そるえんす、1993, No16, 38-50

 

第7回国際塩シンポジウムの思い出

橋本壽夫

はじめに

 

 7回国際塩シンポジウムが京都で開催されてから早いもので1年になる。終わってからの1年間は残務整理とプロシーディングスの発行が主な仕事であった。残務整理は秋までには終り、101日で事務局も解散したが、プロシーディングスの発行予定が1993年の3月末であったので、出版期日を守るべく出版社へ原稿を渡すために7月末まで多忙を極めた。
 プロシーディングスの出版が終わって一切の業務が終わるまで5年の歳月が流れたことになる。これまで本誌や日本海水学会誌に関連記事が発表されているが、最初から最後までこの仕事に携わった者として、この機会に思い出を書き残しておく。

シンポジウム開催引き受けるまで

19834月に私が本社に転勤してきたすぐ翌月の5月にカナダのトロントで第6回国際塩シンポジウムが行われた。その後、何の開催案内もなく4年間が過ぎた。次回のシンポジウムには上司から出席するようにいわれていたので、塩シンポジウムはどうなっているのであろうかと思っていた頃の1987年の夏に、SIアメリカ塩協会)理事長のハンネマン氏が日本塩工業会にこられた。
 前囿副会長と一緒に私も同席したが、日本でシンポジウム開催を引き受けてもらいたいとの意向打診であった。その時はすぐその場でお断りをした。
 一方、ヨーロッパ塩研究委員会会長のド・ボルデス氏が同氏の会社アクゾの日本営業所を通じて、当時の枝吉塩専売事業本部長のところへ開催依頼をしていた。ある日、本部長からシンポジウム開催引き受けの相談をされたが、とてもできませんとお断りした。
 しかし、19882月にド・ボルデス氏が来社し、私も同席した本部長との会談で引き受ける方向で検討することになった。海水総合研究所の設立やソルト・サイエンス研究財団設立の見通しなども含めて、情勢の変化があった上での決断であった。
 同時に、この際、日本の塩業を海外によく理解させることと、逆に日本の塩業関係者にも海外を理解してもらうことを願ってのことであった。
 このとき前回の開催後すでに5年経過しているため、出来るだけ早い23年以内の開催を依頼された。

組織作り

 業務のかたわら前回、前々回の実績調査、予算見積もり、業務内容の洗い出し、会場探しが始まった。19894月には専担調査役となり、10月には専担の調査役が1人加わり、具体的な計画が立てられるようになった。
 これまでの開催実績では開催期間3日間、参加人員600人、発表論文120件、その他テクニカル・ツアー、ファミリー・ツアー、各種パーティーを実施していた。従って少なくとも同程度を目標とし、その準備、運営に必要な組織を作ることで考えた。
 日本の塩産業界が一体となって資金協力も仰ぎながら運営していくためには、ちょうど19883月に設立された(財)ソルト・サイエンス研究財団が主催することが最も適当と考え、共催団体、協力団体として日本たばこを始め、塩生産、販売、消費の各団体、学会、その他業界を含めて協力していただく体制で組織を作った。
 事務局は日本たばこ塩技術調査室に設置して必要な人員を集めた。海外の団体では、これまで運営に携わった団体を共催団体とした。しかし、1962年にこのシンポジウムを最初に始めた北オハイオ地質学協会は塩に関係した会員が他の塩関係の研究会、地質学会などに分散してしまい、実質的に協力できない、とのことで参加できなかったことは残念であった。
 シンポジウムの開催には各種委員会が必要であるが、他の国際会議、シンポジウムを参考にしながら、最終的には必要最小限度の委員会を設置し、外部機関を利用できる仕事はそちらに任せて、事務局が全体的に業務をコントロールした。実際に作られた委員会は組織委員会、実行委員会、プログラム委員会、総務委員会、編集委員会だけであった。
 事務局には業務の拡大にともなって少しずつ人数が増えたが、最終的には5人となった。この5人が何役もの役割を掛け持ちでこなした。大会当日は全国の塩事業部からの応援者とたばこ事業部からも応援者を派遣していただいた。

資金作り

 前回のカナダでのシンポジウムでは参加料と論文集の売り上げ代金だけで決算すると若干の黒字が出た記録が残されていた。日本で行うにつけては経費がかさむことが見込まれ、最初に会場費の見積を数件取り、日本での開催には非常に経費がかさむことを海外の団体に訴え、資金援助をして貰えるかどうかを問い合わせたところ、参加費と論文集の売り上げ代金で賄えるように会議を運営すべきで、資金援助はできないとのことであった。
 そこで国内の共催団体、協力団体に資金援助を仰ぎ、ソルト・サイエンス研究財団に寄付していただいたが、中でも大スポンサーは日本たばこで、大蔵省との折衝に当たられた方は大変苦労をされた。お陰で通常の国際会議では最大の難問である資金作りに事務局としては頭を悩まされることなく、他の業務に力を注ぐことができた。

サーキュラー

 サーキュラーとはシンポジウムの開催案内である。通常2回出される。第1回目のサーキュラーは開催案内と論文募集、参加中し込みであり、第2回目のサーキュラーは各種ツアーも含めたプログラム案内やホテル案内とそれらの申し込み要領である。このシンポジウムでは海外からの早急な通知要請もあり、定期的な開催から外れてしまったので、4回出した。
 第1回目は事前通知としてシンポジウム開催日、期間、主催・共催団体、議題、その他の必要な情報
19906月に知らせて参加準備ができるようにした。10月には第2回目として第1回サーキュラーを出し、論文募集を行った。第3回目は第2回サーキュラーとして19916月に仮プログラムの通知、各種催し物参加申し込み、ホテル宿泊申し込み募集を行った。12月には最終サーキュラーとして、その後の追加プログラムと発表時間、場所の案内と割引き参加登録の督促を行った。
 サーキュラーでは最初にシンポジウムの骨格を知らせて、回を重ねるにつれて次第に詳細な情報を流し、より多くの参加者が集まるように、また参加者がスケジュールを立てやすいように、あるいはトラブルなく旅行できるようにしてきた。
 シンポジウムの骨格の中で、会期についてはこれまでの実績から4日間とした。会場については開催を引き受けてから早急に東京と京都で探し、少し交通が不便であるが、会場数、環境、雰囲気、経費の点から国立京都国際会議場にした。時期については最初、出来るだけ早い開催を要請されたことから1991年の春を考えた。
 しかし、その時期は医学総会が京都であることで国際会議場はすでに長期間の予約済みで使えず、やむなく、夏と前年の秋を仮予約して、海外の共催団体に意向を問い合わせたところ、1団体から12年延期してほしいという申し出があった。アメリカにあるこの団体は1990年の秋にパリで会合を計画しており、1年も経たないうちに遠方の日本に出かけるとなると参加者が少なくなるという理由であった。そこで1年間延期して海外団体の了解も取った。
 これは非常に好都合なことで、会場は好きな時期を選ぶことができ、準備期間も十分にとれ、我が社の海水総合研究所からの発表件数も多くなることが期待された。後で考えるとこの延期は別のことで大変ラッキーであった。それというのも、当初の予定通りであれば1991年の正月明けに始まった湾岸戦争の影響をまともに受けて開催が危ぶまれ、事務局は対応に苦慮するところであった。
 テーマについては、塩を共通の話題としてこれまでのテーマの他に出来るだけ多くのテーマを盛り込み、地質関係、溶解採鉱関係、製塩関係、塩と健康の問題、市場その他の5つのセクションを設けた。この中で新たに設けた大きなテーマは塩と健康の問題であった。アメリカ、ヨーロッパの製塩業界はこの問題に大きな関心を持っており、塩と高血圧との関係を正しく認識してもらおうといろいろな活動を行っている。
 5つのセクションの下に、より細かくブレーク・ダウンしたセッションをいくつか設けた。新しいセッションとして、労働安全衛生の問題、イオン交換膜利用、塩田の生物管理、塩の歴史、塩性土壌、海水淡水化、ソーラー・ポンド、食品加工など設けたが、発表の応募がなく消えたセッションもあった。しかし、中にはヨード欠乏症撲滅のように途中で加わったセッションもあった。
 これはWHOの機関の一つであるユニセフがヨード欠乏地域で生活している世界中の10億人の人々にヨードを与えヨード欠乏症を2000年までに撲滅しようという運動をしている。ヨードを添加した塩を食べさせることにより確実にこの病気は治り、あるいは予防することができるので、天然痘を撲滅したようにかならずなくせるとして、世界で300人ぐらいの学者を集めて運動を推進している。
 その団体の実行委員長であるへッツェル博士が合いにきて、世界の塩産業界に協力を訴えたいので是非4件ほどの講演をさせてもらいたいとの要請からできたセッションであった。

海外共催団体への協力要請

 塩の国際シンポジウムには従来から日本も参加してきたが、開催を引き受けた事務局メンバーは誰も参加したことがなく、世界の塩事情もよく分からず、海外の共催団体メンバーとも面識がなかった。そこでサーキュラーの内容打ち合わせなどを含めて海外団体へ協力要請に出掛けた。
 それは198910月に武本実行委員長と私がアメリカの塩協会と溶解採鉱研究会に、翌年5月には同じメンバーでヨーロッパ塩研究委員会に、7月には枝吉大会副委員長がアメリカの内務省鉱山局と塩協会に、10月には枝吉大会副委員長と私がヨーロッパ塩研究委員会に、19915月には武本実行委員長と長谷川総務委員長がアメリカとヨーロッパに、6月には園部大会委員長と七尾実行委員が参加呼び掛けのためにヨーロッパ塩研究委員会の年次総会に出席、10月には前囿大会副委員長が、日本塩工業会のメンバーの方々とSIのフォールミーティングに出席し、参加への呼び掛けを行うといった具合であった。
 これを機にヨーロッパ、アメリカのいくつかの製塩企業のせんごう設備や岩塩採掘、塩の博物館を見学できたことは海外の塩事情を知る上で大変役だった。また、アメリカのベセスダで2日間に亘って開かれた国立心臓・肺・血液研究所主催の塩と高血圧に関するワークショップに参加することができたのは幸いであった。
  100人ぐらいの専門家の集まりで、塩と高血圧に関してあらゆる角度から著名な研究者から35件の発表があり、インターソルト・スタディの塩は高血圧とはあまり関係がないという結果を基に、それでも減塩すべきであるという派と、減塩を勧めなければならない科学的根拠がないとする派との対立した激しい議論を目の当たりに見て非常に面白かった。
 海外共催団体との打ち合わせ、製塩会社訪問に際しては、当時まだ活動していたワシントン事務所を始め、ニューヨーク事務所、ロンドン事務所、デュッセルドルフ事務所の方々に大変お世話になった。

プログラム編成

 従来のシンポジウムのプログラムでは最初から各セクションに分かれて学術発表が行われていたが、今回は新しい試みとして、全員が一堂に会して講演を聴けるプレナリー・セクションを最初にも設け、アメリカ、ヨーロッパ、日本の代表演者の話を聴いた。
 これにはあらかじめ大体の講演内容を演者あるいは団体に話してお願いしたが、その時の話で、ヨーロッパについては1992年にEC統合がアナウンスされていたので、EC統合後のヨーロッパ塩産業界の展望を話してもらいたいと持ち出したところ、そんなことを話せる人は誰もいない、そもそもEC統合がどうなるかも分からないとのことで、こちらの認識不足を笑われてしまった。現在の状況を見ると誠に尤もである。
 特別講演については最初、塩と健康問題のセクションで4件ほど考え、セクション・マネジャーの星先生と相談して演者を選び、招待講演の依頼状を出した。しかし、いろいろと事情があって、結局のところスウェールス先生しか引き受けてくれなかったので、プログラム委員会でプレナリー・セクションの後にもって行くことに決めた。大変評判のよい講演で、いろいろな人から初めて塩と高血圧との関係を知ってよかったと聞かさた。
 学術発表の期間を3日間として半日はプレナリー・セクションに当て、後の2日半で5会場を使い各セクションを同時並行で進め、講演時間は発表論文数により20分から30分にする構想であった。海外からは20分講演10分質疑応答の強い要望があったが、200件以上の発表申し込みがあったので、15分講演5分質疑応答とした。セクション3には他のセクションの2倍ほどの応募があったので、会場とセクションが一致しないところが一部出てきたが止む終えないことであった。
 各セッションの配置については関連したセッションは時間的にずらして、製塩工場へのテクニカル・ツアー、同時通訳、さよならパーティーへの全セクション関係者の出席などを考慮して決めたが、後で海外の製塩関係の出席者から時間帯が一緒で聞けなかったとの声を聞いた。海外からの出席者は少なく、製塩も岩塩採鉱、溶解採鉱、天日製塩、真空式製塩など1社でこれら全部の方法で製塩している会社があるからであろう。
 発表者の中には1人で3件もの発表申し込みをした人もいた。これは他の発表者が参加できなくなることもあるので、プログラム委員会で2件以内とした。インドの1国立研究機開から13件もの発表申し込みがあり、本当に参加してくれるかどうか危ぶまれたが、アブストラクトの審査段階ではパスさせた。しかし、最終プログラムを組む前にフル・ペイパーを提出していない発表者はその段階でお断りした。それでも9件残った。
 ところが心配した通り、それだけの参加者を出席させられないので代理発表の了解を求めてきた。しかし結局1人も参加せず、散々振り回された揚げ句に、あるセッションでは軒並みにキャンセルとなり、キャンセル講演の後で発表する人と聴衆者に大変な迷惑を掛けてしまった。その発表者は最終プログラムを決定した後に申し込んできたので、事前に調整できなかったからである。
 このような事ができるだけ起こらないように、出席が危ぶまれる発表者を各時間区分の最後の方に配置したが、それでも本人や家族の急病で数人のキャンセルが起こり、急遽代理発表をお願いしたものもあった。
 発表会を運営する上では合の進行を担当する座長が必要である。座長は原則として日本、海外から各1名ずつの2名とし、プログラム委員、実行委員を中心に発表者の中から各委員に推薦して頂いた。しかし、80人からの座長選びは大変であった。というのは、特に海外の座長であるが、プログラム委員が発表者を知っていれば問題なく推薦してくれたが、知らないことが多く、やむなく私が発表者の中から大学関係者や研究機関関係者を選び、依頼状を出した。
 しかし言葉の問題で断られることも多く、また次の人を探すといったような具合で3カ月も費やしてしまった。年齢、経歴も分からないで大学の名前だけで選んだ中には非常に若い人もおり、依頼状を読んで感激し自分でよければ引き受けるとの返事をいただいた人もいた。しかし、悪いことに最終のプログラムを組んでみるとキャンセルが多くて、結局その人が担当する講演がなくなってしまい、丁寧な詫び状を出したが、ばつの悪いことをしてしまった。

同時通訳

 国際会議ではどうしても言葉の障害があり、それをいかに解決するかが問題である。いろいろと議論はあったが、最終的に公式言語は英語だけとし、発表は英語とするが、活発な質疑応答ができるように日本で関心のある3つのセクション(3会場)では日英の同時通訳を行って、質疑応答はどちらの言葉を使ってもいいようにした。
 同時通訳が旨く行われるかどうかは、事前の準備がどれだけ用意周到にされているかにかかっている。これはやってみて大変なことが分かった。件数が少なければまだよいが、120件以上ともなると、このための事務局の事前準備と当日の運営は大変であった。
 専門用語の対訳、スライド・コピー、発表原稿(できれば英文と日本文)の用意を事前にし、あらかじめ通訳者に渡して勉強してもらったが、数が多くてどうしても事前に提出してこない発表者がいた。このための対策としてあらかじめ考えていたことは、スライドをスクリーンに写してそれをポラロイド・カメラで撮って通訳者に渡す方法であり、これは旨くいった。
 しかし、OHPのフイルムしか用意してない講演者もおり、これはすぐコピー出来るがプロジェクターを用意してなかったので困ったが、会館側でそれをスライドにする設備を持っていたので助かった。会場が広いのでOHPは使えないと注意していたにもかかわらず、この有様であった。
 日英の同時通訳があることをサーキュラーで知らせたところ、中国の人から英語を話せないので中国語で講演したいとの申し込みがあった。これは受けられないことであったが、英語の通訳者を同伴して中国語を英語に通訳しながら発表するならばよいと譲歩したところ、結局参加取り止めとなった。とんでもない人がいるものだと思いながら一安心していたところ、後で聞いた話では、会場で突然中国語で発表し始めた人がおり、アメリカ在住の中国人が通訳を買って出てやっとのことで事なきを待たことがあったそうで、とても考えられないことをするものだと驚いてしまった。
 また中国人の発表の中には、話題が古いうえに発音が悪いので何を言っているのか分からないと海外からは随分不評を買ったものもかなりあった。中国からの参加者も多いことから中国語の分かる社員の応援を仰ぎ、発表以外の運営業務で大変助かった。
 多くの参加国があることから事務局として言葉の問題が心配され、ドイツ在住の通訳者を呼び、パーティーで日英逐次通訳をしてもらう一方、事務局でドイツ語、フランス語、スペイン語に対応して項いた。ドイツに出張してニュールンベルグでセクション・マネジャーと打ち合わせる時、彼女に日英の同時通訳をお願いした。その時、彼女の売り込みもあって経済性も考えてきて項いた。ヨーロッパの役員からは母国語で話ができたため非常に好評であった。

各種委員会

 シンポジウム準備、実行のため組織委員会3回、実行委員会9回、プログラム委員会11回、編集委員会6回を行った。そのほかに総務委員会を何回か行った。各委員会には海外委員も含まれているが、遠くて出席できなかったので、日本で開催した会議の議事録を送り、意見があれば次の会で紹介し検討した。
 1回だけ会議運営を円滑にするため海外委員も参加してシンポジウム開催直前に現地の会場でプログラム委員会と編集委員会を合同で行った。各委員会はおおむね計画通りに行われ順調に推移した。しかし、プログラム委員会は私が委員長であり、海外との通信窓口は私だけにしており、事柄が特殊なことであるので議案はほとんど私が作った。従って会議のときは誠に具合が悪く、委員長が説明し、答弁しながら委員長として意見を聞きまとめていかなければならず、大変運営しにくかった。
 海外委員との交流が非常限られていたので、海外委員が学会やビジネスで日本に来られた時には関係者と会合する機会を作り、できるだけ意思の疎通が図れるようにした。その最大のものが全役員が集まってシンポジウム開催前の日曜日に行われたプリ・カンファランスであった。この効果は大きく、開催期間中、運営が順調に進められ、より友好を深めることが出来た。

ハプニング対応、運営マニュアル作り

 順調な運営を計るためにあらゆる行事、場面の運営を想定して手順書を作り、担当責任者を決め、事務局全員で何回となく打ち合わせ会を持ち、見方を変えたり、特殊なケースを想定して少しずつ完全な手順書に完成させていった。
 この中には入国ビザを持たないで日本にきてしまった場合も想定された。それというのも、国際シンポジウム開催の情報収集の中でしばしばこのケースが出てきて事務局は対応に苦慮されたことを聞かされていたからである。そのため、海外の大使館、領事館のリストなども用意された。しかし、幸いにもそのような最悪のケースはなかったが、開催直前に海外から会場の事務局に電話が入り、ビザが早くおりるように外務省に頼んでくれというケースはあった。

ファミリー・ツアーとテクニカル・ツアー

 京都で開催するにつけてはファミリー・ツアーのコースには困ることはなかった。しかし、神社仏閣が多く、似通った物を見る機会が多くなるので工夫する必要があった。コースの一つに御所の見学があったが、御所を見学するには誠に面倒な手続きが必要で心配していたが、幸いにも一般公開の日に当たり何の手続きもなく見学できたのは幸いであった。
 京都と奈良で桜が満開の季節によい天気に恵まれ、日本の一番華やかな春を十分に楽しんでいただけたことは望外の喜びであった。
 テクニカル・ツアーの企画は海外の意見を取り入れて行われたが、製塩会社の見学は大変人気があり、2回行ったにもかかわらず定員オーバーで断られた人もおり、海外からの参加者に迷惑を掛けてしまっ
た。

 一方、サンヨー電気の見学は不評で参加者が少なく失望させられた。海外からの要望で電気関係の見学先を探したがなかなか見学させてもらえず、JTの自動販売機関係からのお付き合いでやっとサンヨー電気のOKを項いた。見学コースを下見してビデオ・デッキ製作の組み立てはもちろんのこと、機械加工の自動化が進んでいることに感心し、面白いコースであると思っていたのに残念であった。
 5日間続いた好天もシンポジウム終了した途端に待ち兼ねたように雨となり、トヨタ自動車見学は雨の中で行われた。このコースは京都から成田まで行く途中に組まれており、箱根で一泊したが、翌日は正午頃から晴れ、雨上がりの富士山を見ることができたとのことで、最後までツキがあったような気がした。

セレモニ−,パーティー,催し物

 これまでのシンポジウムではセレモニーはなかったようであるが、30周年記念大会でもあり、めりはりをつけたいところから、開会式と閉会式を行った。開会式では各組織の代表者の挨拶や紹介が行われ、閉会式では次期開催のアナウンスをすることを最大の目的とした。
 開会式の出し物であった京都少年合唱隊は会議場としても始めてのことで、舞台設営に頭を悩ましたが、大変な好評を博しボランティアを起用してよかった。閉会式での次期開催の発表はシンポジウム開催までに事前の調整がつかず、漠然とヨーロッパで行うと言うだけの発表予定であったが、開催期間中にヨーロッパの方で話が固まり、次回までの期間が長くて多少不満足ではあったが時期、場所、事務局が明確にされたことは大成功であった。
 シンポジウム開催期間中、参加者の交流と親善、日本の季節、民族性に触れてもらうため、歓迎会に始まって毎日のパーティーと余興の出し物を考えた。4回行われるパーティーの趣向をどう変えていくかと言うことは頭の痛いことであった。しかし、天気に恵まれ夜桜やガーデン・パーティーまで楽しむことができ、ガラ・パーティーでは飛び入りで余興を楽しんでいただけた。
 バンケットでのダンス・フロアーの設置もホテル側のアドバイスで用意したものの、どうなることかと心配していたが、結構楽しんでいただけた。しかし、これには皮切りが必要で主催者である会長には予期しないハプニングとなった。

開催期間中のこと

 開催期間中の出来事は正直なところ私自身はあまりよく把握していなかった。本来であれば事務局長として学術プログラム以外の全体的なことに目配りをしていなければならず、海外からの参加者に対しては窓口者として取り敢えずの応対をしなければならない。プログラム委員長としては学術発表の進行が支障なく行われているかどうか、会場を回りながら様子を見ていなければならない。しかし、実態はそれらのことをほとんどできなかった。
 それでは何をしていたかと言うと、プロシーディングス原稿完成のため先生方への審査依頼と著者への修正依頼をしていた。つまり編集委員会会長代行の仕事をしていた。審査者と著者が一堂に集まっている所で原稿の完成作業をしておかないと、プロシーディングスの出版が遅れるからである。
 このための作業は原稿を審査者か著者に渡し、滞在期間中に審査者から返されてきたら、すぐ、それを読んで編集者として不都合なところは修正指示を加えてコピーを取り、著者に渡した。一方、著者から返されてきたら、コピーを取り審査者に渡して滞在期間中の審査依頼をした。従って、会期中ほとんど事務局に詰めきりとなっていた。
 このような次第であったので、最初のプレナリー・レクチャーを始める時間が5分間ほど遅れてしまった。これはプログラム委員長として大失敗であった。これには実は思い違いと、最後の詰めを行う連絡ミスが重なっていた。先にも書いたように手順書の作成で、最初のスタートをどうするか、十分検討していたことであった。
 最初は、私がスタートを切り、座長にバトンタッチをする案であった。何回目かの打ち合わせ会でこの実に対する座長の意向が伝えられて、その必要はないとのことであったので、私の役割はないと思って事務局で仕事に追われていたところへ、私が行かないと講演が始まらないからすぐ釆てくれと、会場のほうから総務委員長が走ってきた。
 それを聞いたとき一舜??……そんなはずはないが、と思いながらも急いで会場まで走っていった。座長は私の合図を待っていたのである。座長に気を揉ませ、壇上で長時間バツの悪い思いをさせ、大変申し訳ないことをしてしまった。このときは移動に時間が掛かることで、会場の広さが災いした。
 プログラム委員長として、座長と講演者が同じテーブルで食事をしながら、講演の進行を打ち合わせる昼食会の資料を作ることも結構大変であった。登録受付けで講演者が来ていないことが分かると講演の取り消しや代読講演を座長に指示しなければならない。
 代行講演では開催前に突然母親の危篤で来れなくなったヨーロッパのセクション・コマネジャーの講演ともう1人の講演を合わせて2件分を急遽代行してくれる人をコマネジャーが頼んでくれた。しかし、あまりにも時間のない中でのことであったので十分連絡も取れない状態であった。
 先方も心配であったと見えて、アメリカを出発する前に秘書から電話が事務局に入り応対すると話が違っており、1人分しか頼まれていない、と言う。しかし、ともかく2人分の講演をお願いして電話を切った。その演者はプレナリー・レクチャーの後の午後320分からの講演であるが、なかなか現れない。
 気を揉んでいると11時半頃になってやっと事務局にこられた。同時通訳があるのでその準備をしなければならず、早速、スライドを預かりたいと言ったところ持っていない、とのこと。冗談ではない。困ったことになったと思いながら同時通訳のことを説明したら、会場前のホテルに泊っていると言うので、すぐ引き返して取って来てもらい、ことなきを得た。
 私は3日の午後から現地入りし準備を始めた。その前から来て準備している事務局のメンバーもいた。連日午前2時、3時まで仕事をしなければ翌日の用意ができなかった。事務局のメンバーは会期中、会議場付属の宿泊施設に泊まり込みであった。その前は会社の宿泊施設に泊まって通っていた。
 その時の一日のことであるが、仕事で遅くなり宿に遅くなることを電話連絡した。しかし時すでに遅く、応答なく鍵を閉められて帰れなくなってしまった。やむなく事務局の部屋でほとんど徹夜で仕事をし、朝食のために宿に帰ると言うこともあった。私は幸いその日から二条城前のホテルに泊まることになっていたので、午前3時頃タクシーで帰った。その時うっかり外に出てしまい、幸いにも通りかかったタクシーに乗ることができた。
 その運転手にお客さんは運がいい。今時この道を走る車はいないので、何時まで待っていても車を拾えないと言うのである。そう言われてなるほどと思い、それからは必ず電話して来させた。夜遅くなっても朝は7時の朝食が済み次第、会場へ出掛けた。
 ホテルの部屋は暖房が利かず寒くて風邪気味になった。8日朝のことである。ある先生ご夫妻と朝食を一緒にとりながら部屋の寒いことを話したら、先生の部屋も暖房が利かないで、奥様が風邪気味になっておられた。先生ご夫妻は一足先に食事を終えて出掛けられた。
 私もまもなく終えて出たところ、入り口で再びお会いし、その時、先生が私の体を気遣ってホテルから奥様のもらった風邪薬を私にくれた。会場に着いてからそれを全部飲んだ。3錠入っていた。ところが9時半頃から猛烈に眠くなり、連日の寝不足が応え始めてきたなと思った。しかし、そのうち腹が刺すように痛くなってきて、胃に穴が開くのではないかと思われるほどであった。飲み方を聞かなかったので3回分を一度に飲んでしまったと思い、悔やんだ。
 今日は日本たばこ主催のパーティーがあり、4時頃から社長の介添えをしなければならないのに、とんだことになってしまった。と苦しいのを我慢しながら仕事をしているうちにお昼頃になって少しずつ痛みが薄らいできた。今日で終わる昼食会に出て、少し御飯も食べることができ、どうやら、事なく収めることができた。
 後で先生の奥さんに眠気と腹痛のことを話し、3回分を一度に飲んだのが悪かった、と言ったところ、あれは一回分で、疲れがたまっていたからですよ。無理をされないで気を付けるようにと言われた。風邪薬で眠くなることは聞いていたが、これまで経験がなく初めてのことであった。

プロシーディングスの作成

 シンポジウムが終わってもプロシーディングスが出版されるまでは業務が残り、私としてはこれが一番の心配事であった。
 英語で論文集を出版することについては見当が付かず、出来ればアメリカの塩協会がやってくれればと思っていたが、そのうちに前回のプロシーディングスの編集者から今回も編集をさせてもらいたいとの申し出があったので、これ幸いと思い、お願いする積もりでいろいろと手紙のやり取りをした。しかし、結局シンポジウム開催後1年で出版したいことを強く主張したところ、とてもできないので別の編集者を探してくれと断られてしまった。(ちなみに前回は開催後3年目に出版された。)
 しかし、編集する上では貴重な意見をいろいろと知ることができた。この段階で塩協会にも協力してもらおうと誘い掛けたが、これも断られ、とうとう自分で考えてやらなければならない羽目になってしまった。
 出版については、科学関係で一流の出版社から出すことを考え、日本に支社があるアカデミック・プレス社に当たったが、ニューヨーク本社の出版企画会議の意見として、あまりにも内容が広過ぎて販売のターゲットが絞れないとのことで断られてしまった。
  そのうちにオランダ・アクゾ社の人がアムステルダムにあるエルゼビア・サイエンス・パブリッシャー社に声をかけて、引き受けて賞えることとなった。これは一流の出版社で申し分ないことであるが、それだけに原稿の質、完成度をとわれ、論文の審査体制をどう組み上げるかが問題となった。
 基本的には座長、プログラム委員会のセクション・マネージャーを中心として、他に委員からの先生の推薦で審査者を構成した。
 審査で何件かの論文が収録拒否の憂き目にあったが、これは審査者の見識に負うことがおおいにあった。見識の高い審査者は、拒絶理由を詳細に述べており、感心させられた。逆に甘い審査者もおり、何の意見もなく担当したすべての論文をパスさせている人もおり、人選が間違っていたことにホゾをかんだ。
 特に中国、インドの論文の多くは編集者の修正が大変となったからである。
 審査に関連して著者との原稿のやり取りの中で出版社の論文記載マニュアルに合わせるように修正要求をして原稿を完成させ出版社に渡した。出版社のプロシーディングス編集の中で一番問題となったのは図の配置と大きさであった。
 こちらが予想していたようにはなっておらず、修正要求をした。しかし、編集者としての一般的な考え方があり、こちらが考えていたようにならなかったのは、記載マニュアルをよく読んでそれを考慮して著者が図を描いていなかったことに原因があり、なるほどと合点がいった。

社内支援体制

 スライド受付け、映写、発表時間の管理など、発表会場の運営は基本的にわれわれの手で行うこととして、応援者を海水総合研究所、塩業センター、塩事業本部に求めた。そのために英会話の勉強をしたことが効を奏したのか、さしたるトラブルもなく運営された。
 ただ、スライドの規格がいろいろとあり、特に厚さが厚いものはスライドの切り替え時にひかかって、慌てた場面があった。その他にも一般受付け、会場整理、ツアー援助、通訳、ビップ対応、急病人対応などのために本社たばこ部門や京都病院からも応援者を出していただき大変助かった。その数は40名近くにもなった。

その他事件やハプニング

 これまでにもいくつかのハプニングを交えて書いてきたが、長い準備期間と多数の国々の人々を相手に仕事をしていると、思わぬ事件に巻き込まれて気の毒なことになったり、考えてもいなかったことを要求されたり、ぬか喜びをさせられたりしたことがあった。そのいくつかを紹介しよう。

喘息患者からの要求
 イタリアの発表者から開催期日も迫ったある日、交通公社経由でファックスが入った。自分は喘息患者である。ついては添付資料の吸入器を用意してもらいたい。購入して持ち帰ってもよい、とのこと。
 人騒がせな何もそんな状態の人が無理をして違い日本に来ることはないのにと思いながらも、先方とファックスでやり取りしながら、専売京都病院から器具を借りることがでた。それを喘息氏の宿泊ホテル・フロントに預けて、これこれの人がきたら使用法を説明してこれを渡してもらいたい、と頼んでおいた。
 会期中は忙しさに紛れ、こちらもその人を探すこともなく、終わってからホテルに行ったところ使わなかったとのこと、何とも開いた口が塞がらなかった感じであった。しかし、会期中何の事故もなく終えることができたのは天佑であった。

ラマダン明けの祈り
 これも会期間近かの2月の末にインドの発表者から手紙がきた。自分はイスラム教徒であり、44日の夕方大阪空港に着き、5日のラマダン明けの祈りに立ち合って祈らなければならない。ついては日本のイスラム教合を紹介してほしい。これによってはスケジュールを変えなければならない、とのこと。
 さて、イスラムの教会ってどこにある?と周りの人に聞いて世田谷にあったはずだ、とのことで電話帳を調べ、電話をしてラマダン明けと関西地区ではどこに教会があるかを聞いたところ、ラマダン明けは4日で、大阪でイスラム教徒の面倒を見ている関西イスラム懇話会を教えてもらった。早速大阪と連絡を取り、教会は神戸にあり、京都にもいる世話人を紹介されて、ラマダン氏にその人と連絡を取るようにとファックスを送った。
 さて私は4日の朝から現地入りして準備を進めていたところ、10時頃、京都駅前の店から電話が入り、今インドの人がきて困っているので電話をしたのですがとのこと、電話を代わって事情を聞いたところ、連絡先の人とは連絡が取れないという。それではとりあえず車に乗って事務局にくるようにと指示した。事務局では忙しい最中に手を割いて応援者が対応してが、結局、教会には行かないということになってしまった。会期中この人ほど事務局にきていろいろな頼みごとをした人はいなかった。

内戦の巻き添え
 ユーゴスラビアに内戦が起こり、その巻き添えで2人の発表者が来れなくなった。1人は19923月に手紙がきて、昨年10月始めから遠く離れたところへ避難し、今年の1月半ばから家族と一緒に暮らせるようになった。今から論文を出したいが遅すぎるであろうか、というもので痛ましくて気の毒ではあったが、どう仕様もなかった。
 もう1人は出席できなかったが、論文査読は進められていた。しかし、途中で郵便が届かなくなり、これも諦めざるを得なかった。

突然の病気
 大勢の出席者の中では突然の病気でせっかくの機会を逃した人もいた。既にこれまでにも少し書いたが、中でも気の毒であったのは溶解採鉱研究会の世話をしている人であった。この人はこれまでのシンポジウムで共催団体として貢献してきており、この度のシンポジウムでも何かとアドバイスを項いた。参加呼び掛けにも熱心で、多くの人にサーキュラーを送るように住所を紹介された。
 高齢で今回が最後のシンポジウムになると考えて、奥さん共々日本にくるのを楽しみにしていたところ、3月中頃に突然歩けなくなり出席できなくなってしまった。開会式での機関代表の挨拶をお願いしてあったり、ご自身の論文発表もあったので、急遽代理人を出してもらうことにした。
 幸いにも4月末には大分よくなり、間もなく全快するであろうとの手紙が届き安心した。10月にアメリカのヒューストンでこの研究会の秋期大会があり、そこでお会いすることができた。大変元気になっておられ、シンポジウムでは残念でしたが、是非日本にくる機会を作って下さい、と言って帰ってきた。
 もう1人気の毒であったのはカナダの人で、アブストラクトの段階では発表申し込みをしていたが、論文を出す段階でガンが再発し書けなくなったと言う手紙を項いた。入院して手術をしたので治るものと思って応募したのに残念です。とあり、何と慰めの手紙を書いてよいか困った。

フィリピンからの団体参加
 アジアで初めての塩に関する国際会議であるので、アジアの国々から多数の参加者があることを期待していた。しかし、中国からは多数来るものの、台湾、韓国、タイから若干来るだけで、他の国々からの参加申し込みがなく期待外れで、がっかりしていたところへ、突然、開催前になってフィリピンから20名以上に及ぶ代表団を送りたいので招待状を欲しいとのファックスが入った。
 すわこそと思い早速送ったところ、さらに追加要求され、少し話が旨すぎるなとも思いながらも、それも送った。
 さて、これは事前参加登録ではないので、当日現地で登録してもらうことになる。忙しかった開催期間も終り、大体の参加者が把握できる時期になって、ところでフィリピンからの参加者を尋ねたところ、誰も来なかったことが分かり、あの招待状を急いで送れといった騒ぎはなんだったのだろう、と思いながらも取らぬ狸の皮算用をした自分の馬鹿さ加減に腹が立った。

富士登山
 ヨーロッパ塩研究委員会の会長は登山家で、訪れた国の一番高い山に登るの趣味であるとのこと。打ち合わせでヨーロッパに行ったとき、是非富士山に登りたいとの話しを出さた。富士山に登ると言っても冬山で4月は雪崩などもあり一番危険な時である。さても困ったことを言い出したものだ、と頭を抱えていた。登山のガイドを探したが見付からず、この上は大変危険なことを知らせて断念してもらうしかないと思い、富士吉田警察署に電話でその時期の富士山の状況を問い合わせた。それを基に毎年死者も出て大変危険であるしガイドもいないことなど手紙にくどくどと書いて、断念することを期待していた。
 しかし、敵もさる者、登れるところまでで良いから登ると言って聞かない。仕方ないので、登山家として危険の判断は出来るであろうから決して無理はしないで危険な時は折り返すように、また、万一遭難の場合にすぐ救助体制がとれるように警察署に登山届けを出さなくてはならないので、連絡先、登山歴を知らせるように手紙を書いた。知らせてきた山の中には旧ソ連のピーク・レーニン(7,134 m三番目に高い)やタンザニアのキリマンジャロ(5,895 m)があった。
 幸い塩事業本部のMさんが登山仲間を1人誘ってガイドしてくれることになり、装備の準備を打ち合わせ、ザイルとピッケルは日本で用意し、服装、登山靴、アイゼンは持参してきた。実はこの登山にもう1人会長の仕事仲間の人が加わっていた。彼は山歩きはするが高山の経験はあまりなかった。私と塩事業本部のNさんが車で2人を5合目まで連れて行き、そこで下山してくるまで待機することにした。
 412日の朝8時過ぎに5合目で落ち合い、若干のミーティングのあと25分頃から登り始めた。幸い天気はよく晴れており、冷たい風が強く吹いていたが項上は目の前に見えていた。しかし、次第に崩れて行くという天気予報であった。
 はたして10時半頃には項上は曇って見えなくなり、午後1時過ぎになると吹雪きとなって富士山はすっかり見えなくなってしまった。項上に着いている頃であるが、悪い天気となり心配になってきた。2時半頃には少し晴れたが、それも1時間ほどで再び吹雪きとなった。すでに項上まで登って下山してきた人達が暖を取りながら話しているのを横で聞きながら、休憩所で待っている私たちはもう降りてくる頃だ、とそわそわしだした。4時過ぎになって、ようやく雪まみれになりながら眉を凍らせて4人は降りてきた。
 項上まで登って標識のところで記念写真を撮り、ぐずぐずしないですぐに降りてきたとのこと。下山途中で転んだこともあったようだが、ザイルで確保したお陰で事故にならず、無事念願を果たせたことは何にもまして有り難いことであった。件の登山家はさすがにタフであったそうである。早速、暖を取りながらビールで登項祝いの乾杯をし、買っておいた絵葉書に皆で記念のサインをして投函し、店仕舞いをし始めた休憩所で急いで土産物を買って、そそくさと車で下山した。

海外の反響

 第7回国際塩シンポジウムは上手に組織されて、さしたる不手際もなく、毎日楽しいパーティーがあり、天気にも恵まれたお陰で、会期中にもいろいろな方々からお褒めの言葉をいただいた。終了後にも、何通ものお礼状が届き、皆で苦労してきた甲斐があったとつくづく有り難いことであると思った。しかし、これは総体的なことで、実際には細部で様々な不都合があり、どの様に思って帰られたか気になることであった。
 幸いにもアメリカ塩協会が次回開催の参考のために北米からの参加者によるアンケート調査を行い、その結果を知らせてくれたので概略を紹介しておく。
 評価は1から5までの5段階で、1が最高、5が最低である。回答者の81%がシンポジウムで新しい重要な情報を得られたとしており、学術的な総合評価は18B+であった。個別的には18項目の質問があり、パーティーやファミリー・プログラムは好評で、12とか13であった。ナイカイ・ツアーも20で好評であった。
 京都の地、国際会議場施設、ホテルの質・価格などは好得点で16から22であった。移動関係で空港の問題、シャトルバス、ホテルの位置、会場の広さと位置関係などについては25であった。論文の質は25であったが発表技術については35と悪く、特に一部の発表者について、論文の質が悪い、言葉が聞き取れない、スライドの質が悪いことなどの批判があった。
 その他にもいろいろと有益なコメントが数多くあったが、いずれも次回の参考として考えるべきことで、ここでは省略した。何人かの回答者から次のシンポジウムが京都シンポジウムと同じように準備実行されるとすれば、驚きである。日本は110%の仕事をした。と嬉しいコメントがあった事を知らせてくれたSI理事長に感謝している。

おわりに

 ともかく長い期間をかけて準備したシンポジウムも参加者数、論文発表件数ともにこれまでの最高を記録して成功裡に終り、11月末から原稿を書き始めたが、12月になり出版社から編集された論文集の原稿が届き始め、その校正に忙しい時期と重なった。
 出版の仕事が遅れ気味で、3月末の発行、送付を目指して最後の追い込みにはいり、昨年の年末年始には海外の発表者との連絡で出勤したが、今年も出版社との連絡で出勤しなければならなくなりそうである。
 多くの人々に支えられながら、私にとって空前絶後の仕事を無事終えることができたことを深く感謝している。苦しかったことも今では懐かしい、楽しい思い出となり、この仕事を通じて世界の製塩会社を見学し、いろいろな人々と友達になれる機会を与えて項いた上司に感謝している。
(日本たばこ産業株式会社海水総合研究所所長、前・同社塩専売事業本部調査役)