たばこ塩産業 塩事業版  2006.3.25

塩・話・解・題 12

東海大学海洋学部非常勤講師

橋本壽夫

塩の歴史、エピソードあれこれ

『「塩」の世界史−歴史を動かした、小さな粒−』より

 

 昨年末に扶桑社から『「塩」の世界史』が出版された。「SALT A WORLD HISTORY」の翻訳本(山本光伸訳)で、歴史と食物を中心に作家活動をしているマーク・カーランスキーの著書である。翻訳本では「歴史を動かした、小さな粒」という副題が添えられている。これまでにも出版物からの紹介として塩の歴史、エピソードについて本紙に書いてきた(平成15120平成17725)。この度も本書からいくつかの内容を紹介する。

          書籍「塩」の世界史の表紙

象形文字・地名・語源

塩の国家専売を形容

製塩に関する中国最古の文献は800年頃のもので、当時よりも千年も前の夏王朝期の海水からの製塩と塩の交易について記している。中国は何世紀ものあいだ塩を国家の財源としてきた。紀元前12世紀の塩税を論じた文献がある。
  図1は紀元前200年頃まで使われていた塩を表す漢字で、北京の塩の歴史学者が書いたものである。これは三つの部分からなる象形文字である。下部は道具を、左上は帝国の高官を、右上は塩水を表す。塩を表す漢字そのものが塩の国家専売を形容していた。
  塩にちなんで町や地方の名前が付けられている所は数多い。ハル、ザルツは塩の意味でありハルシュタット、シュバービッシュ・ハル、ハレ、ザルツブルグの町やザルツカマングート(塩の母鉱脈という意味)の地名がそうであり、ハラインは製塩所という意味である。サクソン人は製塩所を「ウィッチ」と呼び、「ウィッチ」のつくイギリスの町ノースウィッチ(北の製塩所)とナントウィッチ(南の製塩所)の間の土地はミドルウィッチと呼ばれ塩を生産していた。
  ローマ軍は兵、馬、家畜のための塩を要求した。そこで兵士に給料の代わりに支払われた塩(サラリウム・アルゼンタム)がサラリーの語源になっていることはよく知られているが、ラテン語の「サル」は変化してフランス語で支払いを意味する「ソルド」となり、「兵士(ソルジャー)」という単語が生まれた。
  ローマ人はにがみを消すために緑野菜に塩をふり、これが「塩をふる」を意味する「サラダ」の語源となった。

          塩をあらわす荘子風の書体

ヨーロッパ

塩ダラ〜塩田の発達

 西ヨーロッパ大西洋岸の山岳地帯にはケルト人やローマ人に侵略されることのなかったバスク人が住んでいた。彼等は少なくとも7世紀には捕鯨を行っており、鯨油や骨、歯などを商品としていた。中世カトリック教会は宗教日に肉食を禁止し、最終的には年の半分が肉抜きの日となった。しかし、水棲の動物である鯨の塩漬け脂身は食べることを許可されていた。
 9世紀には鯨産業で栄えるバスクにヴァイキングが侵入してきた。バスク人はヴァイキングから造船技術を学び、北の海まで出掛け、鯨よりも利益をもたらすタラを発見した。白身のタラは油が少なく塩が浸透しやすく保存に適していた。塩ダラ料理はヨーロッパじゅうに広まり、新鮮なタラが手に入らない南ヨーロッパで熱烈に歓迎された。しかし、莫大な富をもたらす塩ダラ市場への参加しようにも塩がなかった。
  ヴァイキングの活動拠点の一つが図2に示すロワール川河口にあるノワールムーティエ島であった。この島の3分の1は天然の塩の干潟であり、ヴァイキングが人工池を作って塩を作る技術を伝えたらしい。彼等がこの地域で作られた塩をバルト海沿岸諸国に運び、中世末期およびルネッサンス期において最も重要な塩の交易ルートの一つを打ち立てた。
  ブールヌフ湾沿岸は製塩の中心地となった。ゲランドからレ島までの海岸地帯は有数の製塩地帯となり、ここで作られた塩は「湾の塩(ベイソルト)」と呼ばれる天日乾燥した海塩であった。この塩は灰色とも黒とも言われ、時には緑と形容されることもあり、品質は悪かった。他にもっと良質の塩があった。泥炭を煮詰めて作る北方の塩や、ポルトガルのセトゥバルに代表される南方の塩で、これらの塩ははるかに白く純度が高かった。
  ポルトガル人にとっては、塩ダラ貿易が漁業と製塩業の発展をうながした。裕福な家庭は食料保存に湾の塩を使い、食卓にはもっと高価な白い塩を載せた。中流家庭は安価な湾の塩を買い、溶かして塩水にしたものを煮詰めて純度が高い塩を作って食卓に出していた。
  塩ダラの利益があがったのは、人工池(塩田)を作る技術が進歩して海塩の生産量が増大したためである。結果として塩漬けの魚の生産量の増大にもつながった。つり輪につるした塩ダラと樽の塩漬けニシンは、ヨーロッパ各地で人々を飢餓から救った。
  北方の漁業における塩不足はニシンと塩の貿易を組織していた商人組織が解決した。その組織がハンザ同盟となり、1400年頃には北方ヨーロッパのニシンと塩の製造を独占するまでになった。

       フランスの天日製塩地

アメリカ

 戦略物資としての塩

新生国家が刻んだ苦い記憶 独立戦争

 イギリスの植民地であるヴァージニアの人々は家畜を飼育しながらもイギリス産の塩漬け牛肉を大量に輸入した。地元でもある程度塩を作り、もっと多くの塩をイギリスから買い付けて、豚肉の脂肪を塩漬けする家内産業を立ち上げた。独立戦争の頃にはヴァージニア・ハムは特産品としてニューヨークやジャマイカといった植民地だけでなく、イギリスにまで売られていた。
 アメリカの植民地人は持ち前の自立心から塩の自給を目指し、かなりの量を生産したが、イギリスは植民地統治政策としてリヴァプールの塩を値下げしてアメリカ産より買い易くしたことにより、結果的にアメリカ産塩の生産量は低下した。
 植民地人たちは国内で必要な塩を確保していたが、輸出品を作るには不十分だった。イギリス産の塩で製品を作るかぎり、イギリスはアメリカの過剰な生産に干渉しなかった。しかし、アメリカで商業の発展が国家としての独立に結びつくことを恐れたイギリスは1759年、懲罰的な関税、税金ほか様々な手段によりアメリカの貿易を妨害し始めた。
  1775年夏、イギリスは反乱軍鎮圧の名目で宣戦布告、海上封鎖を断行した。独立戦争の始まりである。その上、大西洋の中央に位置する植民地の製塩所を破壊し、ニューイングランド(アメリカ東北部)と南部の二大製塩地を隔離した。アメリカはたちまち深刻な塩不足となり、漁業だけでなく陸軍の兵隊、馬、医療面すべてが打撃をこうむった。
 アメリカ植民地軍は海上封鎖に対抗して、海水を煮詰める方法をとった。しかし、大量の木材を投じて煮詰めても、得られる塩は微々たる量であった。植民地のすべての塩輸入業者、製塩業者に補助金を出すことになり、アメリカ海岸じゅうで製塩所が稼働し始めた。天日乾燥技術も取り入れたが、必要な量の塩を生産できなかった。
 1783年にパリ条約が結ばれアメリカは独立国家となった。新生国家は、塩を他国に頼らなければならないことが何を意味するか、という苦い記憶とともに誕生した。1793年、まだ塩が欠乏する戦後経済の中で、製塩用水槽の屋根をオーク材の巻き上げ機で開閉する装置を発明した。このお陰で海塩は能率的に作られるようになった。

食肉保存用の塩なくしては 南北戦争

 1858年の時点で南部の主要な塩産出州はヴァージニア、ケンタッキー、フロリダ、テキサスであり、83m3(体積)の生産量であった。一方、北部のニューヨーク、オハイオ、ペンシルヴァニアの塩産出量は4,230m3で、圧倒的に北部の生産量が多かった。南部にはイギリスやイギリス領カリブからの塩が輸入されていたが、その量は北部の1/4程度であった。
 塩は南軍の糧食リストにつねに載っており、1ヶ月の支給量は680 gであった。北軍の方は塩、塩漬けの豚肉・牛肉、ベーコンを支給したが、両軍ともリスト通りに支給されたわけではなかった。
 1861412日に南北戦争が勃発し、4日後にリンカーン大統領は南部の港すべての封鎖を命じ、海外から塩をはじめ食料が供給されないように兵糧責めの策をとり、1865年の終戦まで解かれなかった。海上封鎖は南部の塩不足を招き、多くの食料が高騰した。南軍の塩不足が戦略上有利に働くことを北軍はすぐに理解した。シャーマン将軍は、南軍に塩を与えてはならないと説き、「塩は重要な戦時禁制品である。食肉保存用の塩なくして軍は存続できない。」と述べた。
  北軍は製塩所を奪取するとかならず破壊した。これに対し南軍は製塩所を制圧すると、戦利品として喜び製塩を開始した。戦争の進行に連れて北軍はヴァージニアからテキサスまで、製塩所を手当たり次第に攻撃していった。北部諸州の海軍は南軍側の沿岸にある製塩所をことごとく砲撃して、軍に塩が供給されないようにした。
 北軍の勝利に終わった南北戦争については、戦略物資である塩に対する考え方の違いで勝敗が決まったようである。
 『「塩」の世界史』からいくつかの話題を取り上げて紹介したが、他にも多くの面白い話題があり、一読をお薦めする。