たばこ産業 塩専売版  1996.11.25

「塩と健康の科学」シリーズ

(財)ソルト・サイエンス研究財団研究参与

橋本壽夫

食塩嗜好の変化・その1

乳幼児から成人にかけて

 食塩の取りすぎが問題になっているが、なぜ取りすぎるのか?ということについては食塩嗜好に影響される、と考えられている。つまり食塩を好んで食べる、塩味を美味しく感じるために食べすぎてしまう、というわけである。それでは、この食塩嗜好はどのようにして決められるのか、どのようなことに影響されるのか、といったことが問題となる。食塩嗜好は乳幼児の頃の経験が決め手になるとか、老人になると食塩嗜好が高くなるとかいわれている。本当にそうなのかどうか、食塩嗜好についての研究の現状を紹介する。

乳児の食塩嗜好

 胎児は子宮の中で羊水を飲みながら育つ。羊水の塩分濃度は約0.7(血液中の濃度に近く、美味しいと感じられるすまし汁の濃度に近い)であるので、その程度の塩分濃度に村する味覚が発達し、そのくらいの塩味を好むと考えられる。ラットでは羊水を飲んで育った経験が、生まれてから最初に乳首を探り当てる合図となっている。
 ところが、新生児のラットは生後約5日経つまでは食塩溶液を嫌う。食塩溶液を避ける行為は、10日目には何も入っていない水よりも食塩溶液を好むように変わり、さらに年とったラットが避ける4%という高い食塩濃度にも耐えられることが判った。
 生まれて最初の頃、食塩溶液を嫌う行為が、やがて成長して嗜好の行為に置き替わることは、人間の幼児の場合でも同じである。人間の新生児は塩味に対して無感覚(少量の高濃度の食塩溶液で顔の表情が変わらない)か、これを嫌う反応を示す。つまり、人間は誕生時には食塩嗜好の事実はなく、したがって食塩嗜好は成長するにつれて獲得された味覚である、といわれている。塩味のない食べ物に満足している幼児や子供たちが、最初に塩味をつけた食べ物を経験することによって、未経験の幼児の味覚に塩辛い刺激として刷り込まれ、塩辛い食べ物を求めるようになる、という考え方である(例えば、アヒルが卵から孵化して、最初に見る動く鳥を自分の親として認識し、その鳥の後をついてまわる行為を刷り込み現象という)
 しかし、乳幼児は生まれてから1625週間も経つと、塩味を好むようになるが、それまでには胎児期に塩辛い羊水を飲んだ経験だけしかなく、この経験だけで食塩嗜好が現れるとは考えにくいので、食塩嗜好の発達は塩味の経験とは無関係ではないかと考えられている。
 しかし、どうして嫌いな塩味を好むようになり、食塩嗜好が固定されるようになるのかについてはまだ解明されていない。

幼児の食塩嗜好

 生まれて5ヶ月も経つと幼児は嫌っていた塩味を好むようになるが、子供たちが好むスープの食塩濃度は、彼らの両親が好むスープの食塩濃度よりも高い、ということが判った。もっとも好ましい食塩濃度として多くの子供たちが選んだ食塩濃度は、両親が用意したスープの食塩濃度よりも高かったので、子供達の食塩嗜好はスープによる経験で獲得されたものではないように思われる。
 この高い食塩濃度を好む食塩嗜好は、年齢とともに減少する。しかし、幼児や子供たちについての数多くの研究にもかかわらず、研究者たちは、幼児期または子供の時期のいつ頃食塩嗜好が最高になるのか、子供の時期または青年のいつ頃から食塩嗜好が低下し始めるのか、長期的な変化は明らかにされていない。

子供の頃の経験は大人の食塩嗜好を決定するか?

 ラットによる研究で、離乳期頃に食塩溶液を長く飲ませた場合と飲ませなかった場合について、成長後に食塩溶液や塩味をつけた食品に対する食塩噂好を比較した。
 結果は、大人のラットの食塩噂好は最初に食べた塩味によって変わる、という事実はなかった。
 人間の場合では、短期間、単一の限られた食品に塩味をつけた物とつけない物を食べさせて、子供の食塩嗜好を比較した試験がある。それによると、子供たちの食塩嗜好は経験によって強く影響され、反復摂取で食塩嗜好が高まることが判った。しかし、強化された食塩嗜好は、子供たちが味わった物だけに限られ、他の新しい食品に塩味をつけた物の嗜好には当てはまらず、一般化できなかった。したがって、塩辛い味覚の経験は一般的に食塩嗜好を強化させることにはならない、としている。
 以上のように、食塩嗜好は新生児の頃にはなく、幼児期に現れ、成長の盛んな子供の頃には強く、やがて減少して弱くなる、といった具合に変化していくようであるが、詳細なことは判っていない。
 食塩嗜好は経験に基づくものではない、とか子供の頃の食塩嗜好が大人になっても引き継がれるわけではないらしい、といった断片的な情報が得られているだけである。