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論評:塩戦争は論評するが説明しない-

‘我々が知っていることを我々は知っていると、

なぜ我々は思いますか?塩論争のメタ知識分析’

に関する招待論評

Commentary: The Salt Wars Described but Not Explained
An Invited Commentary on ‘Why Do We Think We Know What We Know?
A Metaknowledge Analysis of The Salt Controversy’

By Bruce Neal

Int. J. Epidemiol. 2016;45:262-264

 (訳者注:同誌に掲載されているトリンコートらの論文を論評したものである。論評者は減塩推進団体WASHのオーストラリア支部長であり、その立場上、減塩政策に確たる根拠があることを書いているかと思いきや、根拠薄弱であることを正直に書いてあることにお驚いた。) 

 トリンコートらによる今週の論文によると、塩分野の研究者達は偏向して妥協しない利己的な人達である。減塩を信じている人々は丘の頂上から大声で減塩を叫んでおり、信じてない人々は丘の上から同じように叫んでいる。ポテトフライに塩を着けるかどうかを知りたいと思っている谷間の人々の声を聞こうともしないし、十分な注意を払いもしない。トリンコートらが使った手段はあまり精度がないが、これらの結論は真実性から相当遠ざかっているように思えた。どうしてそうなったのか?そして健康に及ぼす塩の効果について我々は実際に何を知っているのか?

 気候変化は最もよく知られている科学的論争の分野であり、塩論争と類似している-特に論争を煽る二つの鍵となる要因がある。操作や誤解を受け易い不完全なエビデンスに基づいていること、と事例の片側に確定している強固な商業的利益である。しかし、気候変化の論争はリーダーに賛成して解決されるように思えるが、同じことは塩については当てはまらない。

 十分に力があり、上手く行われるようにランダム化された試験、またはそのような試験の概観が終わった時、医学の確実性が初めて確かめられたように思える。これは品質の高いエビデンスで、それによりガイドラインの進展、政策決定、世界中の治療戦略を正しく推し進められる。この種のエビデンスは行動を変え、数百万人について本当の健康向上に加えられる。それが医学の道であり、公衆保健が実行されるべきで、あこがれの処方である。残念ながら、真実を確定するデータがないので、この種の明快さはほとんどの健康問題について得られない。

 しかし、決定的なデータがないことは、知らせることもできず合理的な決定もできないことを意味している。それはより洗練された考察と不確実性を伴って扱う能力を要する。正に最高級の研究に置かれた現在の焦点は医学的な意思決定は善か悪かで勘違いをさせることである。これは個人の能力や弱いデータを解釈する慣例を次第に弱くし、ありそうであるが不確かな、利益と危険性の総合的なバランスに基づく合理的な行動を起こす。

 意思決定の中心は利用できるエビデンスの全体性を評価する能力であり、寄与できる部分の色々な強さや弱さを適応させた結論を引き出した。研究設計の種類にしたがって区分され、演繹的に明らかにされた疑問を選択したエビデンスの調査でもって、ガイドライン用のデータ評価法の高度に組織化された性質からこの陰謀は企てられた。この戦略は調査法に客観性をもたらし、試験やメタアナリシスが沢山あるとき、上手く役立つが、弱い一連のデータからの結果をまとめる専門家の能力を制限している。ヘルスケア決定根基としての専門家の意見は、明らかに我々が戻りたいと思っているところ(訳者注:通常の塩摂取量)ではないが、別の情報源から総合的に明らかにされ要約されたデータの熟練した情報に基づく対照が根拠の確実な方法であり、重大な価値のある実行である。

 減塩に関して合理的な決定を行うもう一つの挑戦は既得権を持った団体の商業的利益である。塩自身は安価な日常品であるが、食品加工を通して製品価値の向上に中心的な役割を果たしている。砂糖や油と共に塩は安くて品質の悪い製品を最適な技術的品質を持った付加価値の高い商品に変える。塩味は消費者を塩辛い食品に慣らし、繰り返し購入する行動に駆り立てる。国境を越えた食品会社は世界で最大のビジネスであり、商業的立場を一生懸命に守る。多くの国で、食品産業は主要な職場であり納税者である。政府は介入しないで弱い自主的な方法でほとんどの国は製品に加える塩の量に関して規制を要求しているので、食品産業界は公衆保健問題を否定するほどの影響を与える。たばこと酒造業界が主唱した破壊的な作戦を用いて食品産業界は論争を助長し、食事に関係した病気に関する行動を抑制している。

 トリンコートらによって行われた研究は論争の性質に新たな洞察力を提供し、メタ知識評価は問題を定量化する新しい方法である。しかし、論争の基本となる正当性について引き出された結論は限られている。報告されている相反する出版物や参考的に実行したことは真実であることにはほとんど疑いはないが、政策立案に最も頻繁に参照される研究の質についての評価がないことは、案が意味していることを知ることを難しくしている。論争と対立は必ずしも本当に不確かなことを示している訳ではない。論争上の研究報告は1行広告を生じさせ、弱いデータに基づいていようが強いデータに基づいていようが頻繁に引用される。ほとんどの医学書出版社は読者と引用で成功できるビジネスモデルで経営しており、論争物を出版することは少なくともビジネスモデルを達成する一方法である。気候変化は、論争、偏向した意見、口頭発表者は必ずしも本当の科学的不確実性と等しいとは限らないことを示している。

 そうであれば、これは我々をどこに置き去りにしようとしているのだろうか?塩に関するエビデンスの根拠は不完全であるが、それにもかかわらず、利用できるデータの全体から集められた重要な結論がある。これらの結論は確信を持って述べられないが、多くの非常に信頼性のある機関で説得性を証明されてきた。特に、WHOを通じて国連は、この問題に意見を持っているほとんど全ての国の学習した社会や政府を真似て、全てのメンバー国に減塩を勧めた。エビデンスの多数の要素を考察した評価は、現在の塩摂取量からの利益よりもずっと有害で、減塩は無害で健康に利益をもたらすだけと言う強い見込みを示唆している。そのことがリーダー達を頑固で丘の上から大声で叫んでいる強情な一団にしており、信じない人の推理術について重要な疑問を引き起こしている。