そるえんす、1998, No.37, 2-4

専務理事に就任して思い出すこと

橋本 壽夫

 

 この度、はからずもソルト・サイエンス研究財団の専務理事に就任することになりました。財団設立以来10年が経過し、4月から11年目に入ります。この間の業績を記録としてまとめた『10年のあゆみ』ならびに情報誌、季刊誌の『総目録』を見ますと、設立以来、軌道に乗せるまでのご苦労と順調な成長振りがうかがわれます。このような折りに専務理事に選任されたのも何かの因縁でしょう。
 さらなる次への飛躍、発展を目指して重い責任を果たして行かなければならないと思っております。将来において財団の成果が立派に実るかどうかは、ひとえに読者皆様のご意見、諸先生・先輩方のご支援ご鞭捷にかかっていると考えております。どうかよろしくお願い致します。
 顧みますと、この財団が誕生する以前から、いよいよ業界の期待を担って誕生し、低学年の小学生になるまでの10年間のあいだ、基本的には私は横からずっと見守って来ました。その間に行われました一大イベントである7回国際塩シンポジウム開催につきましては、及ばずながらお手伝いもさせてもらうことができました。専務理事への就任を機に、その辺りを回想して見たいと思います。

財団設立の機運と誕生

 塩の専売制は財政専売として明治38年に始まりました。しかし、大正8年には公益専売として目的を変え、日本専売公社、それを引き継いだ日本たばこ産業は、良質の塩を安く安定して国民に供給する一方で、国内塩産業の育成に努めてきました。塩専売制の歴史は生産合理化の歴史で、第一次から第四次まで4回にわたって行われてきましたが、ついに国内塩産業も外国の塩産業に負けないで自立化できる見通しが得られた、として平成941日をもって92年間にわたる専売制の幕を引きました。
 これまでに合理化(塩業整備とも言います)を達成できたのは、何といっても技術開発力のお陰でした。昭和35年の第三次合理化を迎えるまでは、当時の専売公社職員として、塩の研究・技術開発に携わる研究者、技術者は100人以上もいましたし、研究機関は少なくとも3機関あり、試験製造工場までありました。しかし、その後、次第に減って、昭和46年の第四次合理化の後では、塩の研究者はわずかに15人程度、1研究機関だけとなってしまいました。
 昭和60年に、日本専売公社は日本たばこ産業鰍ニして民営化し、たばこの専売制は廃止されましたが、塩の専売制は日本たばこに引き継がれ相変わらず続けられました。しかし、それが廃止されるのは時間の問題でしたが、困ったことに研究開発力はないに等しい状態でした。このままで塩の専売制がなくなれば、技術開発力のない日本の塩産業は、一時的には存続し得ても、将来的には壊滅することは目に見えております。代替えのない塩を食べる分だけでも自給する(現在の自給率は約14%)ことが戦後、政府の一貫した姿勢でした。
 さて、塩の技術開発力をどのようにして再構築して持つか。それが、専売公社が民営化するまでの塩技術担当調査役(と言う妙な課名)の調査役であった私(20年間いた研究機関を離れ昭和584月に行政機関に転勤)に課せられた暗黙の課題でした。
 塩技術の歴史を調べてみますと、第四次塩業整備後、塩の技術政策と言えるほどのものはなくなっていると思いました。ここで何等かの手を打たなければ、塩産業の自立化を目指しても、海外の塩産業と戦う道具を持たないで勝てるはずがないと考え、塩技術の再建策をE上司に訴えました。
  当時、日本の塩業政策を審議する総裁諮問の塩業審議会が開かれており、公社民営化後に進めなければならない塩業政策の方向付けをする議論の中で、塩の技術政策を行えるように審議会の中間答申の文言中にキーワードを入れてもらいました。
 民営化して塩技術調査室の室長となった私は、E上司の指導の下に日本海水学会の何人かの先生方に集まっていただいて、塩の技術開発についての問題をサロン風に何回か議論を重ねました。その過程で、おぼろげながら方向付けができ、次第に具体的な絵が描けるようになりました。上司が描いた絵は、社内の小田原試験場を塩専売事業本部所属の海水総合研究所として、製塩、海水利用、品質分析、用途開発などの開発実用化を担う役割を持たせ、その種を生み出す機関として広く学会の叡智を集められる研究助成財団を作る、と言うものでした。
 財団作りには塩技術調査室の0調査役とK調査役の2名が専任となり、精力的に準備を進め、わずか1年間という短期間に昭和63330日付けでソルト・サイエンス研究財団を誕生させることができたわけです。

国際塩シンポジウム

 財団設立の準備中に、日本で塩の国際シンポジウムを開催してくれないか、との話が飛び込んできました。これまで北アメリカを中心にして行われ、1回ドイツで行われたことがあります。しかし、第7回シンポジウムの引き受け手がなく、それまで34年ごとに開催されていたのに、その時点ですでに4年は経過していました。
 私はとても出来ることではないと思っていたところ、上司は、財団を設立すれば財団の存在を示すものを何か打ち上げる必要があり、それには国内的にも国際的にも格好の行事になるのではないかと考え、私に開催を引き受ける方向で検討するように命令を下しました。私は困ったことになってしまったと思いながらも、これまで開催されたシンポジウムの準備記録を取り寄せて検討を始めました。
 財団の設立とともに、それまで財団の設立準備をしてきた0調査役が室長になり、私は国際シンポジウム開催準備を進める専任調査役となりました。塩技術調査室の中に準備を進める事務局を置き、組織委貞会、実行委貞会、プログラム委員会を作り、各種委員会の開催準備とプロシーディングスの発行までの事務を、私を含めて5名で引き受け、主催はソルト・サイエンス研究財団とし、日本たばこは共催という立場で、財団が行う国際シンポジウムのバックアップをしました。
 幸いにも天気に恵まれ、平成44月の桜が満開に咲き誇った京都の国立国際会議場で600名以上の参加者を得て、成功裡に終えることができました。海外の参加者からも非常な好評を得てひとまずはホッとしましたが、私には開催後1年間でプロシーディングスを発行すると言う仕事が残されておりましたので、背中の荷物が降ろされて身軽になった、と言う訳には行きませんでした。
 プロシーディングスの発行については、超一流の学術誌発行会社であるオランダのエルゼビアが引き受けてくれました。担当者はイギリスの女性でしたが、非常に有能なエディターで、塩は地学、工学、理学、農学、医学、生物学と非常に多岐にわたる分野と関連しているにもかかわらず、それらに関する知識を持っており、的確な言葉を使って英文を修正するなど、触発されることが大でありました。
 仕事は予定通り進行し、スケジュール通りに発行することができ、やっと解放されました。歳月を数えて見ると、他の仕事をするかたわら1人でぼつぼつと準備を始めてからプロシーディングスを出して完全に解放されるまで6年間が経っていました。

           (財団法人ソルト・サイエンス研究財団専務理事)