たばこ産業 塩専売版 1996.04.25
「塩と健康の科学」シリーズ
(財)ソルト・サイエンス研究財団研究参与
橋本壽夫
減塩運動の見直し論
これまで減塩運動に対する批判について海外の動きをたびたび紹介してきた。動きの遅い日本でも減塩運動に対する批判が出始めた。「減塩運動の見直し」を提唱しているのは、東京大学医学部の藤田敏郎教授である。みそ健康づくり委員会が発行している「みそサイエンス情報」からの転載記事として、昨年の「食の科学」12月号に『減塩運動は見直しが必要 ─ 「味噌汁」はカリウムやマグネシウム摂取に最適 ─』という記事が掲載された。その概要を紹介する。
ヒトにとって適正な食塩摂取量はまだ分かっていない
厚生省が1979年に食塩の目標摂取量を1人1日当たり10グラム以下と定めた。しかし医学生理学的にみて、ヒトにとって1日何グラムの食塩摂取量が適正であるかは、今日なお答えの出ていない問題である。日本人の食塩摂取量の経過をみると、1974年に1日14.4グラムから1987年には11.7グラムまで下がったが、その後は漸増傾向にあり、1992年には12.9グラムに戻っている。
減塩指導が伝統的な食生活を変える危険も
文明社会に住む者にとって、塩は食文化に深く根づき、それぞれの国や民族のおふくろの味″のベースになっている。食塩摂取量を減らすことは、場合によってはその国や民族の伝統的な食生活を基礎から崩すことにつながる。
我が国の減塩運動では、日本人の伝統食である味噌汁や漬物の塩分量に高血圧症の原因があるとされた。現在でも、血圧を気にして医師や栄養士の指導の下に、半分に薄めた味気ない味噌汁を飲んでいる人が少なくない。
食塩の目標摂取量をl日15グラムとするナトリウム必要説が長く支配的であったことからみると、1979年の10グラム以下の設定は、日本人の味噌汁観を揺るがす減塩運動に根拠を与えた大事件であっ
た。
しかし、味噌汁は日本食におけるカリウムやマグネシウムの優れた摂取源であり、その機能を無視して味噌汁を標的にすることは、逆にマグネシウム欠乏などをまねく危険を伴うことも考えておかなければならない。
もう一つは減塩効果についての問題である。現状の1日13グラムを10グラム以下に減らすことが、我が国に2,000万人いるといわれる高血圧症患者数を減らすことにつながれば、医師や栄養士はあるいは免罪符を得られる。しかし、予防効果がないとすれば、クォリティ・オブ・ライフを損なうような減塩指導は改められるべきである。
これらの点から、食塩摂取量を一律的に10グラム以下にする減塩の考え方が今日、再検討の俎上にのせられ、見直す動きが高まっている。
遺伝子診断が可能になれば食塩制限の不要な人が大半を占める
高血圧症の90%以上は本態性高血圧症と呼ばれるもので、これは多くの因子が絡み合って発症すると考えられ、原因がいまだ特定できない。しかし、その病態は食塩感受性と食塩非感受性の二つのグループに分けられる。
食塩感受性高血圧症患者は食塩摂取で血圧が上昇しやすく、減塩や利尿薬投与で速やかに血圧が下がるが、食塩非感受性高血圧症患者は食塩を多く取っても血圧上昇は軽度であり、減塩や利尿薬投与に反応しない。
食塩感受性を規定する遺伝子が分かれば、採血による遺伝子診断で食塩感受性高血圧症と食塩非感受性高血圧症が容易に鑑別され、個々の症例に応じたより的確な治療が可能になる。すなわち、食塩感受性遺伝子を保有していれば、1日5グラム以下といった十分な食塩制限により高血圧の発症をあらかじめ防ぐことができる一万、この遺伝子を保有していなければ、食塩制限はあまり必要でないと判断される。
食塩感受性遺伝子以外にも本態性高血圧症の原因遺伝子が複数あると推測されているので、食塩感受性遺伝子がなくても個々の症例に即して1日15〜8グラム程度の減塩指導は行うべきである。食塩感受性遺伝子を含め、高血圧症の遺伝的素因をまったく持たない人であれば、1日30グラムの食塩を取っても血圧への影響はない。
これまでの臨床経験からの推定で、食塩感受性遺伝子を保有する人はどんなに多く見積もっても日本人全体の二割程度にすぎず、遺伝的素因をまったく持たない食塩制限の不要な人が恐らく半数を占めると考えられる。
食塩感受性の遺伝子診断に関しては早ければ3年、遅くとも2010年頃までには可能になるものと期待される。
記事では、'この後にNa/K比、Ca/Mg比の評価に関することや、カリウム、マグネシウムの調理による損失がない味噌汁の利点が書かれている。
記事に自ら書いているように、藤田教授は、かつて文明人は不必要に塩を取りすぎていると考えたことがあったが、今では必ずしもそうではなく、1日0.1グラム以下の食塩しか取らないヤノマモインディアンも1日13グラムの日本人もホメオスタシス(恒常性)の正常な調節範囲の両端とみることができる、と考えるようになった。
医学の進展に伴って科学的事実を的確に判断し、適正な食生活指導を提唱する学者が増えることを筆者は願っているが、食塩摂取量についての神話が崩れる日がくる のはまだまだ遠いように思われる。
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