そるえんす、2001, No.48, 19-26

     

 7回の国際塩シンポジウムの解散パーティ(1992)で、20世紀中にチューリップ花盛りのオランダで次回のシンポジウムを行うと、引き受け側の代表者が宣言した第8回シンポジウムが200057日から11日まで開催された。それを機に塩の博物館2か所とフランスの地中海側に古くからあるジロー塩田を長谷川氏(財団職員)2人で訪ねることとした。その顛末記である。

ヨーロッパの塩博物館と塩田

 ヨーロッパでは古くから製塩(ブリクタージュと称するかん水を煮詰める土器製塩)や岩塩の採鉱が行われており、3,000年の昔から現在に至るまで採鉱が続いているオーストリアのハルシュタット13世紀頃から続いているポーランド・クラコウのヴュリチカ鉱山がある。これらはいずれも塩博物館となっている。塩と言う言葉に由来するハル、ハレ、サル、サレ、ザルツなどの言葉がついた地名も多く残っており、塩の産地であったことをうかがわせる。

     

 ヨーロッパ各地には塩の博物館が点在しており、行ってみたい所は多数あるが、2か所に決めた。一つはドイツのベルヒテスガーデンにある昔の岩塩鉱跡を博物館にした所である。ここにはある雑誌で色々な色合い(と言っても赤や褐色が基調)の岩塩を組み合わせて作った四角い柱があることを知った。岩塩と言えば真っ白く綺麗ですぐにでも食べられる、と言うイメージを払拭するための写真を撮りたいと考えたからである。もう1か所はスイスのシュバイツアーハレにあるライン川のほとりの博物館である。海外から流れてくる情報で、最近、近代的な博物館に整備されたことを知ったからである。ポーランドのヴュリチカ鉱山(世界遺産になっている)の博物館は、瑞息やアレルギーの治療に岩塩鉱がサナトリウムとして利用されていることもあり訪れたかったが、効率的に移動できないのであきらめた。
 地中海沿岸と大西洋沿岸には多数の天日塩田があり、年産100万トンを超す塩田がフランスとスペインにある。スペインの塩田は10数年前に訪れたので、今回はフランスのジロー塩田を選んだ。近代的で大規模な塩田であり、そこを訪れるのにマルセイユに滞在することも魅力であった。

スケジュールの調整

 5月の下旬には財団の理事会と評議員会があるので、その準備のためにシンポジウムが終わり次第帰ってこなければならないことから、訪問時期はシンポジウム前とした。5月の連休中の出張となり、長谷川氏に申し訳なかったが了解してもらう。行く先を決めたので取り敢えず先方に訪れる時期を決めて早めにアポイントを取ることとし11月に準備を始めた。両博物館とも製塩会社が管理していたので、誰と接触するかはヨーロッパ塩生産者協会の事務局長に紹介してもらった。このような時には前回、京都の塩シンポジウムで顔なじみになっていたことが幸いする。博物館見学のついでと言っては心証を悪くするが、時間が十分あるので製塩工場の見学もお願いしたところ、何の障害もなく3か所ともアポイントが取れた。10数年前に見学のアポイントを取るべくいきなり製塩会社に手紙を出したところ、ことごとくと言ってよいほど体よく断られたことを思い出すと、顔なじみの有り難さが身にしみた。
 429日の連休が始まる日に出発しようと、年が明けて早々に航空券の予約準備のため帰途JTBに寄って様子を聞いた。最初にアムステルダムに飛び、ハーグのシンポジウム会場近くのホテルに入って荷物を預け、身軽に3か所を回るつもりで便を尋ねたところ、JALKLMはエコノミー、ビジネス・クラスとも予約済みで空席なしとのこと。しまった遅かったか、と思いながらも、発着時間もまだ決まっていない時期にどうしてチケットがないのか不思議な気持ちであった。
 翌日、今度はHISに電話をして尋ねたところやはりチケットはない。キャンセル待ちに賭けるしかなく取り敢えず申し込んだ。これでは不安なので前後の空き具合を聞いたところ51日にKLMのビジネスに空席があったので、それを予約してキャンセル待ちに期待をかけた。KLMはアムステルダムがハブ空港であるので、そこからどこか1か所飛んで帰ってくるまでの航空運賃はサービスとのこと。得点をつけてヨーロッパ便で優位性を持って競争していることを知った。1か月前まで待ってみたが結局キャンセルはなく、訪問先への日時も確定しなければならないことから、2日遅れの便で出発することとし、一部あわただしい日程になるのを覚悟で先方のアポイントを取った。アムステルダムからザルツブルクに飛んで1泊し翌日博物館と工場見学を終え、午後遅くチューリッヒに飛び、1泊して翌朝また工場見学と博物館を見て午後遅くマルセイユに飛んだ。マルセイユでは2泊し、一日塩田と市内見学に当てた。しかし、アムステルダムへ帰る良い便がなく、夜も明けないうちにホテルを出て、お昼にはハーグのホテルに再度チェックインすると言う強行軍のスケジュールとなった。

ザルツベルクウエルク・ベルヒテスガーデン博物館

 この博物館の所有者はミュンヘンに本社のあるズードザルソ社である。ベリヒテスガーデンといえばドイツの保養地として有名で、ヒットラーの山荘もあったと記憶している。オーストリアのザルツブルクから26 kmのところで、朝9時に出てタクシーで2030分も乗れば着くはずであったが、1時間近く乗っても着かない。木立の中を通り、いつの間にか国境を越えてドイツに入っており、途中バッド・ライヘンハルの製塩工場を見かけたので、どうやら道を間違えたらしい。最初に地図で行き先を示したのであるが、遠回りをしたようで、運転手は車を降りては人に尋ねてやっとの思いで事務所にたどり着いた。
 応対に出たのはエリザベス・ヒルターマンと言うスラツとした若い女性で、真っ先に遅れたことを謝った。詳しい話を聞いたり資料をもらいたいと思ったがそのゆとりもなく、待ってましたとばかりに鉱山入り口に案内されて案内人に引き渡された。案内人は英語を話せず、お互いに身振り手振りで意志疎通をはかりながらの見学であった。

   

             岩塩鉱博物館入口            ミニ電気機関車に乗って

 岩塩坑を水平に移動するときには小さな電気機関車が引っ張る車付の椅子(遊園地のミニSLのような乗り物)に乗り、垂直移動には滑り台を利用する。中には塩水で満たされた池があり、いかだ船で渡っ
た。
1500年代の始め頃から掘り出した古い岩塩鉱山の跡に、当時の採鉱装置や道具を陳列した博物館の中を自由に写真を撮りながら塩を掘り出す苦労の様子がうかがえた。目指した岩塩で出来た柱の写真も撮れた。これは板状の岩塩で作られており、内部からの照明で岩塩の様々な色模様が給麗に見られるようになっている。

     

             岩塩の柱

 再び地上に舞い戻って、まぶしい日差しを浴びながらキョロキョロ見回すと、小さなお土産店があった。何か資料かお土産をと思って見たところ、資料らしい印刷物は目に付かず、薄茶色の岩塩をくり抜いて塩入れにした容器があった。それを買おうとしたところドイツマルクの現金でないと売らないとのこと。ザルツブルクから来たのでオーストリアシリングを持っていたが、それでは駄目だという。結局、何も買えなくてさようなら。おまけに事務所でスレンダーなエリザベスにお礼をいう間もあらばこそ、次の工場見学の時間が迫っているのでそそくさと待たせておいたタクシーに乗って工場へ。あわただしい見学であった。

バッド・ライへンハル製塩工場

 バッド・ライへンハル製塩工場はアルプスの山間にある年間生産量20万トンの加圧式せんごう工場である。きれいに整備された工場で作られた塩はアルプスの塩としてバッド・ライヘンハラーのアルペン・ザルツという名前で日本にも輸入されている。先ほど訪れたベリヒテスガーデンで溶解採鉱された塩水が19 kmの距離を200 mmの管で毎時60 m3の速度で送られてきて、カルシウム、マグネシウムを除く精製工程を経た後、せんごうされて塩製品になる。
 ここでも時間に遅れたことを詫びると、早速若い小太りの女性ペトラ・エバーハルティンガーが案内してくれた。一通りの工場案内の説明をしている感じで、詳しいことになると良く分からないようであった。包装機器は騒音防止のためにコンベア一部を除いてボックスで覆われていた。包装工程は稼働していなかったので、効果のほどは判らなかった。時間にゆとりがなっかたのでコーヒーを飲みながらの意見交換もできず、ザルツブルクの飛行場へ行く時間に気を取られ、結局、工場や会社に関するいろいろな資料をもらえなくて後悔する始末であった。

       

             説明を受ける長谷川氏

ザルツブルクの街

 ミラベル宮殿の近くにホテルをとり、着いた日の午後の一時をザルツブルク市街の観光に当てた。ミラベル宮殿の美しい庭を散策し、目前の山の頂きに見えるホーエンザルツブルク城を眺めながらマロニエの花咲くザルツァッハ川のほとりをたどり、橋を渡って旧市街に入った。狭い通りの両側にはいろいろな店が並び、ウインドショッピングで目を楽しませてくれる。閉店間際にモーツアルトが生まれた家に入り、住んでいた4階に上がると幼少のころ使った楽器が展示されていた。

    

             ザルツブルグ市街

 狭い地域には多くの教会がある。不規則に張り巡らされている通りを抜けると突然広場があり、変化に富んだ旧市街をうろうろしながら、高さ120 mの山の頂に建つホーエンザルツブルグ城に上がるアプト式電車の駅に着いた。頂上からの眺めはすばらしく、表側ではザルツァッハ川を挟んで手前に旧市街、向こう側に新市街を一望でき、裏側ではのどかな田園風景の向こうにアルプスの山々がそびえて見え、対照的な眺めであった。城の一角に「厩舎と塩倉庫」と書かれた小さな看板が張り付けてあり、仕事柄すぐ目についた。

                 ザルツカマー塩博物館

 ザルツカマ一塩博物館はチューリッヒから車で約1時間のシュバイツァーハレの町を流れるライン川のほとりにあり、フェライニヒテ・シュバイツァーリッシェ・ラインザリーネン社の私設博物館である。そこは1836年スイス北西部で最初にかん水井戸が掘られて以来、製塩が始まり、後に製塩会社社長の邸宅が建ち、その建物が1997年から塩の博物館となった。1階と地下を15のコーナーに分けて各部屋に展示され、地質、製塩法、塩の物性・化学、商品、錬金術、塩容器などが効果的に展示、解説され、各コーナーには持ち帰り用に小振りの解説資料が置かれていた。担当のアーミン・ルース博士が丁寧に説明を加えながら案内してくれた。世界中から集めた塩の小物商品が陳列してあり、日本の商品としては精製塩とさしすせそると、それに某特殊製法塩もあった。かつて専売公社から日本たばこ時代に出張の度に、旅先で買い集めた小物製品を資料集の「世界の塩U」に収録した多くの商品を目にしてなつかしく、その頃が思い出された。

       

                  ザルツカマー塩博物館

 外国語でsalt以外に塩という言葉のいくつかは知っていたが、持ち帰った資料によると、salselzoutSalztuzsalesuolaso’salannsolisoolhalen、αλσ等が書かれており、初めて目にする言葉がある。最後のギリシャ文字は何と読むのであろうか。誰か知っていれば教えてもらいたい。また、18世紀に使われた化学記号でΘが一般的に塩を表しており(写真参照)、調理に使われる塩はΘcと表していたことを知った。
 ともかく塩に関して非常に整った情報を手際よく陳列してあり一見の価値があった。

    
            説明を受ける筆者            世界から集められた塩商品

シュバイツァーハレ製塩工場

製塩工場は博物館の前に道を挟んであり、ここもルース博士が案内してくれた。年産20万トンの加圧式せんごう工場で3.4万トンの散塩倉庫を持っている。工場の下320から360 mの間が岩塩鉱床となっており、近くの3本の井戸から溶解採鉱でかん水を汲み上げて、カルシウム、マグネシウムを除くためにかん水を精製した後に製塩している。工場は非常によく整備されていた。蒸発缶はキャランドリアを持つ標準型で6缶あったが、端から順に少しずつ高さが異なり、蒸発蒸気は1本の管に集められて蒸気圧縮機に導かれていた。スイスには塩の専売制がまだ残っており、ここを含めて2か所の製塩工場で年間3040万トンを生産している。主な用途は工業用が3245%、道路の融氷雪用が2430%、食用が15%、動物用が6%といったところである。専売制であるから総ての種類の塩を供給し、均一価格で販売し、両工場をほぼ同じ生産量で操業し、最低限の備蓄量を持つことが義務づけられている。
 見学後、昼食をご馳走しよう、と言われたが、チューリッヒに引き返し、マルセイユに向けて飛ばなければならないので,あいにく時間がないことを説明してお断りした。幸いハーグの塩シンポジウムには出席するとのことであったので、再会を期して別れた。

ジロー塩田

 ジロー塩田はフランス最大の天日塩田で、パリに本社があるカンパニー・デ・サリン・ド・ミディ・エ・デ・サリンス・ド・レストとうい会社が所有するいくつかの天日塩田の一つである。会社の名前は長ったらしいので、通称CSMEと言われる。1997年にアメリカの製塩会社モートンに買収された。
 この塩田は1856年にルブラン法によるソーダの製造原料塩を供給するために建設された。降雨量が少なく、年間蒸発量は約1,200 mmという好条件に恵まれている。その後、次第に拡張されて、現在では11,000 haの面積を持ち、年間約100万トンを生産している。季節稼動のせいもあるが、メキシコの塩田(蒸発池20,000 ha、結晶池2,000 ha700万トンの生産量)と比較すると性能が悪い。
 マルセイユのホテルを9時に出発し、大体1時間もあれば到着するつもりで出かけた。車は順調に走り、もうまもなく到着する頃になって突然のろのろと走るようになった。どうしたものかといぶかっていたところ、幅300 m程のグラン・ローヌ川があり、橋はなくフェリーで渡らなければならなかった。そこで出航までの時間待ち。またまた予定が狂ってしまう。しかし、この度はもう1泊マルセイユに泊まるので焦りはなかった。

       

                    ジロー塩田の全景

 対岸の少し離れたところに工場が見えたので、その一角にあるものと思い、川を渡ると小さな村を通り抜け早速行ってみた。しかし、そこはソルベーの化学工場で塩田の事務所はなかった。村中を行きつ戻りつしながら、それらしい建物も見つからず、事務所を探すのに手間取った。
 案内してくれたのは塩田責任者のミッシェル・デランコート氏でFlレースの熱烈なフアンであった。この塩田は3月から海水取り入れを始め、10月の秋雨が降り始める前までが製塩時期である。冬場は採り入れた塩の洗浄と出荷、それに塩田の手入れが仕事である。したがって、訪問した5月始めでは、海水の取り入れ中で、一部の塩田に海水が張られた状態で、ほとんどの塩田(結晶池)はまだ地盤が出ていた。昨年取り入れた塩堆を取り崩して洗浄する作業が細々と行われていただけで、見るべき物もなく寂しい風景であった。訪れるとすれば9月の収穫期が最適であろう。

       

                洗浄するための塩堆の取り崩し

 ジロー塩田の製塩作業は3月の海水取り入れから始まる。1時間に1.8m3の能力を持つポンプ3台を使い、海水は一番高い位置にある濃縮他に入れられる。作業は9月まで続き、平均水深35 cmで海水は濃縮されながら飽和濃度になるまで重力によって約50 kmを移動する。770 haある結晶池では水深を15 cmに落とし、平均76 mmの厚さに成長した塩洗浄するための塩推の取り崩し層を8月末から秋雨の降り始める10月初めまで大体33日をかけてハーベスターで収穫する。収穫された塩は約8 mの高さに積み上げられ苦汁を落とすとともに、大きな損失もなく雨でも洗われる。秋から冬の間に塩は洗浄され、製品の塩堆場に積み上げられ、年間を通して鉄道、車、船で出荷される。輸出用に3万トンを出荷できる港もある。
 天日塩田による製塩は天候に左右され、昨年は雨が多く不作であった、とのこと。数年間に一度はこのようなことがあり、ひどいときには生産量が半減することもあったという。

マルセイユ

 マルセイユは地中海に面しており、紀元前から発達した港町で有名である。この度の旅行で、子供の頃読んだアレクサンダー・デュマの小説「巌窟王」に出てくるエドモンド・ダンテスが幽閉された牢獄がマルセイユにあることを知った。それはすぐ沖合にあるフリオール諸島の中のイフ島にある要塞である。16世紀末に要塞として建てられ、1634年には国の牢獄となった。今では小説があたかも事実のようになり、観光ポイントの一つとして観光客に牢獄を見せているそうである。

       

         港の入口にあるファロ庭園から見たマルセイユ港

 マルセイユの旧港は350 m×700 mほどもあろうか、深い瓶の先端に斜めに出口が付いたような四角い瓶の形をしている。両側には無数のヨットが所狭しと何重にも重なって係留されている。港の風景を期待して瓶の底に当たる部分で中央に近いところにホテルを取った。しかし、海側の部屋は取れず、朝食の時にレストランの窓から垣間見えただけであった。この港の西側は前面に防波堤を築いて、何本もの突堤を出し何十倍もの大規模な貿易港として使われている。東側は前にイフ要塞やフリオール諸島が見渡せる広い海水浴場となっている。今すこし時期が早く、泳いだり砂浜に寝そべっている人は1人もおらず、目の保養もできず寂しい様子であった。

       

           ガルド教会からイフ要塞(中央)を望む

 塩田から帰り着くと、その足で小高い丘(162 m)の上に建つノートル・ダム・ド・ラ・ガルド教会に行った。多くの観光客が集まっており、マルセイユの港や市街を一望に見渡せる絶好の場所であった。ぶらぶらとホテルまで歩いて帰り、一休みしてから目抜き通り(カヌピエール通り)を歩いて聖ヴィンセント・デ・ポール教会の辺りまで行った。1本裏通りを帰ってくると、路上や広場で野菜や果物を売る市場があり、通りや脇道には肉、魚、穀物などの食料品店が軒を連ねて、さながらマルセイユの台所といった感じであった。
 フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」はマルセイユに関係がありそうに思って調べたところ、1789年に始まったフランス革命でマルセイユ同盟軍がパリに入城したときに歌われた歌であることを知った。
 短い駆け足の旅であったが、それぞれの地で思い出深い印象を受けて帰った。
                                       (財)ソルト・サイエンス研究財団専務理事)

 注:原本はカラー印刷ではありません