そるえんす、2005, No.64, 2-11


ヨーロッパの塩生産者団体と塩博物館を訪ねて

ソルト・サイエンス研究財団専務理事 橋本壽夫

 

はじめに

 ソルト・サイエンス研究財団は欧米の塩生産者団体と定期的に塩に関する情報交換を行っている。アメリカではSalt Institute(塩協会:北米の塩生産会社を会員とし、その他諸国の主要な塩生産会社も准会員となっている。日本は参加していない)、ヨーロッパではEuropean Salt Producers’ Association(ESPA[ヨーロッパ塩生産者協会]:ヨーロッパ11ヶ国の塩生産会社で構成)の2団体である。このうちヨーロッパの団体は昨年4月からモニエール事務局長が交代してスパイザー事務局長となった。これを機に名称もEuSaltとなり、事務所がパリからブラッセルに移された。
  ESPAでは年間3回ECHOと称する情報誌を発行し、その中で当財団が提供する国内の新聞情報をSSRF提供として掲載してきた。また、ドキュメント・センターから年1回、塩に関する文献情報、特許、法律等のリストが送られて来るので、その中から必要な文献を複写で入手することができた。
 しかし、EuSaltになってから、こちらからは情報を提供しているにもかかわらず、ヨーロッパの情報が入手できなくなった。そこで、従来通りの関係を維持していくために一度訪欧して新事務局長のスパイザー氏と面談する必要があると考え、2004年11月2日(火)にアポイントを取った。これを機に、ドイツのリューネブルグにあるドイツ塩博物館とポーランドのクラクフ近郊にあるビェリチカ塩博物館を訪れ、帰りの11月5日(金)にモニエール氏に会い、1992年に京都で開催された第7回国際塩シンポジウム以来の協力を謝して帰ることとした。出発は10月30日(土)で11月7日(日)に帰国するという強行軍となり、9日間の出張で5日間も休日をつぶす、と同行者に言われた。時期的にあまり寒くならないうちにと思い、こちらの都合や相手の日程と調整していると、結果的にそうなってしまい申し訳ないことをした。ともかく、天候にも恵まれて寒くもなく無事、目的を達成してきた。ここに記して出張報告に替え
たい。


                     EuSalt

 この組織の前身は1957年に設立されたEuropean Committee for the Study of Salt (ECSS[ヨーロッパ塩研究委員会]:フランス、ドイツ、イタリア、オランダで構成)である。その後、1959年にオーストリア、ポルトガル、スペイン、スイス、トルコ、イギリスが参加して拡大された。1973年にはベルギーとデンマークが加入し、後にギリシャも加入した。以上は1998年5月にダウンロードしたECSSのホームページに記載されていた来歴である。その時の参加国別加盟会社と2004年にEuSaltが発足したときの加盟会社を表−1に併記してみると、この6年間で14ヶ国33社から11ヶ国23社に加盟国数、会社数が減っていることが判る。買収・合併・統合・廃業による結果である。最初ポルトガルの会社も加入していたが、1998年には既に脱退していたらしい。この表からイギリスだけは会社名が変更になっていても数だけは同じであり、伝統を守る国柄のように思われる。もちろんEuSaltに加入していない製塩会社も多数ある。例えば、日本にも輸出しているゲランドの塩生産者達である。

表−1 ヨーロッパ塩生産会社の変遷
組織名 国名 会社名 組織名 会社名
ESPA EuSalt
フランス Companie des Salins du Midi et des Salines de l'Est Groupe Salins
Mines des Potasses d'Alsace/SCPA
Solvay Sels France
ドイツ Akzo Nobel Salz GmbH
Kali und Salz GmbH esco
Solvay Salz GmbH
Sudsalz GmbH Sudsalz
Sudwestdeutsche Salzwerke AG Sudwestdeutsche Salzwerke
Wacker-Chemie GmbH Wacker Chemie
イタリア A.T.I. Sale Atisale
S.P.A. ING. LUIGI CONTI-VECCHI
Italkali S.p.A.
オランダ Akzo Nobel Salt bv Akzo Nobel Salt
オーストリア Oesterreichishe Salinen GmbH Salinen Austria
ポルトガル
スペイン Aragonesas, Industrias y Energias, S.A. Proasal Salinera de Andalucia
Salinera Espanola SA Salinera Espanola
SOLVAY & Cie SA Saldosa
Union Salinera de Espana
スイス Societe Vaudoise des Mines et Salines de Bex Saline de Bex
Vereinigte Schweizerische Rhiensalinen AG Schweizer Rheinsalinen
トルコ General Directorate of Tobacco
イギリス British Salt Ltd British Salt
Cleveland Potash Ltd Cleveland Potasi
Irish Salt Mining and Exploration Co Ltd Irish Salt Mining and Exploration
New Cheshire Salt Works Ltd New Cheshire Salt Works
RHM Grocery Ltd Centura Foods
SALT UNION Ltd Salt Union
SUPREME SALT Company Ltd Supreme Salt
ベルギー Solvay SA
デンマーク Dansk Salt A/S
ギリシャ Hellenic Saltworks SA Hellenic Saltworks
ルーマニア Salrom Salrom
ウクライナ Ukrsol
アルメニア Avan Salt

 スパイザー事務局長はドイツ塩工業会から来ており、そちらの業務も兼務している。スタッフとしては女性の事務員が1名いるだけであるので、非常に忙しそうである。事務室と会議室、それに付属した小部屋があるだけのガランとした感じの事務所が2階にあった。住宅街風の通りに面した建物で、その入り口にある小さな立て看板のあるところにタクシーで案内された。それを見てやっとここがEuSaltの事務所であることが判った。
 インターフォンで来意を告げ、スパイザー氏の出迎えを受けて会議室に案内され、事務員にも紹介されて2時間あまりの会談(写真−1)を行った。英語版の財団案内と日本語版の事業概要、資料として「たばこと塩の博物館」の英語版を渡して、財団の沿革と事業内容を説明し、ESPA時代と同様に今後も情報交換をしたい旨を伝えた。財団事業の内容である年間約70件の研究助成の話をしたところ、非常に驚き関心を持ったようである。帰国してからメールが入り、事業概要に書かれている研究助成の内容を知りたいのだが、英訳してくれる所はないか、との問い合わせがあった。それに対して最新の研究助成報告集の要約を編集して送ったところ技術委員会メンバーに転送したようである。



写真−1 EuSalt事務所で

 EuSaltは発足したばかりであるので、まだ体制が整っておらず、取り敢えず連絡委員会、技術委員会、塩と健康問題作業グループの各委員会を作り、作業を進めている。ヨーロッパに出張する前にEU内の動向を伝えるニュースレター1号、2号が9月、10月にメールで送られてきた。これは毎月発行するものと思っていたところ、そうでもなく、3号は12月に送られてきたが、4号は1月には来なかった。スタッフがいないのでスムースな業務運営は当分の間、難しそうである。
 会談の中で寡占化が進み、中国からの低価格による塩の輸出攻勢に危機感を持っている日本の塩事情を伝えると、ドイツでも同様で、アクゾ・ノーベル社がスターデの工場を閉鎖し、ソルヴェー社とカリ・ウント・ザルツ社が合併して巨大なエスコ社ができ、小さな製塩会社が2,3残り、東欧からの安い塩攻勢に直面している、とのことであった。
 EuSalt運営の問題点としては、各国によって塩の品質規格、用途、法律等が異なり、統一した行動が取れず、調整もできないことのようである。アメリカ塩協会(SI)のハンネマン理事長が行っているような政府に対して頭を上げながらの強力なロビー活動はとてもできない。例えば、ヨード(甲状腺腫の予防)、フッ素(虫歯予防)、亜硝酸塩(肉の赤色維持)の添加については国によって異なり、融氷雪用塩は北国では重要であるが、南国では使わないので関係ない。と言った具合で、塩と健康問題のような共通する事項であれば、各国に対してある程度の働きかけはできるが、一般的には頭を下げてまわるだけである。と頭を下げる仕草をしながら政治的・政策的な問題は難しいと苦笑していた。融氷雪用塩の環境問題、固結防止剤であるフェロシアン化物の安全性、コスト競争力、燃料など、問題点は山積みのようである。それに科学情報も不足している。老人の減塩は危険で、脱水症を起こし多くの人々が死んでいる。高血圧症と減塩の問題は悪循環しているように思う、と述べていた。

フランス製塩委員会(CSF)

  前ESPAのモニエール事務局長は今年度中、CSFの事務局長を勤めている。最後の日程でパリの事務所に訪ね(写真−2)、これまで長い間の友好関係を謝し、1時間半ほど歓談した。何と言っても京都で開催された第7回国際塩シンポジウム(そるえんす13号、1992年参照)の印象が強く思い出に残っており、しばし、それを話題に話が弾んだ。何しろ満開の桜の季節で、開会中は好天に恵まれ、彼には宝ヶ池の国際会議場大ホールでヨーロッパ製塩史の特別講演も行ってもらった。そのお礼にミノルタα-7000iを贈呈したが、今でも愛用しているようである。シンポジウム終了後は富士山に登り、午前中はまずまずの天気であったが、昼頃から雪が降り出し、頂上から吹雪の中を雪まみれになって5時頃下山してきた。ロープで体を支持しながらサポートしてくれた人の話によると、途中、何回かすべって転んだとのことであった。命からがらやっとの思いで出発点の5合目にたどり着いたので、忘れがたい思い出なのであろう。



写真−2 CSF事務所で

 話は前後するが、ポーランドのビェリチカ岩塩鉱に行き、手に入れた珍しい青色と緑色の岩塩を見せると、近くに居りながらまだ行ったことがない。写真を撮らせてくれとデジカメで撮影し満足の様子であった。
 ヨーロッパではヨードなどのミネラルがあるため海塩に非常な魅力を持っている。フランスには日本にも輸出しているゲランドの塩がある。これは天日塩であるが、塩田の土壌が混じり灰色になった泥だらけの塩である。モニエール氏によると、かつてはニシンの塩蔵にこの塩が使われていたが、魚の色が変わり魚肉にしまりがなくなる。そこでリューネブルグの白い品質の良い平釜塩が市場に現れ、バルト海、北海沿岸の北欧市場を席巻し、ポルトガルからも白い品質の良い塩が来るようになった。品質の悪いゲランドの塩のために何らかの事件が起これば、塩は塩である、と十把一絡げにされて塩全体が悪者にされ、白い塩まで評判を落とすことになる。ゲランドの塩は歴史を持っているが、品質が悪く不溶解物が多い。CODEXの食用塩規格で純度97%以上を94%以上まで下げるように提案されたが、否決された。ゲランドの製塩業者は純度向上に努力していると言う。ゲランドの塩を排除出来なかったのはミスであった、と反省していた。
 ESPAの時代にはドキュメント・センターを持っており、そこから各種の情報を流していた。しかし、EuSaltではそのような機関はなく、塩と健康問題に対応する専門家の顧問もいない。大企業のアクゾ社やエスコ社は技術部が独自に情報を収集している。しかし、中小企業は情報不足である。EuSaltでは今後、どのように情報収集、伝達機能を構築して行くのかわからないが、モニエール氏自身は退職後に前顧問のドゥリュッケ博士と一緒に塩と健康問題に関する仕事をしていく、と話していた。
 帰国してから思ったことであるが、財団のホームページに英語版を掲載し、SIとEuSaltのホームページにリンク先として財団を掲載させ(現在では財団から先方へはリンクさせてある)アクセスできるようにする。それにより財団の助成研究内容がわかり、その結果が報告されている専門誌(欧文誌)が判るので、財団の存在価値が国際的に認知されるようになる。これは助成研究者への情報普及に対するサービスでもあると思う。 

ドイツ塩博物館

 この博物館は1000年以上も製塩の町として栄えたリューネブルグにある。そこはハンブルグから南東方向へ60 kmほど離れたところで、1371年にハンザ同盟に加入するとバルト海に面したリューベックの港まで水路を掘り、ニシンの塩蔵用に塩をスカンジナビアへ輸出した。リューネブルグでもニシンの塩蔵は行われ、写真−3の建物は1745年に建てられた市のニシン倉庫(火災で焼失し再建)で、その前にあるクレーンは中世に作られた物である。リューネブルグでは1980年代まで平釜で製塩されていた。その製塩工場の一部を博物館(写真−4)としてある。



写真−3 18世紀の塩蔵ニシン倉庫と積出クレーン



写真−4 ドイツ塩博物館

 晩秋でシーズンオフのせいであろうか、訪れる人は少なく、2,3組の見学者に会っただけで、閑散としていた。最初の部屋はいろいろな岩塩の陳列や塩の用途、交易路などのパネルが展示してあった。しかし、残念ながら変わった色をした珍しい岩塩や透明度の高い単結晶の岩塩はなかった。奥に進んでいくと厚さ7,8 mmの鉛板で作られた深さ13 cm位で1 m四方位の平釜(写真−5)があったのには驚いた。防食の関係で鉛を使っていたらしい。化学実験で使われるドラフトの流しを釜にしたような物である。19世紀になると、釜の材質は不明であったが、平釜は大きくなり、フード付きで深さが約50 cmで幅が8 m位で長さが20 m位もあろうか、写真−6に示すようにレーキを一方向に移動させるチェーンが両側に設置されている装置が展示されていた。釜の末端はゆるやかな登り傾斜になっており、レーキでかき寄せられた塩はその傾斜を掻き揚げられながら母液を切られ、ベルトコンベアーの上に落とされて乾燥機に入るようになっていた。



写真−5 鉛製の平釜



写真−6 機械採塩式平釜

 博物館には売店があり、岩塩も販売されていたが魅力のある物ではなかった。塩に関する書籍はいろいろとあったが総てドイツ語で書かれており、英語で書かれたものはなく、博物館自身を説明した資料も置かれていなかった。期待はずれで失望したが、それでも美しく、珍しい塩の結晶写真が掲載されている本があったので、2冊ばかり購入した。
 博物館から近いところにクアハウスがあり、そこは家族連れの入浴客でごった返していた。その一角に公園があり、そこに枝条架(写真−7)があった。製塩には燃料として莫大な木材が必要で、製塩地付近の山林はことごとく無くなり、遠くから燃料を調達しなければならなかった。この枝条架は16世紀に塩水濃縮用に発明され、石炭が発見される18世紀まで300年間にわたって燃料節約に貢献したという。今では塩水濃縮のためではなく、枝条架前のベンチや芝生の上に座ったり寝ころんで、塩を含む水滴を浴びて呼吸器系の疾患を治療するらしい。この枝条架は木の枝を横にしてぎっしりと積み上げられたもので、風通しも良くなさそうである。大正12年に洋式枝条架として写真−8に示す装置が作られた。しかし、これでは風通しが悪く濃縮も進まないので、竹の枝を使った日本独特の枝条架(写真−9)が昭和28年から流下式塩田に本格的に付設されるようになった。昼夜を問わず運転されるので濃縮効率は飛躍的に向上した。



写真−7 西洋式枝条架



写真−8 大正時代の西洋式枝条架(海水資源の利用より)



写真−9 流下式塩田の枝条架(白く見えるのは付着石膏のため、製塩技術の歩みより)

ビェリチカ塩博物館

 ポーランドのクラクフ市近郊にあるビェリチカ岩塩鉱山(写真−10)は5000年も前から採掘されており、11〜13世紀に盛んに開発された。坑道の長さは約250 kmもあり、掘り出して出来た部屋は2040ヶ所もあると言う。1978年にユネスコの世界遺産に登録され、地下101メートルにある聖キンガ礼拝堂(写真−11)は岩塩で出来ている礼拝堂として有名である。周囲の岩塩層の壁には鉱山師によって数多くの彫刻が彫られ、「最後の晩餐」やローマ法王の像もある。天井には透明な塩の結晶で輝きを持たせたシャンデリアがある。他にコンサートホールや結婚式場になるホールもあると言う。観光ルートは全体の3%に過ぎなく、その経路は写真−12のようになっている。通常、ガイドが見学者グループを引き連れて歩く。予約すれば個別に数ヵ国の言葉を選択してガイドを頼むことも出来る。2時間コースと3時間コースがあり、日本語のガイドを予約出来なかったので、英語による3時間コースで回った。



写真−10 ビェリチカ岩塩鉱入り口:要人歓迎のため旗を掲げ音楽隊待機中



写真−11 聖キンガ礼拝堂(ビェリチカ地底岩塩採掘坑より)



写真−12 ビェリチカ岩塩鉱案内図(ビェリチカ地底岩塩採掘坑より)

 最初に木製の階段を折り返しながら垂直に下りていく。下りると岩塩の階段となるが、ガイドは時々懐中電灯を岩塩に押しつけ岩塩の中を光が通って行くことを見せて、岩塩の透明度、品質の良さを説明する。まもなく地下101 mの所にある聖キンガ礼拝堂に着く。誠に広い部屋で正面には聖キンガ像が祭られており、周囲には様々な像が岩塩に彫られている。フラッシュをセットして写真を撮っても広いので光量不足となり巧く撮れない。写真を撮っていて巡回者に見つかると撮影料を支払わなければならない、と言う。しかし、幸いにも最後まで出会うことなく撮影することができたが、出来映えは良くなかった。
 採掘した岩塩を運び上げるために人や馬で動かすウインチ(写真−13)や杵で砕く岩塩粉砕器(写真−14)、樽詰めにした塩、塩の円柱を運ぶ道具、その他も展示されていた。ウインチは大きな物で、馬4頭で回していたようである。また今で言うエレベーターみたいな物で、1本の綱に何人もベルトに腰掛けるような感じでぶら下がり(写真−15)上り下りしていたらしい。綱が揺れて落ちたりすることがあり大変危険であったようである。



写真−13 岩塩揚上用ウィンチ



写真−14 岩塩粉砕器:右側のホイールを回して左側の木槌で砕く



写真−15 かつての鉱山内昇降用エレベーター

 地下には休憩場があり、食事や飲み物を販売しており(写真−16)、岩塩、書籍、ビデオ等のお土産も販売していた。ここで大きめの桃色岩塩と英語版のビデオを購入し、ビールを買って一休みしていると、要人がまもなく来るので先を急いでくれとガイドに言われ、一気にビールを飲み干した。そう言えば、建物入り口で旗を揚げ歓迎のために音楽隊が待機していた(写真−10)。



写真−16 岩塩鉱内の売店

 一般の観光コースから外れて博物館の部屋があった。そこにはいろいろな色の岩塩(写真−17)、岩塩の石筍、単結晶の岩塩、坑内を歩く時の照明器具、採鉱用具、製塩土器などが展示されていた。岩塩の単結晶といえば、地下80 mに最大で一辺が50 cmの透明な単結晶(写真−18)が析出している部屋が観光コースから3 km離れた所にあるらしい。ここで採鉱された重さ1トンの単結晶がウィーンにあるという。見たいものである。



写真−17 塩博物館内の展示着色岩塩



写真−18 巨大な塩の単結晶(ビェリチカ地底岩塩採掘坑より)

 この岩塩鉱には地下211 mにアレルギーや呼吸器系疾患の治療室(写真−19)がある。中央に塩水が吹き出るところがあり、その周りにあるベッドに患者が寝ている。ここを見学すべく出発前にメールで交渉したが断られた。ドイツのリューネブルグにあった枝条架による治療をここでは集中的に行う施設で、1週間程の入院を反復して治すらしい。



写真−19 アレルギー、呼吸器系疾患治療室(ビェリチカ地底岩塩採掘坑より)

 一番下まで降りると、帰りはエレベーターで一気に地上まで上ってくる。外には何軒か土産物店があり、陳列してある岩塩を見て回っていると、最後の店に青色と緑色の岩塩があった。これは珍しいので早速それを購入したところ、中からクリスタル・ガラスのような小さめの透明な結晶を出してきて、これは要らないかといった素振りを示したが、ある程度透明度の高い岩塩を持っているので買わなかった。今にして思えば買っておけば良かったと後悔している。ここで購入した岩塩を写真−20に示す。最初に購入した桃色岩塩には中央に穴が開いている。何のための穴か判らないが、シャンデリアのランプが入るので、写真−21のように岩塩灯とした。なかなか趣のある雰囲気になる。台になっているのは1992年に京都の国際塩シンポジウムのガラパーティで鏡割りをして樽酒を振る舞った1合升で、財団のマークとSALT’92 KYOTO, JAPANと書かれている思い出の品である。



写真−20 購入した着色岩塩



写真−21 お土産の岩塩をソルト・ランプに改造

その他の思い出

 この度の出張でいくつか思い出に残った出来事を記す。ハンブルグではアルスター湖のほとりにヒマラヤ・ソルトと看板に書いて(写真−22)ソルト・ランプを販売している店があった。ドイツの岩塩は概ね品質が良く、赤色や桃色をした岩塩がないので売れるのであろう。



写真−22 ハンブルグ街中のヒマラヤ・ソルト・ランプ販売店

 クラクフ市は人口75万人の大都市である。ここは「シンドラーのリスト」と言う映画の舞台となった町である。ユダヤ人がシンドラーの工場に雇われることにより、近くにあるアウシュビッツの収容所に送られないで助かった物語である。丘の上からユダヤ人を鉄砲でねらい打ちする残酷なシーンがあったのを思い出し、お城が建っているウエイウエルの丘(写真−23)がその場所であったのかな、と思いながら町を散策した。ここで泊まったホテルでドイツのシュレーダー首相がポーランドの首相と会談する場面に鉢合わせ、翌日の朝食場所は狭い部屋に替えられた。外では大勢の警官が物々しく警戒していたが、翌朝、早くにすぐ近くにある200 m×200 mでヨーロッパ一広いと言われているマーケット広場へ出かけた。バリケードを築く鉄格子を積んだトラックが何台かあったが、気にも留めず近くの教会やタウン・ホールの写真を取るために朝日が当たるのを広場で待っていた。フッと気付くとホテルへ帰る道がバリケードで囲まれているではないか。これはマズイっと思い、急ぎ築かれたバリケードの端から道に出てホテルへ帰った。先に触れたように彼等の一行が後にビェリチカ岩塩鉱に来たらしい。




写真−23 クラクフ市のウエイウエル丘に建つお城

パリのホテル代は非常に高かった。エッフェル塔とアンバリッドの中程にある安宿といった風のホテルに泊まった。朝食の時、食卓塩のビンを取りゆで卵に塩を振り掛けるのだが、塩が出てこない。塩はビンの中に沢山あり、振り出し孔も目詰まりしていない。不思議に思いながら蓋を開けて塩を出してみると、中身は粉砕塩で粒径が大きくて孔から出てこなかったのである。仕事柄、食卓塩があると、食事が出てくるまでにあらかじめ手のひらに振り出して、せんごう塩か粉砕塩か、粒径が大きいか小さいか、揃っているかどうかを見て、舐めてみるのであるが、バイキング方式の朝食であったので、その時はそうしなかった。出もしない塩を食卓塩のビンに詰めて出している無神経さにあきれた。
 夕方のフライトで日本に帰るので、昼過ぎまでは近くの公園と博物館を巡ることにした。朝食後リュクサンブール公園まで出かけ、散策後に判りにくいドラクロア美術館を探して開館を待って入った。ドラクロアの絵をイメージしながら入ったものの、イメージとは異なった展示で早々に出て、ロダン美術館に向かった。ロダン美術館は広い敷地に屋外展示と屋内展示があり、入り口で説明用のハンディ・トーキーを借りて主要な作品の説明をじっくり聞くことが出来た。入るとすぐ左に地獄の門がある。この中にあるいくつかの像が拡大されて有名な大きな像となっていることを知った。考える人(写真−24)もそうである。



写真−24 ロダン博物館の考える人:遠景にアンバリッドの屋根

ドゴール空港には早めに着きセキュリティ・チェックを受けて出国しようとした。荷物は機内持ち込みとしていたので、キャリアーケースのX線検査を受けたところ、荷物を開けるように言われた。何だろうかといぶかしく思いながら開けたところ、すぐさま一番下の片隅に置いていた岩塩の入っている袋をつまみ出し、中から桃色の岩塩を取り出してこれは何だと聞かれた。X線で怪しい黒い塊に映ったのであろう。それはロック・ソルトだと答えたが、相手は理解できない様子だったので、セルと答えた。塩はセルで良いのだが岩と言うフランス語を知らないので、ともかくセルだと言ったら不審そうに思いながらもOKで通してくれた。ちなみに岩塩はフランス語でセル・ジェムと言えば良い。
 何とか出張の目的を果たし、貴重な塩資料を手に入れることができ、有益な旅であった。