たばこ産業 塩専売版 1991.10.25
「塩と健康の科学」シリーズ
日本たばこ産業株式会社塩専売事業本部調査役
橋本壽夫
塩は胃がんの原因か(1)
この9月に開催された日本癌学会で、尿中の塩分分析による食塩摂取量と胃がんの発症率との間に相関関係があることが、国内5地域の疫学調査で明確になったことが発表され、これに関して塩が胃がんの原因であるかのような新聞報道がしばしばみられる。胃がんと食塩摂取量との関係は、高血圧と食塩摂取量との関係と同じぐらい昔からいわれており、高血圧の方が表に出て、胃がんの方は一般には騒がれなかったが、高血庄と同様、いまだにこの間題も解明されていない。
食塩摂取量と高血圧の問題は1954年にダールの疫学調査の結果で作為的なほどバラツキのない一本の相関関係を表す直線から始まり、塩が高血圧の原因ではないかとの食塩仮説が立てられ、以来今日まで臨床学的、生理学的にその仮説を証明しようと研究が続けられてきたが、それを証明できず、それでは詳細で広範囲な疫学調査で証明しようとしたが、結果的には文明社会では塩との相関関係はなく、これにも失敗して、今や食塩仮説は神話となっている。塩が高血圧の原因物質であるとは決められず、ごく一部の人たちは遺伝的に塩に対して敏感であり、食塩摂取量を減らすことにより血庄が下がる人たちがいるので、現在ではそういった人たちを見分ける方法を発見し、そのような人たちだけ食塩の摂取量に気をつければよい、という考え方が広がってきている。
さて、塩と胃がんとの関係については1964年に胃がんと脳卒中による死亡率との間に地域的な相関関係が見出され、1965年に高張性の物(浸透圧の高い塩辛い物)が胃に残留し、胃壁への刺激によって胃がんが起こる可能性がある、との仮説が立てられた。ベルギーでは1968年以来、減塩キャンペーンが始まり、食塩排泄量(摂取量とほぼ同じ)は1966年の15グラムから1980年には9グラムに減り、これによって胃がんの死亡率は1968年以来顕著に減ったという図1のような報告がある。
図1 胃がん死亡率の変化
しかし、これは死亡率が対数目盛りであり、それより以前の方がよほど減少率は大きく、矛盾した表現となっており、塩の摂取量も年々顕著に減っているはずもないのに胃がんの死亡率は各国とも一様に減少している。この図から胃がんの原因を食塩摂取量に結びつけるには無理があるように思われる。
日本の疫学調査で1963年に塩辛い物は胃がんの原因となる高い危険率を持った食品であることが発表され、以来、漬物とか塩魚が危険な食品としてあげられてきた。その後、経時的観察を主体とした追跡研究では1983年に塩魚と胃がんとの相関関係が認められる一方、味噌汁が予防的であるとの結果も得られたようであるが、患者を対照とした研究では否定的であった。
正常な細胞ががん細胞に変化して増殖していく過程については図2のような仮説が立てられている。最初にイニシエーター(引金物質)と呼ばれる物質が遺伝子に障害を与え、正常な細胞をまだ目に見えないがん細胞に変えるイニシエーションという段階がある。次にプロモーター(促進物質)と呼ばれる物質が反復刺激により、そのがん細胞の増殖を促進させ、目に見えるがん細胞にまで進めるプロモーションという段階がある。それから先はがん細胞が自己増殖を続けがんとなるプログレッション(進行)という段階になる。
図2 発がん過程における栄養・食物の関与 (仮説)
塩が胃がんの原因とすれば、イニシエーターかプロモーターかということであるが、動物実験でプロモーターとかイニシエーターであると示されても、それが即人間に当てはまるものではない。
塩が胃がんの原因物質ではないかと疑われて30年近くになるが、いまだに仮説の投階で結論が出ていない。発がん、がん化の過程は非常に多くの要因が複雑に複合して関連している中で、塩が原因と単純に言い切れるとは思えない。
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