たばこ塩産業 塩事業版 2003.01.20

                      Encyclopedia[塩百科] 18                                              

(財)ソルト・サイエンス研究財団専務理事

橋本壽夫

国家経営と産業・経済発展の礎となってきた塩

 塩は歴史的に国家の経営・統治、産業・経済の発展と関わってきた。その辺りがフランスの百科事典に比較的詳しく書かれている。1989年出版のEncyclopedia Universalis20巻目Sel()の項856頁〜-866頁である。担当執筆者は製塩史に造詣の深いJean Claude Hocquetで、世界各地の非工業的な製塩法についても関心を持っており、著書「Le Sel de la Terre」(地球の塩)には現地の写真や歴史的な書物からの挿絵が豊富に収録されている。この事典を参考にしながら、いくつかの話題を提供する。

世界各地の歴史や話題から

塩を得るためのさまざまな伝統的技術

20世紀末になるまで塩を得るために人々は様々な技術を駆使してきた。イギリスの沿岸泥炭地帯では泥炭と塩の混じった砂を集めて、海水で塩を溶かし出し、ろ過して得られたかん水(濃い塩水)を泥炭を燃やして煮詰め、塩を得ていた。この技術は19世紀初頭までノルマンディーに残っており、フリジア諸島や日本(入浜式塩田)でも20世紀になるまで続いていた。
  アフリカのサハラでは塩水を蒸発させて塩を作り、中空の棕櫚の葉で塩の塊を作った。テジダでは土から塩を溶かしだして採取し、タオデニでは岩塩が採掘された。マンガでは、植物を焼き、塩を含む土を溶かし出してろ過し、煮詰めて塩を得た。ニジェルやナイジェリア北部では、多量の炭酸ナトリウムや硫酸ナトリウムを含むため味によって塩を識別し、塩化ナトリウムの比率が高いものだけ(80%止まり)を塩と称した。
 天日製塩が有利な地域は、亜熱帯地中海性気候か熱帯乾燥気候の地域であり、その他の地域では塩を得るために、日射の不足と降雨のため火の助けを借りなければならなかった。

「太陽熱と風の利用」初期の製塩近代化

 ヨーロッパの初期製塩技術の近代化の中で最もめざましい技術革新は、飽和塩水にまで濃縮するためのエネルギー節約技術であった。
  それまで莫大な量の薪を使って塩水煮詰めていたが、太陽熱と風を利用することによりエネルギー節減を図ることを思いついた。長さ数メートル、高さ6-10メートルの濃縮塔をつくり、その中に木の枝を詰めた。上から塩水を流し、木の枝を伝って流れ落ちる間に濃縮された塩水が底部で集められた。それを再び頂上に持ち上げて流した。
  この操作を何回か繰り返し、飽和塩水に近い濃度まで濃縮した後に釜で薪を使って煮詰めて採塩した。この技術革新により薪で煮詰めて製塩する産業が18世紀まで約3世紀にわたって生き延びた(これは日本では1953年頃から現在のイオン交換膜濃縮技術に転換する1972年まで利用された竹の枝で作られた枝条架と類似の技術である)

石炭の発見と利用に関わる「塩と産業革命」

 このエネルギー(燃料)問題はイギリスで石炭の発見と利用により解決された。
  石炭の発見は石炭探査のためのボーリング技術を発達させ、それが岩塩層の発見につながった。またボーリングにより岩塩層に淡水を注入して塩を溶解採鉱する技術の発展にもつながった。
 イギリスでは石炭と塩の輸送のために18世紀に運河網の開発が進み、19世紀には鉄道網の建設が活発になった。
  イギリスは19世紀初頭にはスカンジナビア諸国やバルト諸国への重要な塩輸出国となり、フランス大西洋岸やイベリアの塩生産者の市場を奪った。
 フランスでも産業革命が起こり、イギリスと同じ革新的な技術が導入された。内陸部のロレーヌで岩塩が発見され、マルヌライン運河が掘削され、鉄道が建設され、石炭の開発が行われた。かつて河川輸送で海塩が内陸部に運ばれていたが、輸送革命で塩輸送の流れは逆転し、19世紀半ばになると、石炭によって生産されたロレーヌやフランシュ・コンテの塩は鉄道でパリやオルレアンに運ばれ、さらにダンケルク、ルアーブル、シェルブールの港へも運ばれるようになった。このため大西洋岸の塩は国内市場も失い、多くの塩田は急速に消滅し、ゲランドなどでわずかな遺跡を残すのみとなった。
  地理的に隔たっていた地中海の塩は工業塩としての競争力を維持した。南部の化学工業に塩を供給するためにカマルグで近代的なジロー塩田が開発された。
 開放釜(巨大な平釜)でかん水を蒸発させ煮詰めていた製塩技術は、いくつもの密閉容器を蒸発缶として直列に並べ、順次真空にして蒸発させように改善され、生産量も大規模になった。塩田も機械化、大規模化され競争力を維持している。安い工業用塩を輸送コストをかけて地域外へ運ぶことは少なく、最大のユーザーである化学工業は生産地付近で操業している。

貨幣として位置づけの塩「サラリー」の語源にも

 古代ローマでは外人部隊の兵士は給料を塩で受け取った。それをサラリウムと称しサラリーの語源である。その塩で兵士は他の商品を獲得できた。給料の塩は便利で小さな単位に分割できる貨幣の性格を持っていた。塩はあらゆる商品の価値を測る尺度であった。
 アフリカでも人々は塩でモロコシ、インゲン、バナナを獲得した。人々は交換のため塩を葉、木、皮で包んで保護し塊にした。エチオピアでは塩の棒が税や貢物の役割を果たした。サヘルでは砂漠の塩が穀物や綿布と交換された。もっと南では金と交換され、金はサヘルを越えて地中海に向かう交易に使われた。塩はまた黒人奴隷の購入にも使われた。アフリカの権力者は如何に塩を獲得するかに大きな関心を持っていた。
 中国では紀元前685年に政府は塩の生産を規制し、各人の消費量の下限を定めた。塩の流通が紙幣の創出に結びつき、紙幣の単位を統一して一定量の塩と交換できるようにして、紙幣の価値を塩で保証した。そのため紙幣の発行に見合った塩の在庫管理が必要となり、官僚機構が強化され、悪弊が生まれる素地となった。塩の需給バランスと貨幣の価値を維持するために塩の購買を法によって強制する必要が出てきて、納税者の購買力に比例する塩税が設置された。

不公平税制で塩税一揆フランス革命の一因に

 古代社会では製塩と消費が財源であった。塩はパンよりも必要不可欠で代替できない必需品であったため、紀元前204年にローマを始めとするイタリアで塩税が設けられた。
  有名なものはフランスのガベルと言われた塩税である。塩は水路輸送で供給される。イングランドに海峡制海権を奪われたフランスは、塩の供給確保から1341年フィリップスの王令によりガベルは始まり、1366年シャルル五世の王令によって、塩は王の塩倉庫に集積され、税金が価格に上乗せされるという定式が確立した。フランス北部では販売段階で税を徴収する大塩税で塩売買の自由度を抑制し厳しく流通を監視した。
  一方、南部のラングドックでは生産塩を倉庫に納めるときに税を徴収する小塩税で国家は生産を抑制し、商人は監視のない市場で自由に塩を流通させた。税制はこれだけではなく免税も含めて多様化していた。その上、税を取り立てるのに徴税請負制度が採られ、権力を持った請負人は購入時の取引利益と販売時の税収による蓄財で大富豪となり、国王の債権者にもなった。収税吏の検査、家宅捜索、焼印やガリー船送りなどの重い懲罰、不公平税制といったことから、1617世紀にはしばしば塩税一揆が起こり、フランス革命の一因にもなったと言われ、フランス革命で1790年に廃止された。しかし、まもなくナポレオンによって復活され(1806)1945年まで維持された。ドイツではEUに統一される前まで食用塩に塩税が掛けられていた。

塩は供給国の封鎖で経済的な戦争の武器に

 塩と戦争との関係は、戦争に勝った賞金として塩が使われた。塩の顧客が敵国となった時、供給国による封鎖により組織的、経済的な武器として利用された。敵国は対抗策として穀物の通過を拒否した。交戦国は30年戦争を終結させたウェストファリア条約(1648)で被害が大きい塩の包囲戦を調整することにした。
 ガベルが廃止されてから、ヨーロッパ諸国は中国やインドの植民地で塩税を導入した。 インドでは1803年以後イギリスが塩を独占した。イギリスは産業革命や白塩の生産拡大に伴い余剰の塩を自由にして通商戦略に役立てた。綿織物などの軽い製品を積んでインドに向けてリバプール港を出る船にはバラストが必要で、塩がその役割を果たした。インドでも多くの塩が生産されていたが、カルカッタではリバプールから来る塩の方が安かった。イギリスの塩が多く入るほどに現地の塩生産は振るわなくなっ
た。

  このためインドは塩税の徴収をあきらめ、代わりにイギリスが巨額の塩税を植民地のインドから徴収するようになった。1864年にはこの税は当初価格の2000パーセントにまで達した。塩税はイギリスの財政赤字を埋めたが、インドが支払った税金は重すぎた。1930年にガンジーは、塩税法を犯して海岸で塩を作るためにアーメダーバードの修道場からダンディーの海岸に向かって24日間の行進を始めた(塩の行進と言われる)。日を追うにしたがって、人々の列は大きくふくれあがり、インド中の人々に熱狂的な支持を生み出した。ガンジーは逮捕されたが、人々は警棒も恐れず、各地でわれもわれもと塩を作り出した。この塩税法に対する不服従運動から、翌年にインドで塩生産を自由にできるように総督と取決めを結んだ。
 現在では塩生産の技術開発により塩は無尽蔵にある資源となり、流通手段の発達によって20世紀の間に塩をめぐる状況はすっかり変わった。これからは塩を巡って血生臭いことが起こることはあるまい。