たばこ産業 塩専売版  1993.04.25

「塩と健康の科学」シリーズ

日本たばこ産業株式会社海水総合研究所所長

橋本壽夫

食塩欲求と食塩晴好

 人間はなぜ塩を好むか?これは、興味のある問題である。アメリカのモネル・ケミカル・センシズ・センターの所長ビーチヤム博士は、塩の味覚受容に関する研究の第一人者である。昨年、京都で開催された第七回国際塩シンポジウムでも、哺乳動物の塩味知覚と嗜好と題して研究論文を発表した。この研究機関は、味と匂いの知覚機構と機能に関する基礎的な研究をしている、非常にユニークな機関である。食塩欲求や食塩嗜好については、動物やヒトで若干の実験が行われ、概念的にはある程度整理されているが、どうしてそのような行動を起こすのかについてはあまりよく分かっていない。ビーチャム博士の論文から、どのあたりまで研究が進んでいるのかみてみたい。

必死に塩を求める

 ラットが食塩欠乏に陥ると、必死に目新しいものを食べようとするようになり、食塩に行き当たると、不足分を補う以上に多くの食塩を食べる。塩味に対するこの応答は、食塩欲求(ソルト・アピタイト)といわれ、生理学的に必要な食塩が不足した時、塩辛い味を求めるようになる。
 アメリカやヨーロッパでは、昔から草食動物は食塩を求めて長い道程を移動し、塩なめ場に通う小道を作った。そこを人間が通るようになり、現在多くの道路はかつて動物が塩を求めて通った小道の跡であるといわれている。
 トナカイは、食塩が多く含まれている人間の尿をなめに人里近くまで来る。人がトナカイを飼い慣らすきっかけは、食塩を与えることである。
 このように、草食動物は食塩欲求によって必死に塩を求める。
 人間の食塩欲求に関する研究は非常に少ない。副腎皮質不全の子供が食塩枯渇状態に陥り、食塩を貪るように食べ、自由に食べられる間は生き生きとしていたが、病院食を食べさせられるようになって食塩が制限されたとき死んでしまった事例が報告されている。
 だ液中の塩分濃度と塩辛さの認識との間には関係があり、だ液中の塩分濃度が低くなると、人の感覚は鋭区なり、識別できる塩分濃度が低くなる。しかし、なぜこのように人間の感覚に変化が起こるのか、についてはまだよく分かっていない。食塩枯渇によって起こるらしいと推測されているが、長い歴史の中で人類が生存し続けられるように、わずかな塩分でも選択的に取れるような対応策が体内に備わってきたのであろう。

生理的な必要量以上の塩を求める

 食塩が生理的に不足していない時でも、人間は塩辛い味のするものを好んで食べる。これを食塩嗜好(ソルト・プリファレンス)といっている。この原因もよく分かっていない。
 これについて確認されていることは、食塩嗜好が決められる要因は経験、習慣、最初の刷り込み(生後に初めて感覚として記憶に残ること)であるといった程度である。
 ここでは、食塩時好に関して三つの観点から進められてきた研究結果をそれぞれ簡単に述べる。

食塩嗜好は遺伝しない?

 最初の観点は、食塩嗜好がどの程度遺伝するかという研究である。
 85組の一卵性双生児と71組の二卵性双生児を使った研究では、食塩噂好が遺伝するという証拠はなかった。もう一つ、19租の一卵性双生児と24組の二卵性双生児を使った研究でも同様の結果であった。
 しかし、両方の双生児が偶然に予測されるよりもよく似ていることがあることを示しており、被験者の数や方法的にも不十分であることから、食塩嗜好は遺伝しないという結論は、決定的とはいえないとしている。

食塩嗜好は経験によって変わる

 二番目の観点は、食塩噂好が経験によってどのように影響されるかという研究である。
 自給生活をしている青年グループを5ヶ月間、低塩食にした者と通常食にした者とを比較した研究で、食物中の好まれる塩分濃度は変化することが示された。嗜好の変化はゆっくりと24ヶ月かかって変わる。
 逆に、毎日食事に10グラムの食塩を加えられた被験者と、同じ10グラムを塩味がしないように錠剤で与えられた被験者とを比較した研究では、食事に直接食塩を加えられたグループは高い食塩漉度を好むようになり、錠剤のグループは変わらなかった。
 このことから、食事中の食塩濃度変化に伴う味覚の変化は、塩辛さを感覚的に経験することによって変わるものであり、実際に食べた食塩量とは直接関係していない、といえる。

生まれつき食塩嗜好はあるか?

 三番目の観点は、人間は生まれつき食塩噂好を持っているかという研究である。
 新生児にとって、甘い水は真水よりも好まれる。塩味のする水はどちらでもないとする研究と、嫌われるという研究がある。
 生後2ヶ月の幼児と60ヶ月までの子供を対象に、真水と食べ物の中の食塩濃度についてビーチヤム博士は細かく年齢を区分して塩味を受け入れていく過程を研究した。
 34ヶ月の幼児は、食塩水と真水とを区別せず、同程度飲んだ。67ヶ月になると、真水よりも食塩水の方をよけいに飲んだ。この傾向は23ヶ月頃まで続いたが、3160ヶ月の間に、食塩水を嫌うようになった。
 しかし、スープによる試験では、塩味のないスープよりも、塩味のあるスープを好み、しかも大人が好むよりも塩味の濃いものを好んだ。
 この結果から、塩味の受け入れについては、人間の初期の成長段階では無関心で、約4ヶ月をすぎる頃から少し好みを示すように変化する。この段階で塩味の好みを学習しながら獲得(刷り込み)していく。およそ3歳になるまで、食べ物ではみられないが、食塩水では受け入れから拒絶に変わっていく。これは、食事経験によるものである。
  13歳の食事経験は、食べ物や味の嗜好形成に決定的な役割を及ぼすのであろう。この期間中に授乳が行われ、幅広い食べ物の味に最初に出合い始める。この時期は、自分で動けるようになり、母親から離れていろいろな味を自分で味わい始める時でもある。
 塩辛い物は基本的に受け入れられ、多くの食べ物の好みを形成する重要な基となり、最も食べやすい食塩濃度が確立してくると考えられる。
 塩による経験がいつ、どのようにして食塩嗜好を示すようになるかについては、これからの研究課題である。