そるえんす、1998, No.38, 17-25
私の研究開発歴
−塩からたばこへ、また塩へ−
橋本壽夫
はじめに
私は昭和38年4月に当時の日本専売公社に入社した。一カ月間の導入研修を受けた後に、中央研究所第八部に配属された。それから20年間、試験研究機関にお世話になることになった。前半の10年間は塩関係の研究、後半の約10年間はタバコ関係の研究にたずさわり、最後の8カ月間は、再び塩関係に帰り、研究管理にたずさわった。
この間、実用化を目標としたプロジェクト研究が多く、世界の最先端を行く技術開発にもたずさわるという得難い経験をさせてもらった。
勤務地は東京、防府、小田原と変わった。それぞれの地には思い出深い印象があり、それらも交えて、たずさわってきた研究開発の思い出を記しておきたい。
振り出しの中研時代
研究機関で最初に配属されたのは、中央研究所第八部T研究員の部屋であった。第八部は塩の研究を担当しており、イオン交換樹脂膜の合成、性能調査を行っていた。私が担当した課題は、イオン交換膜電気透析装置を用いて、陽イオン交換膜のカリウムとカルシウムの選択透過性調査であった。
大学では応用微生物を専攻し、もっぱらカビを培養し、その生産色素の研究をしていたので、初めて聞くイオン交換膜電気透析なる言葉や技術に戸惑った。膜面積が4平方cmという小さなアクリル樹脂製の透析装置に陽イオン交換膜を装着して電気透析を行い、透析液の塩化物イオンとカルシウム・イオンの分析を行ってカリウム・イオンとカルシウム・イオンの選択透過係数を計算した。毎日が、分析と透析装置組立のガラス細工で明け暮れていたことしか記憶にない。
日本海の海辺の小さな漁村で育った私にとって、東京は目の回るようなせからしさと騒がしさに取り囲まれた所であった。育った村の隣町は、新田次郎の小説『孤高の人』に書かれた単独行動を旨とする登山家、加藤文太郎の出身地であり、もう少し東に行くと、加藤に影響されたのであろうか、同じような行動を取ってマッキンレーで帰らぬ人となった植村直巳が出ている。私は登山に対してはほとんど興味はなかったが、彼等に共通する気質で、山陰の但馬地方に独特なはにかみとねばり強さ(小学生の頃、但馬牛の我慢強さ、ねばりを真似るように訓示されるのが常であった)は私にもある。
当時、職場では夏山登山が盛んで、入社早々の年に後立山の縦走に誘われ、初めてのボーナスで登山靴を買った。トレーニングのために丹沢の表尾根から塔ノ岳に登った時、曇り空の蒸し暑い中をいくらも登らない内にバテてしまい、冷や汗が出で、腹が減っても食欲がなく、無理して食べると吐きそうになり、初めての経験でどうなることかと思った。ガスがかかっていたので行く先は見えず、苦しいながらも仲間の後について時間が早く経つのを祈りながら登った。大倉尾根を下りるころになってカラッと晴れ渡り、歩いてきた所がはるか遠くに見えて、よくもここまで歩いてこれたものと驚いた。登るときに行く先が見えていたならば、とても皆についていく気にはならなかったであろう。
トレーニングのお陰で本番の八方尾根から唐松岳、五竜岳、鹿島槍を通り、赤岩尾根を下る縦走ではバテることもなく、黒部川対岸の剣岳から立山に至る雄大な連峰の眺めを楽しんできた。
年の暮れにはクリスマスのダンスパーティが行われた。そのために仕事が終わってから社交ダンスの講習会があり、ワルツ、ブルース、タンゴ、ジルバなど即席で一通り教えてもらった。また、ギター教室も開かれたので、ギターを買って習った。
ところが年が明けると早々に0部長に呼ばれ、2月1日付けで防府製塩試験場への転勤を言い渡され、中研時代はわずか9カ月で終わった。あまりにも短い期間であったので、ダンスもギターも物にならずに終わったのは残念であった。
防府へは三段ベッドの特急寝台列車で窮屈な思いをして寝付かれぬまま、列車が止まるたびにカーテンを開けて駅名を確認しながら行った。東京駅では寒い中を所員とともにS所長が一平社員を見送りに来られたのには恐縮した。その折り、引越し荷物といってもふとん袋と組立式の机と本ぐらいな物であったが、今のように宅急便もない時代にギターを荷造りして送るわけにもいかず、ギターを抱えての赴任であったので、後々に見送りに来られた人から、あの時、私がギターを持って赴任したのでよく覚えていると言われ赤面した。ギターを弾けるようにはなっていなかったからである。
防府製塩試験場時代
昭和39年2月から47年3月末に防府製塩試験場が閉鎖されるまでの8年1カ月にわたる防府製塩試験場時代には、仕事の面ではガスハイドレート法による新しい海水濃縮法、海水中の溶存酸素除去法の研究を行い、余暇の面では、野球にソフトテニス、魚釣り、登山と自然の中で健康的な遊びで過ごし、私生活では当地産の女性と結婚し1男1女に恵まれた(小田原へ転勤してから、また女児に恵まれた)。思いで深いいくつかのことを述べる。
防府の地
着任した日には、U次長が防府駅まで迎えに来られ、小雨の中を社有車で試験場に向かった。その途中で交通事故に見舞われた。私は後部座席の中央に乗っており、非はこちらにあったと思われるが、対向車が右側後部座席のドアにぶつかってきた。そこに乗っていた次長はさぞかし驚かれたことと思う。幸い怪我をすることもなく、着任することが出来た。
防府はのどかな地方都市で、航空自衛隊のパイロット訓練基地があり、将来のジェット機パイロットの卵が、天気の好い日には単発の小さなプロペラ機をブーンブーンと息つくようにエンジン音を喘がせながら町の上を飛び回り、離着陸やタッチアンドゴーの訓練をしていた。
試験場は元三田尻塩田のほとりにあって試験塩田を持っており、枝条架のある流下式の試験塩田が稼働していた。入り浜式塩田であった三田尻塩田は昭和35年の第三次塩業整備で廃止になり、その地には、その昔の釜屋跡の石積み煙突や入り川を渡る石組みの橋、海水を取り入れる樋門や浜溝、塩の着いた砂を集めて塩を溶かし出す沼井の跡が残っていた。全体的には葦や雑草が生い茂っていたが、昔、砂をかき混ぜるために浜子が夏の暑い最中を鍬を引き回して浜曳きをしていたのであろうことが夢物語のように感じられた。
海の幸は多く、潮干狩りでアサリ、馬刀貝、牡蛎、なまこなどが沢山取れ、時には車エビも手づかみで捕れるいう信じられないような恵まれた土地であった。今では干潟は埋め立てられ工業団地となり、昔のような楽しみは出来なくなった。
職場の雰囲気
昭和34年の第3次塩業整備で防府製塩試験場にいた研究者のいく人かはタバコ部門に転勤し、39年当時でもまだパラパラとタバコ部門への転勤が続いていた。塩専売制の廃止がささやかれ、試験場の閉鎖も噂になっていたらしい。入社当時の私はそのようなことを知る由もなく、どうしてまもなく閉鎖されるかも知れない所へ転勤するのか、と中研を出るときに言われた。来てみるとなるほど若い人はあまりおらず、年老いて60歳を過ぎていたいわゆるサムライと言われている人達も何人かいた。入り川のほとりにあったいく部屋もある独身寮には、私一人に寮の管理人夫妻と図書係りで高齢の未亡人が住んでいる、という有様であった。
独身寮に入った日の夕方、入り川には水が満々とあったのに、朝起きて見ると水がなく川底が出ており、アレッおかしいな昨日は確かに水がいっぱいあったはずなのに、と狐に摘まれたような感じであった。潮の干満の差が目立たない日本海の浜辺で育った私には、干満の差がそんなに大きいとは思わなかった。理科で習った記憶はあっても、現実の有様を前にすると、しばらくは信じられなかった。
若い人があまりいない中であったので歓迎され、仕事に、遊びに、宴会に鍛えられた。海の辛が多く、容易に取れる美味しい酒のつまみを前にしては、酒宴のはずまないわけがなく、職場の先輩が昼休みに取ってきた獲物の手料理を肴にして飲むことが多かった。子供の頃、甘酒を飲んでも頭が痛くなる、と言っていたという母からの話であったが、あまり飲めなかった酒量もあがり、人並みに飲んでも酔いつぶれて醜態をさらすようなことがなくなったのは防府時代のお陰である。
新しい海水濃縮法
海水濃縮のエネルギーが少なく、濃縮海水と同時に淡水が得られる方法として冷凍法があり、当時アメリカの内務省塩水局で大がかりな試験プラントによる研究が行われていた。海水を凍らせると、氷の中には塩分は入らないので、海水は濃縮され、分離した氷を解かすと淡水が得られるという理屈である。常温の海水を100℃まで上昇させるよりも0℃まで冷却する方が温度差が少ないので省エネルギーであり、淡水1kg当たり540Kcalの蒸発潜熱よりも80Kcalという氷の生成熱の方が7分の1も少なくて済むといったエネルギー上のメリットがあることがうたい文句である。
ガスハイドレート法による海水濃縮は冷凍法と類似している。炭化水素の水和物(包接化合物)であるガスハイドレート(現在では深海底にあるメタン・ハイドレートがエネルギー資源として時々話題になる)は氷様の物質で、塩分を含まず常温に近い温度で出来るというメリットがある。しかし、解かしたときに氷と違って全てが水となるわけではなく、効率は悪くなる。この方法の問題点は、ガスハイドレート結晶の粒径が500/上程度以上には大きく成長しないこと、つまりこのため、固体と液体を分離することが難しいので、淡水に塩分が混じり水質が良くならないこと、裏を返せば濃縮海水の歩留まりが悪いこと、ハイドレート剤の水への溶解損失が大きいことで、結論として経済的でないことが分かった。これは10 m3の結晶生成槽と22kwのルーツブロワーを用いてガスハイドレートの結晶を作り、それをハイドレート剤の圧縮蒸気で直接接触により分解させるサイクルを組んで試験した結果分かったことであった。
防府に赴任した当初の研究課題は、ハイドレート剤と水との直接接触による総括伝熱係数の測定であった。実は前任者のY研究員が5月の日本化学会で測定値を発表するように申し込んでいた。一応の測定装置は出来ていたが測定値は得られておらず、装置に不合理なところもあり測定装置の改造組立からデータ採取整理まで行って発表するように言われた。実際の仕事は適切に指示さえすれば、その道の専門家の人達が行ってくれるが、使われる用語が初めて聞く言葉ばかりで、ここでも非常に困惑した。S研究班長の叱咤激励と諸先輩の指導よろしきを得て、どうやら発表に間に合わせることが出来たという苦い経験から防府時代は始まった。しかし、その後は切った張ったの設備改善をしては試験をしてデータを取る仕事が続き、一点のデータを取るにも長時間を要する上に、なかなか学会に発表出来るようにはまとまらず、毎年学会発表の時期が来るのが苦痛であった。当時は情報収集や勉強だけで学会に出席させることはあまりなかったからである。
先に述べたように、ガスハイドレート法では大きな結晶を作る技術が重要で、それには結晶を育晶させる槽の形や撹拌の仕方がポイントとなる。この問題を解決するために幾多の装置改造で試行錯誤を繰り返した。この時、私を鍛えようと考えたのであろうか、直属のN班長を通さないで、S試験場長が直接私に命じて自分のアイデアを実行させ、その良否を性急に求めた。アイデアは泉のごとく湧くのであろう。朝に夕に場長室に呼びつけては結果の報告を求め、次のアイデアを示される。極端な場合には、朝令暮改ではないが、結果が出ない前に試験を止めて次のアイデアを示された。私の指示に従って装置を改造してくれる人は、あまり頻繁に指示が変わるのでやる気をなくし、また変わるかも知れないのでもう少し待ちましょう、とばかりに言うことを聞かなくなったこともあり、因ってしまった。それも今では忘れられない懐かしい思い出の一つである。
ともかく防府時代に試験設備の設計、建設、運転にたずさわったお陰で、設備の取り扱いに関する感覚が養われ、その後、いろいろな研究課題における開発試験に大いに役立った。S場長の目論見は生きたのである。
スポーツにレジャーに
防府製塩試験場には公式野球審判員の資格を持った人が何人もおり野球にはうるさく、若い体格のいいやつ(身長178cm、体重85kg)がきたとばかり早速、野球部へ引き入れられた。年輩のメンバーが多かったので攻撃力は弱かったが、守備は抜群に堅いチームであった。シーズンになると庁舎の真にある塩田跡のグランドで熱心に練習に励み、練習試合や公式試合でよく日曜日がつぶされた。
私は子供の頃、戦後の物のない時代に浜辺で野球のまねごとをした位でほとんど経験がなく、ボールを投げればスピードはあってもコントロールがなく、何処にボールが行くか判らず打撃力もなかったが、それでもライトに使ってもらえた。シーズンオフ中の昼休みにはすることもなく、体重が増えていくのを抑えるために壁に書いた円を目がけてボールを投げ、コントロールを付ける自主トレーニングを、雨が降らない限り毎日行った。そのお陰で次第にコントロールがよくなり、思ったところへボールを投げられるようになって来た。
上手なピッチャーが3人いたが、若いピッチャーを育てるために監督は私を使いだした。平地で投げるのと違って、小高いピッチャーマウンドでプレートを踏みながら投げると勝手が違った。マウンドやピッチャープレートの形、プレート前の地形や土の状態によって軸足の位置や安定度が影響され、腕を振り上げた時の姿勢や、踏み出した足のつき具合によってボールを離す微妙なタイミングが変わり、コントロールは乱れた。しかし、経験を積むに従って投げる前の悪い態勢をとっさに修正して、あるいは誤魔化して投げられるようになり、7割ぐらいはストライクを取れるようになった。守備陣が良ければ打たせてアウトを取る方が楽で、この作戦で試合を進めるのが常であった。そのような次第で、広島地方局管内の野球大会出場を決める山口県下の職場の予選大会でノーヒット、ノーランのパーフェクトゲームを達成することが出考た。最終回でパーフェクトゲームが予想される頃になると、相手方のヤジが一段と激しくなり、最後のバッターは何としてもパーフェクトを逃れたいと思い、投げる球、投げる球をファウルにして粘り、ついにセンターに大きな飛球を打ったが、わがチームのYセンターは懸命に走って捕球したのであった。もちろん大会では優勝し山口県代表になった。その日の酒はことに美味しくウイニングボールにチームメイトのサインをもらい、スコアーブックの記録をコピーして長らく記念に持っていたが、たび重なる引っ越しでいずれも失ってしまった。
職場のスポーツ大会は野球以外にもバレーボールやソフトテニスがあった。若い人が少ないこともあってソフトテニスの予選大会にも出た。同じ市内にある工場チームは強かったが、わがチームは参加することに意義ありとするチームであった。身長が高いので前衛をつとめたが、腰が高く反射神経も鈍いのでボサッと立っている印象を与え、サイドを抜かれたりボディを攻められた。バレーボールでも同じであったので、これには加わらなかった。
試験場には潮風会という親睦会があり、船外機を付けた釣り船を持っていたので、休日には向島沖によく連れて行ってもらった。カレイ、キス、タコ、イカなどが獲物であった。釣りの最中に小便をしたくなると仕方なく艫に立ってするが、揺れている小さな船の上ではなかなか出るものも出ないで時間がかかる。その内「ほろけるなよ」と声がかかり、「ロープをほどくなよ」とでも言われているのかと思っていたところ、「転げ落ちるなよ」海にはまるぞという意味であった。
海にはまると言えば、近くで一人乗って釣りをしていた船がひっくり返り、海に投げ出された釣り人はもがき苦しんで泳げない様子を目撃した。わが釣り船は急ぎ救助に向かい、三人掛かりで重い体を引き上げ真っ青になってぐったりした体を叩いたり、揺すったり、さすったりしながら砂浜に運び、一命を救ったこともあった。
N上司は魚釣りが好きで、おもりやてんびんなどの仕掛けを手作りで用意した。職場で旅行資金を積み立て島根県沖の隠岐の島まで釣り竿をかついで出かけた。民宿に荷物を置き、早速近くの岩場へ釣りに出かけた。みんながいろいろと釣り上げる中で、私にはなかなか獲物がかからず羨ましく思い、あきらめて坊主を覚悟し始めていた。ところが、ガクッと根掛かりした感じと共に強い引きがあり、「釣れたっ」と喜んで引き上げようとするのであるが、なかなか引き上げられず、これは手に負えないで糸を切られて逃げられるだけだと考えた。すぐさま大声で上司を呼んで、引き上げられないから代わってもらった。さすがに釣りのベテランだけあって、なだめすかしながら獲物を弱らせてじわじわと手前まで引き上げたので、私は急いでたもですくい上げた。獲物は私の肘から先ほどもあるアイナメで、その夕食に刺身にしてもらい食べた。魚拓を取っておかなかったことが悔やまれる。
ストライキ参加
今でこそ労働運動はおとなしくなったが、昔は超勤拒否、集団交渉、0号戦術、遵法闘争、ストライキ配置・突入など春闘の恒例行事であった。第四次塩業整備(27工場が7工場に整理され、流下式塩田海水濃縮法からイオン交換膜法に変わった)に伴い試験場の閉鎖が狙上にあがった。地元の職員が多かったので閉鎖反対の運動は激しく、いろいろな戦術が採られたが、遂にストライキ宣言から実行までに及んだ。それまでストライキはよそ事のように思っていたが、実際にストライキに入ると秩序ある行動を取らせるために組合側も大変で、勝手な行動を取るとストライキ破りになりかねない。初めての経験でみんなピリピリした感じで、組合幹部の指示に従った。しかし、昭和47年3月末をもって試験場閉鎖は決定され、地元の職員は大半が地元周辺の職場へ、研究関係の人はほとんど全国のたばこ関係の研究所、試験場に転勤になった。私は小田原製塩試験場に転勤になり、3月末に母を含めた家族を引き連れ新幹線で小田原にきた。その夜は奥湯本温泉の須雲川のほとりにあるある借用金庫の寮に泊まった。桜が満開で新しい門出を祝っているようでもあったが、川のせせらぎが耳につき先行きの不安にもかられて、なかなか寝付かれなかった。
小田原製塩試験場時代
昭和47年3月末から昭和58年3月までと平成5年3月から平成6年7月までの12年4カ月が小田原時代で、後期には名称は海水総合研究所と変わっており、研究所の管理運営を考えなければならない立場であった。ここでは前期の研究者として担当したことを述べたい。
研究課題は刻みタバコをポップコーンのように膨化させる処理剤の回収、タバコ細胞の大量タンク培養技術、タバコ中骨改質菌の培養生産、タバコ香料製造のための微生物転換技術等の実用化技術の開発と塩の研究管理であった。それらについて思いで深いことを述べる。
小田原の地
小田原は気候温暖な古い城下町で、観光地箱根の表玄関口である。城下町の特徴であろうか道路がT字型になっている所があり、道も狭く判りにくい。小田原市には小田原城、曽我の梅林、二宮尊徳の生誕地以外にはさしたる観光資源もないので箱根への通過地となっている。東京へは湘南電車で1時間20分、新幹線で35分で行けるし、箱根はもちろん、伊豆半島、富士山、鎌倉にも近く便利なところであ
る。
家々の屋根はトタン葺きが多く、瓦屋根の家屋を見慣れた私には、トタン屋根は物置小屋の感じがしてならず、歴史のある城下町にどうしてみすぼらしいトタン屋根の家が多いのか不思議でならなかった。後になって、関東大震災で重い瓦屋根の家は倒壊しやすいため、トタン葺きで屋根を軽くしていると知らされて納得した。
膨化剤の回収
葉たばこは重さで買い、製品タバコはかさで売る。似たような商品にパンがある。小麦粉を目方で買い、ふっくらと膨らがしてかさを増したパンとして売るからである。タバコの刻みを膨化させて一本のタバコの中に含まれる刻みの量を少なくすることは、低ニコチン低タール製品となり、原料も少なくて済みメリットのあることである。しかしこの膨化剤は高価で損失量を少なくするために効率よく回収し、再使用する必要があった。
回収技術の開発には防府時代に研究していたことが非常に役立った。活性炭を用いてほぼ完全に吸着捕集できることは分かったが、活性炭から脱着させて液化させる工程では不凝縮性のガスである空気の取り扱いを上手くしないと液化せず、回収したことにはならなかった。綿密にデータを取り、設備設計の諸元をエンジニアリング会社に提供し、完成設備の性能試験を行って問題点を指摘し、改善することによって効率よく回収出来るようになった。この経済効果は大きく、私が在職中に試験研究で費やした経費を賄って余りあるほどであったと思っている。
タバコ細胞の大量タンク培養
喫煙と健康問題から低ニコチン、低タールの製品とする手段の一つは原料葉たばこを低ニコチン、低タールとすればよい。そこで低ニコチン、低タールのタバコ素材の開発が検討された。同時に、製塩法が農業から工業に変わったように、気候に左右されない工業的な生産方法で均一な品質のタバコ素材を得ることが要望された。それに応える技術としてタバコ細胞の大量タンク培養技術の確立が要請された。1m3培養槽までの回分培養技術は中央研究所で確立されていたので、小田原では20m3培養槽による連続培養技術の開発が課せられたのである。
植物細胞のタンク培養は植物由来の生理活性物質、例えば、朝鮮人参の有効成分を朝鮮人参の細胞培養によって生産しようと盛んに研究されていた。それには花や葉や茎といった器官に分化する前の未分化の細胞(カルスという)をタンク内で培養するのであるが、大抵の場合、生理活性物質は出来なかった。したがって、タバコでもニコチンが出来なかった。
細胞が成長して2倍の重さになるまでに要する時間をダブリング・タイムという。人間では年の単位、植物では日から月の単位、微生物では分から時間の単位である。時間が短いほど成長が早いことになるが、タバコ細胞は植物の中では一番成長が早く、時間の単位で成長する。それでも、タバコ細胞を回分培養で20 m3培養槽までに持ってくるまでには10分の1の量を種として植え付けるので、2リットルの三角フラスコの種から、20リットル槽、200リットル槽、2,000リットル槽と植え継いでこなければならず、それぞれの段階で5日間ほどかかるので、20 m3培養槽の運転までに15日間の準備期間が必要になる。それから5日間で20 m3の回分培養は仕上がるが、その時期を見計らって連続的に培養液を供給し、その分だけ培養生産物を連続的に取り出して連続培養に移行する。タンクで植物の組織培養を回分培養にしろ、20 m3規模で行った例は世界で初めてのことであり、まして連続培養は言うに及ばないことであったが、幸いにも66日間の連続培養に成功する技術を確立した。
大学で専攻した応用微生物では、種の植え継ぎのときに無菌箱の中で試験管と三角フラスコの口と植継ぎの白金耳が汚染されないようにしておけば良かった。しかし、タンク培養になると汚染を起こす可能性のあるバルブや継ぎ手が何十カ所もある。卒業以来10年以上経って、初めて学校で習った知識が役立つ場面を迎えた。知識として無菌操作に村する考え方を持っていても、バルブ、継ぎ手、空気の除菌フィルターの取り扱い、装置の滅菌、培地の連続滅菌操作など、実際に具体的に行動するときにどのようにすれば目的が達成されるかの経験はなかった。設備を運転するために詳細な手順書を作り、運転にたずさわる人は皆、同じ取扱い技術水準に達していないと培養運転は成功しない。タンク培養設備で無菌技術を身に付けるには、失敗を重ねて高い授業料を払い学んで行くしか道はなかった。
培養設備にはハードにも使い方のソフトにもノウハウがあり、設備上の不備があったり操作を間違えば直ちに雑菌汚染を起こし、一晩で培養に失敗したことが判る。しかも、その汚染原因が判るのは推定も含めて50%位のもので、半分は判らない。そのような時に再度、培養を始めるには緻密な調査と考えられる限りの綿密な検討しても、また失敗するのではないかとの不安で相当なプレッシャーがかかるが、それに耐えて行わなければならなかった。この時のA室長はイオン交換膜電気透析法による海水濃縮技術を実用規模の試験装置で確立し、製塩法の転換に寄与した実用化のベテランであった。しかし、非常に繊細な体質で、絶えず体調を気遣いながらも、休日返上で精力的に培養状態を顕微鏡観察し、ついに畑違いの難しい技術を完成させた。
このような装置であるから、工事完了後に設備受入の試運転で失敗したときの責任が設計と施工のどちらにあるのか、という争いを避けるために設計と施工工事は同一の専門業者が行うのが普通であり、設計は設計、工事は工事でそれぞれ別々に一般入札により落札させることを原則とする専売公社にはなじまなかった。また、ノウハウを盛り込んだ設計が公開入札されてオープンになるとなれば、ノウハウを持った力のある業者は設計委託を受けない。したがって設計業者と随意契約で工事を請け負わせることに苦労した。その上、このプラントを建設する時期はオイルショックに遭遇し、建設工事の資材見積もりが出来ないとか、見積もり有効期間が短く、再三取り直しとか、中には寿司だねのように時価という見積書まで出てきて、工事費も当初予算をはるかに上回ってしまった。それでも追加予算を取ってようやく完成させることが出来た。この時、工事監督で仕事の段取りの大切さ、手直し指示のタイミングの重要性を認識した。
後日、この66日間の連続細胞培養の成果を国際植物組織細胞培養会議で発表した。会場は山中湖畔の小高い山の上にあるホテル・マウント富士であった。国際というからには日本で行うにしても発表は英語となっており、初めての英語による発表をどうして日本でしなければならないのかと身の不運を嘆きながら、原稿づくりから発表練習に苦労したことが忘れられない。終わって質問があり、幸い聞かれていることは理解出来たが、どう答えたら良いのか表現力がなくて困った。この時には、われわれの培養実績を知って某メーカーはシコニンという色素の生産をカルス培養で行う成果を発表した。後にこれは口紅に使われバイオリップとして松田聖子をキヤンペン・ガールに使い商品化に成功した。
専売公社ではタバコの培養細胞を喫煙素材として利用することには成功しなかった。こうした苦労も忘れた頃、本社に転勤になり仕事も塩技術の行政に変わってから、ドイツの出版社シュプリンガー・フェルラーグから植物組織培養の本を出版するのに、大量連続培養について書くように依頼された。何年も前のことで、もはやたずさわることもないのに、今さらまた英語で苦労をしなければならないかと思うと気が重く躊躇したが、結局、世界に向けて専売公社が行った事跡だけは残しておきたいとの思いから引き受けた。
中骨改質菌の培養
葉たばこは、畑から収穫後、農家で直ちに乾燥されたものを購入するが、その後にこの葉たばこは専売公社で再乾燥され、樽詰めされて2年間熟成された後でないと、紙巻きたばこには使われない。この時、葉肉と葉柄(中骨)に分けられ、葉柄もタバコの素材として利用するために、喫煙した時に悪い癖が出ないように発酵させて改質する必要があった。それに必要な改質菌とその基本的な培養条件は中央研究所から与えられ、小田原では2 m2の培養槽を使って培養生産し、菌体を凍結保存する技術を確立することであった。この菌は培養時間が短く一晩の培養ですんだが、収穫する時期によって改質効果に大きな差が出ることから、収穫時期の判断と大量に菌を短時間で分離収穫し凍結する技術の確立に苦労した。この技術は民間会社へ移転された。
微生物転換によるタバコ香料の製造
タバコにはいろいろな香料が使われる。ある物質を原料にして、微生物によりたばこ製造用の香料に転換する実用化試験を行った。中央研究所では三角フラスコ規模でたまたま良質な香料が得られていた。それを2 m2培養槽レベルで製造出来る技術を開発するように、とのことであった。この技術開発にはいくつかの難しい点があった。転換時間が変動したり、転換香料としての結果の再現性が悪かったからである。基礎試験では一回でも良い結果を出せば、可能性が確認されたことで良いが、実用化試験では、その良い結果を再現性良く安定した状態で毎回出さなければならない。その技術を確立することが実用化試験である。転換の進行はガスクロマトグラフィーによる分析で追跡され、転換の終点はガスクロマトグラムのパターンで一応の判定を下されるが、香料としての良否は最終的に人間の試喫による官能検査で決められる。しかし、試喫結果の良否が機器分析の結果のパターンと一致せず、何を指標にして培養管理をして良いのか判断に苦しんだ。
原料が天然物であるので、組成に若干のバラツキがあり、それにより製品品質が変わってくる。転換にはカビを培養して直径2〜3mmの球状ペレットを作り、そこへ原料を投入して微生物により香料に転換させる。良い製品を作るには、この球状ペレットを作ることが一つの鍵で、このために培地や撹拌条件などを検討した。転換は時々刻々に変化して行き、その過程のある一瞬とも言ってよいほどの時期に収穫処理してしまわなければならない。その時期は昼間に来るとは限らず夜間になることもしばしばであった。つまり転換速度を思い通りにコントロール出来なかったからである。ガスクロの結果を見ながらその時期を推定して、多人数で急いで処理してしまわなければならない、という非常に苦しい試験製造の連続であった。試験投階で出来た良質な香料は実際にタバコの製造工程で使われており、失敗すれば1週間から10日間が無駄になり、香料の品不足も懸念されたからである。
この技術の完成は後任に委ねられた。
塩の研究管理と天日製塩見学
塩専売制が廃止されることを見越して計画的な塩研究者の採用はない中で、専売制の廃止は具体的に狙上に登らなかったので塩研究者の人材が払底し、10年ぶりに塩研究の管理者として塩分野に引き戻された。当時の研究課題は塩の品質、分析関係が中心で、若干のイオン交換膜電気透析の研究も行っていた。
塩の研究を発展させるという雰囲気はなく、現状維持と自然退職に伴う人員減でじり貧の状態にあり、先の見通しは全然立てられなかった。そのような状態で悶々としていたところ、半年ほどして翌年4月には本社の塩専売事業本部塩技術担当調査役という誠に訳の分からない課名の所属調査役として転勤させられた。
その前の2月に本社のM調査役が、世界では海水からの塩づくりといえば天日製塩法が主流であるから、それを知っておくことも無駄にはなるまいと、タイの天日製塩改善指導の折りに塩田へ連れていってくれた。旭硝子と現地のソーダ会社でタイ旭コースティツクソーダという合弁会社をつくり、タイの天日塩を使ってソーダの電解工場を操業していた。原料塩はタイ湾沿岸の天日塩田とバンコクから約300 km東北のカンボジアに近いピマイの天日塩田から生産されていた。天日塩の品質は悪く、特にピマイでは地下の岩塩を溶解採鉱して天日塩田で再結晶させていたが、地盤の粘度が収穫時に塩にまみれ着いて真っ黒な塩となり、これが塩か? といったひどい物であった。旭硝子では、塩の品質改善指導を専売公社に依頼し、それに応えて2回目の現地指導の機会に連れていってくれた訳である。
初めて見る塩田風景、それも乾期だけの季節稼働で、ほとんど人力作業による昔ながらの塩づくりを目の当たりに見て、アジアにおける天日塩田による海水濃縮製塩の実態をよく観察することが出来た。ピマイでは小規模ながらも溶解採鉱した後の地盤沈下が起こっており、すり鉢状に陥没していた。溶解採鉱による災害の恐ろしさを想像することが出来た。今では、この地にせんごう工場が出来ている。
この地方では乾期になると塩が地表に浮き出て、植物があまり育たないが、所々には灌木もあり、細々とした草も生えていた。このようなところで、非常に珍しい情景を見た。塩土製塩である。車の中からM調査役はこの有様を目巌く見つけて、どうも塩を作っているらしい。沼井らしき物がある。とのことで車を降りてみると、まさに沼井があり、土をかき集めてその上から水をかけ、土に着いた塩を溶かし出して少し離れた木陰の下で、たたみ一畳位の平釜で煮詰め、塩を作っていた。薄く赤茶けた塩であった。ナコンラチャシマという都市に滞在したが、そこでは、それらしき塩が袋に詰められて売られていた。
本社へ転勤
タイから帰ってまもなく、入社以来20年間の試験研究生活に別れることになった。主として実用化研究にたずさわってきた関係で研究報告の数は少なく、かつ、非公開とされていた技術開発のテーマが多かったので、実用化の見通しが立たない時に研究者を動機付け、意欲を持たせることの難しさを実感した。
本社に転勤になってからの出来事は、次の機会にゆずる。
(財団法人ソルト・サイエンス研究財団専務理事)
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