ずは社内・業界向けに翻訳して配布し、要請に応じて雑誌、その他にまとめて掲載するようにした。
食用塩の国際規格制定
貿易の非関税障壁の問題を解決して、国際的に商品が流通できるように商品の国際規格を定める活動が行われており、食用塩の規格についても食品添加物部会の中で検討されていた。食品添加物を検討する幹事国はオランダであり、毎年冬期にハーグのコングレス・センターで食品添加物部会が開催される。日本からはY調査役が初めて出席し、日本では水銀公害の問題があったので、塩化物イオンの分析法で水銀を使用することになっている国際規格案の代案として硝酸銀を使用できるようにしてもらいたいと提案した。この時以来、食用塩の問題が議案にあると出かけた。会議は5日間開催されるが、塩の問題が議論されるのは1日だけであるので、他の日は市場調査や製塩企業訪問をすることとした。
この会議が始まる前に、ヨーロッパ塩研究会のメンバーとタイ、日本の代表者が集まり10人程で規格案に関するワークショップが開かれた。言葉は英語とフランス語で、通訳がそれぞれの言葉に訳していた。私はこの場で意見を述べなければならなかったが、英会話ができないのであらかじめ用意していた英語の原稿を読み始めた。すると通訳に「あなたの言っていることはよく分からない。その原稿を見せなさい」と言われ赤面した。その後、これに懲りずに英会話を勉強しなかったので、国際塩シンポジウムでは恥の上塗りをしてしまった。
この会議には2回出席する機会があった。一回目の時は会議の途中でハンブルグに飛び、H事務所長の案内でブレーメンに近いスターデにある北ドイツ製塩会社を訪ねた。20万トン/年の3重効用真空蒸発装置を2系列持って40万トンを生産していた。公害防止の関係から2km離れた原子力発電所からパイプで送られてくる蒸気を熱源として溶解採鉱されたかん水をせんごうしていた。設備は比較的良く整備されていたが、蒸発缶周りのステージには塩の粉が雪のように積もっており、歩いた足跡がついたのには驚いた。
二回目は年間400万トンの岩塩を採鉱している世界でも最大級の岩塩鉱を訪れようと思い、製塩会社ソルベ一に手紙を出したところ、ユーザーか取引している会社でないと見せられない、と断られた。しかたがないので、スペインのトレビエハにある年産120万トンの天日塩田を訪れた。この時にはブリュッセル事務所のK所長に案内をしてもらった。トレビエハ塩田は地中海に面している面積1,400haのトレビエハ湖がそのまま塩田となっており、ラマタ潮(700ha)で前濃縮されたかん水が供給され、また54km離れた所から溶解採鉱で得られたかん水が直径45cmのパイプで運ばれて追加され、生産性を向上させていた。水深70cmの湖の水面に浮かべた収穫ステイションはレーザー光線で位置を決められ、移動しながら湖底に析出している塩の層を掻き揚げて収穫していた。それを底の平たい船に積み、何隻も繋いで陸揚げ地まで引っ張っていき、機械で船をひっくり返して塩を降ろし、洗浄し、一部乾燥して製品としていた。非常に汚れた水の中から収穫されているにもかかわらず、かなり高い純度であることに驚いた。どぶ漬けにされた状態で塩が収穫される天日塩田は非常に珍しかった。
食用塩の国際規格案はほほ最終段階まで来ており、現在では甲状腺腫予防からヨード添加のことが問題となっている。
効果的な情報収集
以上の他に海外の塩事情調査については、後に述べる国際塩シンポジウムを日本で開催する機会を利用して効果的に行うことができた。(財)ソルト・サイエンス研究財団と日本たばこが、このシンポジウムのお世話をすることになり、私は事務局長ならびにプログラム委員長に任命されたからである。このシンポジウムは塩をキーワードとして、地学(岩塩地質、構造)、工学(岩塩採鉱、製塩)、農学(塩田、微生物)、医学(生理、臨床、疫学)、歴史、その他と扱うテーマは非常に幅広く、日本では取り扱ってない課題が多いので、海外の協力を仰がなければ出来ないことであった。幸いにも、アメリカには北米を中心に世界の塩生産会社をメンバーにした塩協会があり、ヨーロッパには13カ国の塩生産会社をメンバーにしたヨーロッパ塩研究会(現在ではヨーロッパ塩生産者協会)があったので、そこの協力を仰ぐことにした。そこを訪れる機会に2カ所くらいは製塩会社を訪れ、見学させてもらえることができた。
そこで、一度は断られたかねてから念願のドイツのボース岩塩鉱を見たいと思い、ヨーロッパ塩研究会の事務局長を通して製塩会社に頼み、本懐を遂げた。ここにはデュッセルドルフのS事務所長の案内でT専務理事、E本部長と共にそれぞれ一回ずつの計2回訪れた。エレベーターの古い鉄格子の扉が閉まると、ゴトゴトと音を立てながら740m下りた所は地底の工場で、広い坑道が何十kmも縦横に走っており、そこをジープで幾つもある切り羽の現場まで案内された。換気を十分に行っているため坑内の環境は良く、発破をかけて良質の岩塩を採掘していた。地下には巨大なマリエッタと呼ばれる掘削機、底面カッター、削孔機、トラクター、粉砕機、篩別機などが稼働しているが、これらはすべて小さな部品に分解されて狭い縦坑のエレベーターで降ろされ、地下の整備工場で再び組み立てられたものである。採鉱にはルーム・アンド・ピラー法(岩塩鉱の柱を残して掘り進み、幅24m×高さ18m×長さ600mのルームを1単位とした空間を作る)が使われていた。
地底の世界から地上に帰ってくると、冷凍庫で冷やされて冷気が周りから流れ落ちる瓶を取り出して、小さなグラスにトロリとした酒を注いで、グリュック・アウフと言って一気に飲み干し、無事の生還を祝って乾杯した。非常に強い酒で冷たい液体が喉をカッと熱くさせながら胃に流れ落ちる様子がよく分かった。
岩塩鉱では、この他に余り品質の良くないフランスのバランジェビルにある鉱山、アメリカのルイジアナ州アベリーアイランドにある鉱山、オーストリアのハルシュタットにある鉱山を見学できた。
ハルシュタットの鉱山は一部観光用として解放されており、ハルシュタット湖の畔からケーブルカーで300mくらい登る。さらにそこから少し歩いて登ると入口の境道に達し、またがって乗る小さな電車で山の中腹に開けられた坑道を進む。それを下りると今度は滑り台で下の方に下りていくようになっている。この鉱山の歴史は古く、3,000年も昔から塩を掘り出していたところで、持ち主であるオーストリア・ザリーネン社の社長でありヨーロッパ塩研究会の会長でもあるクネジチェック氏が、その現場まで特別に案内してくれた。赤茶けた色をした岩塩で60〜70cmぐらいのハート型に深さ8cmぐらいで幅10cmぐらいの溝を掘った跡がいくつも見られた。岩塩鉱から出て、山の中腹にあるレストランでハルシュタット湖を下に望み、ザルツカマングートの山並みを眺めながらワインを飲み、湖で獲れたマス料理を食べて至福の一時をすごした。
せんごう塩工場の見学では、オランダのヘンゲローにある200万トンの4重効用真空式製塩工場、フランスのバランジェビルにある60万トンの加圧式と6重効用の真空式を組み合わせた工場、オーストリアのバッドイッシュルにある40トンの加圧式工場、アメリカのニューヨーク州ワトキンス・グレンにある30万トンの真空式工場、シルバー・スプリングスにある25万トンの真空式工場、ミシガン州セントクレア一にあるアルバーガ一法による平釜製塩工場を見学できた。いずれも岩塩鉱の溶解採鉱により得られた飽和に近い精製されたかん水をせんごうするため蒸発水分量が少なく、蒸発缶はそれほど大きいようには見えなかった。
塩、その他商品の調査
海外に出張するたびに、行ったところで小売店やスーパーに入り、出来るだけ小物の塩を買い込んだ。塩は重いので、分析試料として100g程度を持ち帰ることとし、包装容器を出来るだけ破損しないようにして塩を取り出し、ホテルの浴槽や洗面場で溶かして流した。この時、塩は意外に水に溶けにくい物であることを体験した。塩は温度によって溶解度があまり変わらないので、お湯で速く溶かそうとしてもあまり効果はない。ニューヨーク事務所のY所長の案内で塩の博物館や工場めぐりをしながらカナダまで足を延ばしモーテルに泊まった時、裏が雑木林であったので、悪いこととは思いながらも、出来るだけ広い範囲に塩をばらまいて捨てたこともあった。
またヨーロッパに行った折り、何十個もある試料を荷造りして、ブリュッセル事務所のK所長が同期入社であったので、送ってもらうように頼んで帰った。後日、成田空港の税関から電話があり、荷物の中味を調べさせてもらったとのこと。「よく麻薬を混入して運び込むことがあるので確認した。」と先方はおっしゃった。専売公社の職員も信用できないと言うわけだ。お陰で送られてきた塩は、包装容器が見るも無惨に壊されてガムテープで痛々しく補修されていた。包装容器を写真に撮るために出来るだけ壊さないように努力したことが無駄になってしまった。
ヨーロッパで買い物をした失敗談をもう一つ。食用塩の国際規格案検討でハーグに滞在したとき、食品添加物協会の方で味の素出身の人と一緒になった。その人が言うには、海外出張した折りには、出来るだけ外国のインスタント食品を買って帰り、試食してみるとのこと。なるほど、さすがに一流食品メーカーに勤めたことのある人はそう考えるのか。それはよい考えだ。家族にも外国の味を楽しませてやろうと思い、いくつか美味しそうな製品を買ってきた。家内に一くさり講釈を述べ食べてみると、何だこれは!の連続で、まったく口に合わない味で、さんざんバカにされてしまった。庶民の食生活に関する味覚嗜好の違いに驚いた次第である。
ともかく、海外出張した折りの製塩会社訪問、その他情報収集に当たっては、たばこの在外事務所の多くの方々に大変お世話になったことを記して謝意を表したい。
本社時代の健康管理
少し話題を変えて、不規則な本社生活の中で健康管理に心掛けたことを述べる。小田原時代には毎日の昼休みにソフトテニスができ、一汗流せて、さわやかな気分になれた。1日に一回は健康な汗をかくこと(1日1汗)を心掛けてきたが、本社では運動することもなく、再びじりじりと太り始めた。本社にもソフトテニス部はあり、庁舎と虎ノ門病院に囲まれた中庭のコートで練習していたが、皆上手でレベルが違い、とても相手にしてもらえそうになかった。恨めしく見ていたが、下手の横好きという言葉もあり、勇を鼓して入部した。全国大会に向けて地区予選大会前になると、一晩泊まりの合宿に出かけ、練習後に酒を酌み交わし、他部門の人達とも知り合えとても楽しかった。
そのうち、職位を考慮したのであろうか部長に担がれた。技術的にも人格的にもその任ではないのだが、部長自らが一兵卒となって練習に励んだことから好感を持ってもらえたように思う。日本たばこのソフトテニスのレベルは高く、社会人大会でも優秀な成績を修めてくるチームがあるので、全国大会ともなると準決勝、決勝戦は見応えのある試合となる。本社チームの個々人はすばらしい力を持っているが、忙しい職場であるのでどうしても練習不足となってチームワークが取れず上位の成績を修めることが出来なかった。しかし、30数回目の全国大会で勝ち進み初めて三位になった。これまで何回も優勝経験のあるチームにいたことのあるF監督は本社チームを入賞させたことに感激した。その夜の祝賀会では酒がはずみ、その後も飲む席ではしばしばこの時のことが話題になった。
このようなこともあって、その後は練習にも熱が入った。そんなあるシーズンオフの時、自主トレーニングでもないが、体力を維持するためと減量のため昼休みに階段の上り下りを始めた。皇居前をジョギングする人は沢山いたが、階段の上り下りをする人は見かけなかった。当時、霞ヶ関ビルの36階は展望台となっており、非常階段を1階からしこしこと上った。12分位かかった。はずむ息を整えながら、汗をふきふき一周して大都会の東京を俯瞰し爽快な気分であった。その後またしこしこと階段を下まで下りるが、これが楽なようで案外こたえた。それ以来、エレベーターやエスカレーターには出来るだけ乗らないで歩くようにした。財団は3階に位置しているので、長い階段を上り下りすることがなく、せめて新橋から六本木まで40分間歩いて通勤し、体に負荷をかけている。
国際塩シンポジウムの開催
国際塩シンポジウムについては「効果的な情報収集」の項で少し述べたが、最近では本誌のNo.37で、また少し前になるがNo.13のシンポジウム特集号の座談会記事ですでにかなり述べたので、開催の様子は省略し、重複を出来るだけ避けて前後のエピソードをいくつか述べる。
開催引き受け
国際塩シンポジウムは3、4年ごとに6回ほど開催されており、第7回はアメリカで開催されるものと思っていた。ところがなかなか開催の案内が出されず、その内にアメリカ塩協会理事長のハンネマンが突然、中国観光の帰りに御夫人同伴で日本塩工業会に日本での開催を打診に来た。中国に行く途中、成田空港から日本塩工業会宛に投函した手紙によると日本海水学会の出版物に関することが用件のようであり、M塩工業会副会長の要請で私もその場に同席していた。しかし、持ち出された話は日本での塩シンポジウム開催の要請であったので、そのようなことは出来ない事情を説明して了解してもらい、一件落着と思っていた。
しかし、この件についてはヨーロッパ塩研究会から別のルートを通して塩専売事業本部の方へ話が来ていた。私はある時、部長室に呼ばれ、その件を話されたが、とても引き受けられる状態ではないことを話した。それでことが済んだと思っていたところ、財団設立を目前にしていた頃、ヨーロッパ塩研究会のド・ボルデス会長が再要請に本部に来られ、私も同席して話を聞いていたところ、突然その場でE本部長から塩の国際シンポジウムを開催する方向で検討するように言われた。
開催準備
命令となればやむなく、これまでに出席したことのある人々は退職しており、さてどの様にしたものか思いながら、とりあえずはこれまでの事績を出来るだけ丹念に調べることから始めた。その結果、大体の概要はつかめた。私の経験として小さな学会ではあるが、日本海水学会の研究技術発表会のお世話をする役割の一端を担っていたので、その国際版で規模のでかい物を行えばよいと覚悟を決めた。私としては日本という場所を提供し、アメリカ塩協会なりヨーロッパ塩研究会等が主体となって行う指示に従って出来るだけの協力をすればよいものと甘く考えたのである。それというのも、日本海水学会は隔年毎に地方で開催していたのが、そのやり方であったし、タバコの国際会議であるコレスタもそのようなシステムになっていたからである。しかし、話を詰めてみると、先方も人が代わっていて開催の経験がなく、財政的援助は一切出来ないので日本の好きなようにしたらよい、とのことで、会議の準備、運営に知的、肉体的協力を取り付けるのが精一杯であった。中でも私を悩ました一番の問題はプロシーディングスを発行することであり、その見通しは全くつかず心配であった。
心配の第一は編集者探しであり、第二は出版社探しであった。編集者については、日本でシンポジウムを開催することを聞きつけて、第5回、第6回のプロシーディングスを編集した人から第7回目も編集者になりたい、と経歴書をつけて売り込みの手紙がきた。女性の地質学看で、いろいろと条件は付けられていたが、経験者でもあり立派な経歴を持っていたので、これ幸いとばかりに渡りに船で交渉を進めることにした。交渉した手紙の中に、これまでの経験からいくつかの意見が書かれていた。その一つに、発表はサイエンティフィツク・ペイパーに限るべきで、ポリティカル・ペイパーは避けるべきである、とあった。ポリティカル・ペイパーが如何なる物であるのか解らなかったので、問い合わせてみたところ、企業宣伝の発表であることが解った。
第6回目のプロシーディングスはシンポジウム終了後、出版までに3年あまりもかかっており、海外の団体からも苦情が出ていたので、シンポジウム終了後1年以内に出版したいと、売込み者に強く要請したら、とても1年では出版できないので、他の編集者を探してくれ、と断られてしまった。逃げられた魚の重要性を思って、しばらくは途方に暮れていた。結局、垣花、豊倉、星、R.ハーデイJrの諸先生方にお願いした。
第二の出版社については、これまでのプロシーディングスが名もない出版社で出されており、編集もあまり良くなく、文章と図表のバランスが悪かったので、名の通った出版社から出したかった。そこでアカデミック・プレスに打診してみた。アカデミック・プレスでは出版企画会議にかけて検討したところ、対象が地学、工学、理学、医学、生物学とあまりにも幅広くて、購買者の的を絞れないので販売上不利と見て断られてしまった。その後で、シンポジウム開催を日本に持ち込んできたオランダの製塩会社の人がエルゼビアから出版してもらえるように話を着けてくれたので、これは願ってもないチャンスと思い、すぐさま条件を聞いて契約した。外国人の中には、プロシーディングスをエルゼビアから出すと言ったら発表者を誘いかけよう、と言ってくれた人もいた。それほどに学術分野では名の通った出版社である。
次回の開催発表
シンポジウムを終えるに当たり何とか路線を引いておきたいと思ったのは、次期開催のことであった。前回カナダで行われた6回目の時に、次期開催地を決めることが出来なかったので、9年間もの間があいてしまった。そのようなことがないように4年目ぐらいに設定して継続できるようにしておきたかった。7回目の次は、最初の話ではアメリカで引き受けるように聞いていたのに、どうやら次期の8回目はヨーロッパにさせることをアメリカは考えているらしいことが判った。そこでヨーロッパ塩研究会の会長に次回を引き受けてくれるように手紙で要請したが、ヨーロッパの中で話し合いがつかない状態でシンポジウムを迎えることとなった。こちらとしてはシンポジウム開催中に、日本に開催を要請してきた世界一の製塩会社であるオランダの会社に引き受けさせようと考え、元E本部長(当時某たばこ配送会社社長)にプッシュしてもらうようにお願いしていた。
ところがシンポジウム会場で最後のプログラム委員会を開催し、シンポジウムの運営を順調に進められるように打ち合わせた折りに、出席していたオランダ製塩会社のビアマン(ヨーロッパ塩研究会副会長)が口を滑らせて次回を引き受けるようなニューアンスの発言をし、あわてて口を詰むんでしまった。次回を引き受けてくれる積もりであることは十分察せられたが、正式な意志表示ではなかった。
そのうち、バンケットの会場で、その人に呼び出され、正面舞台の袖で通訳を介して、シンポジウム開催の舞台裏の質問をされた。予算、準備期間、事務局の陣容などであった。いよいよ引き受ける積もりであることが濃厚に察せられた。予想したとおり、ついにフェアーウェル・パーティーで次期開催について発表することが伝えられた。「京都で桜が満開の時期に、すばらしいシンポジウムが開催され、非常に感銘を受けた。次回はオランダでチューリップが満開となる一番良い時期に開催したい。しかし、4年先では短すぎるし、9年先では長すぎる。ともかく20世紀中に行いたい。」とビアマンが正式に発表してくれた。万雷の拍手が沸き起こった。かくして20世紀最後の年である2000年5月にハーグで開催される予定で、本号でも紹介しているように準備が進められている。
プロシーデインクス出版とお礼参り
シンポジウムを終えて一段落し、論文原稿の査読、修正も順調に進んできた秋に、ソルト・サイエンス研究財団のT専務と一緒にアムステルダムにあるエルゼビアの本社に出かけ、プロシーディングスを約束通り翌年3月末までに出版できるように打ち合わせることとした。同時に、シンポジウム開催に際してお世話になったヨーロッパとアメリカの関係者にお礼を述べて回ることにした。
エルゼビア本社では担当部長は留守で、美人で大柄な担当の女性が応対してくれた。「期日までに出版できるかどうかは、論文の著者校正が期限内に帰って来るかどうかにかかっている。ほとんどの場合、これが原因で出版が遅れる。」と言われた。
それに関しては私が責任を持って処理して、最終原稿を期限内に渡すから期日に遅れないように出版してもらいたいとお願いし、表紙の材質と色を決めた。そう言った手前、著者校正が期限に遅れた場合には、事務局が原稿に基づいて責任を持って校正して出版することを付記して、論文著者との校正原稿のやり取りを行い、予定通り出版することが出来たので、ヤッターと言う達成感にひたった。
お礼参りの一つに地質関係のプログラム責任者であったペンシルバニア・ステイト・ユニバーシティの地質学教授であるハーデイ先生を訪ねた。ニューヨークから20入乗りくらいの小さなプロペラ機でハリスバーグ経由でステイトカレッジ空港まで飛んだ。時は秋の真っ最中で、太古に氷河で削られたというフィンガーレイクの南方にある幾筋もの山の連なりが真っ赤に紅葉して波打っているのが窓から見え、実に見事な景色であった。
小さな空港には助教授が出迎えてくれた。先生は病気で会えないとのことで、助教授が研究室の設備や研究の内容を説明してくれた。その時に驚いたことは、樹木の鳴き声を聞く研究をしていることであった。樹木が水を吸い上げるときに音を出すというのである。夕食は先生に言われて台湾からの留学生がガールフレンドと共に接待してくれた。中華料理をご馳走してくれた後で、車で夜の大学構内を案内してくれた。広々としたキャンパスを車で走りながら説明してくれたなかで、図書館は24時間開いており、何時でも勉強できると言われ、信じられなかった。留学生達は留学期間に出来るだけ多くのことを勉強するために、夜遅くまで図書館を利用する、とのことで5階建の建物であったが、電気が煌々と点いていた。
翌朝早く大学構内を散策した折り、図書館の前を通った時、図書館入口の左右に本を読みながら思索に耽っているレリーフがあり、その中で左側にはTHE LIBRARYIS A SUMMONS TO SCHOLARSHP.右側にはTHE TRUE UMVERSITY IS A COLLECTION OF BOOKS.と書いてあり、なるほどと感銘を受けた。日本で24時間開いている図書館があることを聞いたことがない。勉学する意志のある人に対して、このような便宜を図っている。アメリカという国の底力を見せつけられたような気がした。向こう見ずにも資源、物量豊富なアメリカと戦争して負けたのは当たり前とよく言われるが、今でこそインターネットで24時間世界規模で情報にアクセス出来るようになったが、そのような手段がないときに昼夜を問わず図書館を開いて学問や研究の進展をサポートしている国にかなうはずがないと痛切に思った。
塩と高血圧に関する海外情報の収集と配布
塩は高血圧の原因である。塩は体に悪い。とマスメディアは報道し続けている。健康志向が高まる中で、体に悪いと言われている塩を販売して生活の糧にしていた私としては困った状況に置かれていた。塩は命の糧であり、塩がなくては生きていけないと言われながら、世界一の長寿国にいる日本人は塩の摂り過ぎで、減塩しなければ健康を維持できない、とばかりの報道に釈然としない気持ちであった。
しかし、塩と健康問題について問われたとき、私には答えられる知識がなかった。そのような時、T部長が本社の立場を私に訓辞された言葉が思い出された。自分が知っていないことには会社では誰も答えられないと思い、塩と健康の問題が学問的にどの様なことになっているのか調べ始めた。
主に外国の一般誌や専門誌を読んだ。最初の頃、Time(1982.5.15)に「食塩は新参の悪党か?」と題するカバー・ストーリーを読んだ。減塩の勧めや食塩摂取習慣の改善が大きな関心となっていることが報じられていた。その後、1988年に世界の32カ国、52センターで1万人以上に及ぶ精密な疫学調査であるインターソルト・スタディの結果が発表された。その結果を見てイギリスの高血圧専門家は、「食塩と高血圧との関係は弱く、むしろ肥満やアルコール摂取量との関係が大きい。」とコメントした。この疫学調査を行った研究者達は、食塩と高血圧との関係は弱いといえども、一日当たり6グラムの減塩を30年間続ければ収縮期血圧(最高血圧)で2.2 mmHgの上昇を抑えられるはずであると、減塩の効果を推定したが、説得力がないように思われた。そのせいか説得力をさらに強めようとして、この研究グループは結果を再検討し、8年後にこの数値を大きく10〜11 mmHgと修正して発表した。しかし、これに対してそのデータの公開(前の発表ではデータが公開されていた)、整理法をめぐって論争があり、ごく最近ではアメリカの科学誌、Scienceで「The
(Political) Science of Salt」と表題をつけ、減塩問題が科学的根拠に基づいていないことを論じている。
ともかく、最初のインターソルト・スタディの結果が発表されてから、食塩感受性の問題もあり、海外では総ての人に一律に減塩を勧めるべきではなく、食塩感受性の人だけに勧めればよい、との意見が強く出されるようになってきた。
国際塩シンポジウムを開催するにあたり、アメリカの塩協会に協力を取り付けにワシントンまで行った際に、協会の勧めで近くのベセスダのホテルで開催されたNIH(国立衛生研究所)主催のワークショップに参加した。インターソルト・スタディの結果を踏まえての研究発表と議論の場であった。後にこの様子は専門誌に特集号で紹介された。この場でインターソルト・スタディを主催し、減塩を勧めるスタムラー博士(スタムラー博士は二人いた)一派と、調査結果を見て、塩と高血圧との関係は弱く、総ての人々に一律に減塩を要請するべきではないと言うダスタン博士(女性)他との間で激しい論争があった。いずれもかなり高齢の方々であったが、スタムラー博士は腕まくりをした腕を振り上げながら激しく応答したのに唖然とする思いであった。座長が、「この場は政策的なことを議論する場ではなく、科学的な事実に基づいて科学的に議論をする場である。」と取りなして治めた。ワークショップが終わって、帰り際にスタムラー博士がもう一人のスタムラー博士婦人に支えられるように寄り添われてとぼとぼと歩いている様子を目撃した。その時、スタムラー博士達が夫婦であることが判ったが、先ほどの激しい議論を展開したエネルギーは何処から出てきたのだろうか、といぶかる程の落差を感じた。ともかく自分の意見を主張する激しさに圧倒された思いである。ダスタン博士には塩シンポジウムで招待講演をしてもらうべく、依頼状を差し上げたが、連絡がとれず実現されなかったのは残念であった。
ところで現在でも、まだ減塩意見の方が優勢であり、活発に議論が続けられている。一つの問題点は、現状では食塩感受性を簡単に見分けられないからである。遺伝子レベルの研究が盛んに行われており、最近、アメリカで遺伝的なテスト法で食塩感受性を簡単に見分ける技術が報道されたので、我が国にも遠からずその技術が入ってくるものと思われる。
翻訳した塩と健康問題に関する資料はとりあえず国内の塩産業界に配布し、業界向けの新聞には問題意識を持っていた塩と健康問題について、いろいろな課題で論文を整理し、考え方をまとめ長年掲載を続けてきた。日本たばこを退職するに際し、塩事業センターの技術部からそれらの記事を一冊の本にしてまとめて出版していただき、深く感謝している。また雑誌等にも健康問題の現状の姿を機会あるごとに紹介してきた。
おわりに
研究機開から本社に来て、技術行政に携わってきた15年間を振り返って、残した足跡のいくつかを辿ってみた。この間、専売公社は日本たばこ産業株式会社へと民営化され、塩専売制も92年間の歴史を閉じた。
会社や制度は非常に大きく変動し、個人的にも周囲の環境変化に伴って大きな変動を経験してきた。国内塩産業の将来を築き上げる研究開発機関を強化したが、これを一人前に育てるには人、物、金と時間が必要である。人材については当初から不足しており、問題ではあるが、現在の衝に当っている人の努力に期待する他はない。ソルト・サイエンス研究財団の方は10年の歴史を刻み軌道に乗ってきたので、これからの塩産業を支える新しい技術の芽を生み出す努力をしなければならない。情報の収集・配布については、ソルト・サイエンス研究財団としての役割以上に詳細な情報収集やその配布を塩事業センターに期待している。
15年間の技術行政の中で、最低限の線路は引いた積もりである。線路上を頻繁に列車を走らせて錆び付かないようにさせられるか、機能を拡大させて線路を延ばせるか、複線、複々線に出来るかどうか、がこれからの問題である。塩専売制度を通して日本の塩産業を見事に発展させ、一人立ち出来るまでに育てた諸先輩の努力の跡を引き継ぎ、国内の塩産業を支えるために微力を尽くして行きたいと思っている。
((財)ソルト・サイエンス研究財団専務理事)
|