戻る

たばこ塩産業 塩事業版  2005.07.25

塩・話・解・題 4

東海大学海洋学部非常勤講師

橋本壽夫
 

塩にまつわるエピソードさまざま  「塩の博物誌より」

 

 塩を話題にしたエピソードは数多くあり、「サラリー」の語源や「敵に塩を送る」といったことがすぐ思い浮かぶ。最近、『塩の博物誌』という翻訳本が出版された。著者はベルギーのリエージュ大学名誉教授ピエール・ラズロという化学者である。原著はフランス語で書かれているが、英語でも翻訳されており、この度、日本語版が出版された。
 この中からいくつかのエピソードを紹介しよう。

食事を共にして培われた厚い友情

 見知らぬ者同士が相手を良く知り合うには、酒を酌み交わすのが一番であろう。そこまで行かなくても共に食事をしながら歓談するのも良い手段である。食事で空腹が満たされれば、心にゆとりができ、穏やかに話し合え、友情も芽生えようというものだ。ポーランドには「誰かと樽一杯の塩を食べた」という諺があるそうで、「昔から何度も食事を共にして培われた厚い友情」を表す表現であるという。

○○と樽一杯の塩を食べた ポーランドの諺

  昔、塩は高価であった。しかし、食事には欠かせないので、長い年月の間には大量に摂取することになり、「大量の塩を一緒に食べた」ということは友情が長い年月続いていることを意味する。

個人的な思い出から

 『パンと塩を分かち合う』という表現は今も昔も客人を歓待する、もしくは見知らぬ人をもてなすことを意味する。
  私事になるが20年ほど前に、オランダのハーグで食用塩の国際規格を審議する国際会議に出席した折のこと。ドイツのブレーメンまで足を延ばして北ドイツ製塩会社の工場を見学した。
  この工場は排ガスによる環境問題からボイラーを持っていなくて、2 Km離れた原子力発電所からパイプ輸送で蒸気を得ていた。見学終了後、会議室で昼食を共にしながらの雑談で塩にまつわるエピソードを披露して、写真に示す塩壺をお土産にくれた。ドイツでは、新築の家にお祝いとして塩と小麦粉(記憶ではパンではなかったように思うのだが)を贈るとのことであった。

北どいつ製塩会社からのお土産の塩壷

     北ドイツ製塩会社からのお土産

その後、毎年、クリスマス・カードの交換を行い、1992年に京都で開催した第7回国際塩シンポジウムで再会できるかと期待していたが、叶わなかった。いつの間にかカード交換も途絶え、今では工場も閉鎖されている。

オランダの海外飛躍へのきっかけ

 アメリカの南北戦争では南軍に塩の補給がなく、ナポレオンのモスクワ侵攻ではフランス軍に塩の補給がなかった。これらは、いずれも塩がなくては元気も出ず、戦いに敗れた理由の一つに良く語られる。本書では乞食戦争によって塩の交易路が変わり、それがきっかけとなってヨーロッパで岩塩の採掘が盛んになったことが以下のように述べられている。
 乞食とはオランダの下級貴族のことで、彼等が民衆の反逆をバネにしてスペインからの独立戦争を起こした。その背景には塩の国際取引があった。16世紀の後半、オランダやバルト諸国に供給される塩はイベリア半島やフランスの大西洋沿岸からもたらされた。それらの塩は肉やニシンの塩漬けに使われ、海塩の使用量で抜きん出ていたオランダは海路による塩の輸送でも優位を誇っていた。
 そのころデンマークとスェーデンとの間に7年戦争が起こり、両国間を隔てる海峡は封鎖され、オランダの海運と繊維産業はその痛手で重大な経済危機に陥った。
  オランダ独立派の軍勢は、陸を拠点とする「森の乞食」と船団を組織する「海の乞食」で構成されていた。海の乞食達は海と沿岸を支配下におき、独立派は制海権も握るようになった。海の乞食達はスペインとオランダとの貿易をすべて妨害した。その結果、スペインの製塩所からオランダへの塩供給は止まってしまった。大西洋沿岸の製塩所も影響を被った。

「乞食戦争」でヨーロッパの岩塩採掘が盛んに

 この頃、スペインの国家財政は破綻へ向かい、乞食戦争はオランダの勝利をもって1609年に終わった。両国の講和条約であるウェストファリア条約には「交戦国すべてに不利益をもたらす塩の交易封鎖を禁止する条項」が含まれた。その結果、ヨーロッパで岩塩の採掘が盛んになった。
 オランダの海軍は必需品の塩をオランダに運ぶ役目を果たしたが、ポルトガルの製塩所からの供給が停止していたため、近隣からの供給では間に合わず、遠くから運んでも採算が取れるようになった。カリブ海のアンティル諸島やベネズエラのアラヤ潟にある天然塩田からも塩を採取し始めた。大西洋を横断する新しい航海を始めたことによりオランダは海外に雄飛する海軍力を養うことになった。

オランダ製塩会社の話から

 余談になるが、オランダではドイツとの国境に近いヘンゲローで200万トンのせんごう工場が稼働している。岩塩鉱から溶解採鉱で得られたかん水を煮詰め、食用はもちろんソーダ工業用の原料としてロッテルダムに輸送している。ここで製塩が始まったのは、第一次世界大戦で塩の輸入ができなくなって困ったことによる。これはオランダの製塩会社が十数年前に塩の輸出を働きかけるために来たときに聞いた話である。
  会食をしながらの談話で、当時は塩が専売制であったことから、日本はナショナル・セキュリティとして食用塩を国産で賄っていると答えると、その話は良く分かると応え、実は、オランダが塩の生産を始めたきっかけは、前述のように第一次世界大戦時にオランダが塩で非常に困った経験によるものであった。その後、塩を輸出したい話は出なくなった。

塩を意識転換の起爆剤に

 イギリスの植民地であったインドでは1803年からイギリスの塩に支配された。インドでも製塩は行われており、インドは塩税を徴収していた。ところが、イギリスから軽い綿織物をインドに運ぶ時にバラストとして運んだ塩の価格が安く、インドの塩生産は凋落し、塩税の徴収をあきらめた。その代わりイギリスが過酷な塩税を徴収するようになった。
 インド人にとって塩は植民地として隷属の象徴であった。塩の必要量の違いや貧富の差に関係なく全ての人々に同じように負担を求める塩税は不公正であった。ガンジーは1919年頃に「塩税は権力の濫用だ」と意識し始め、これに抗議する方法を熟考して考えついたのが「塩の行進」であった。

インド独立の発端となった塩の行進

「塩の行進」は1930年にグジャラト平原から400 km離れたダンディのカティアワル海岸に向かって三週間をかけて行われた。最初は78人の参加者であったが、行進中に参加者が次第に増加し何千人もの規模になった。ガンジーが海岸で海水から塩を採取する行動を起こして以来、大勢のインド人たちが塩を採取し、自分たちで使う塩のみならず同胞にも供給することを始めた。これは法律違反であり、六万人以上が逮捕され、ガンジーも逮捕された。
塩税の重さを風刺した漫画
 塩の行進を思いつくことによりガンジーはインドに新たな社会契約を提示した。「これまでの社会契約はイギリスが力によってインドに強制したものであるから無効である」と主張した。ガンジーは、塩に対する人間の生物的欲求を意識転換の起爆剤にしようと考えた。インドが自立するためには自国の資源、知恵に頼らなければならない。これが塩の行進の主張である。インドが自立するためには、まず自給自足から始めよう、としてインド国民が自力ですべてを賄おうという決意を固めて自信を取り戻させようと考えた。塩の行進は植民地支配に対する抗議運動のモデルとなった。
 インドの国民会議派が宗主国イギリスに対して展開するインド独立運動の火蓋を切り、最終的に独立を確立したのは約15年後の第二次世界大戦終了後であった。
                        ◇        ◇        ◇
 以上、塩にまつわる政治的なエピソードを主体に紹介したが、この本には食品保存、生物との関わり、塩の豆知識、製塩と輸送、神話や伝説についても解説されている。

書籍「塩の博物誌」の表紙