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たばこ塩産業 塩事業版  2006.7.25

塩・話・解・題 16 特別編

能登に伝わる揚げ浜式塩田製塩

第1回 「歴史と概要」

 

 この度、5代にわたって能登の揚げ浜式塩田法で製塩を続けてきた角花豊さんを編集部と共に訪ね、いろいろとお話を伺うことが出来た。技術の発達したこの時期に、重労働で手間ひま掛かる昔からの製塩法にこだわって伝統を守り続けている様子を製塩法とともにお伝えしたい。先ずは歴史と製法の概要について述べる。

利常公が奨励

能登の揚げ浜式塩田製塩の歴史は、410年ほど遡ること慶長元年(1596)に、加賀藩の三代目藩主であった前田利常公が農民救済のために「塩手米制度」をつくり、能登地方一帯に製塩を奨励したことに始まるという。耕地の少ない能登では「塩手米制度」により田畑をあまり持たない農民に米を貸し与え、その代わり玄米1石につき塩9俵(45)の割合で塩を納めさせた。米塩の資と言われるほどに、米と塩は生活の必需品でもあり、生計を立てるための費用を稼ぐ産物である。その一つである塩を不利な製塩条件であるにもかかわらず奨励した藩主の英邁さが偲ばれる。
  以来400年以上、その技術を守って製塩が続けられている。角花さんの話によると、かつては塩の小作人であったが、独立してから五代目になるという。明治38(1905)に塩事業は専売制となったが、その時にはすでに独立していたとのこと。
  枝条架を付設した流下式塩田製塩法で生産量が飛躍的に増加し、過剰生産設備を整理するために昭和34(1959)第三次塩業整備が行われた。その時、能登では3軒が揚げ浜式塩田製塩を続けることで残ったが、作業があまりにも辛く、2軒は廃業したそうである。
  昭和48年に海水からの塩作りは流下式塩田製塩法からイオン交換膜製塩法に全面的に変換され、海水からの製塩は許可事項となり、許可されたのは将来、専売制度が廃止されても自立して製塩を続けられる力を持った7企業に限られた。この時、能登の揚げ浜式塩田製塩法は古い伝統を引き継いだ観光施設として例外的に許可され、引き続き製塩を続けることができた。(もう一つ例外があり、それは伊勢神宮で行われる神事用の塩作りであった。)
  それは角花菊太郎さん(先代:4代目で平成16年に享年84才で亡くなられた)で、最近まで60年間も塩を作り続けてきた。5代目の豊さんは先代から製塩を引き継ぐように言われたわけでもなく、家族総出で辛い作業を手伝っているうちに自然と馴染むようになり、25年ほど前から本格的に伝統を引き継ぐ意識を持って作業をするようになったという。したがって、先代から手を取って製塩技術を教え込まれたわけでもなく、見様見真似で文化遺産を引き継ぎながらも自分なりに工夫を凝らしてきた。いろいろなことに何回となく失敗して経験を積み、勘でノウハウを体得し、現在では技術的に判断しなければならない様々な事柄を、勘を働かせて的確に判断できるようになったとのこと。
  平成4年(1992)には石川県から無形民俗文化財に指定され、5代目の後を継ごうと若い力の洋さんがサラリーマン生活を捨てて奥さんと共に3年前から加わった。角花さんの揚げ浜式塩田は、能登半島の輪島から国道249号線を海岸にそってさらに先端の方へ約25 Km進んだ仁江海岸に沿った道の辺にあった(写真1)。辛い作業の連続で、非効率的な塩生産法である揚げ浜式塩田製塩法も、塩専売制が廃止された今では伝統製法を謳い文句にして、地場産業の振興やグルメ、健康志向に応えるために再び数カ所で行われるようになってきた。

      釜屋とその前にある塩田

写真1 釜屋とその前にある塩田。国道の側にあり石川県指定の無形民俗文化財になっている。()()が2か所あり、雨が入らないようにあぜ板で覆っている。左側には補給用の砂置き場と燃料の廃材が山と積まれている。釜屋に入る右側にはかん水槽、(しこ)()があり、右端の建物は道具を入れる倉庫。

人力で海水を汲み上げて

 海水から塩を採取するには、90%以上の水分を蒸発させなければならない。メキシコやオーストラリアのような乾燥地帯では、海水を塩田に導き、蒸発に伴って直接塩田から塩を収穫できる。しかし、日本の気象条件では海水を塩田で前濃縮して濃い塩水(かん水という)を得る「採かん工程」と、得られたかん水を釜で煮詰めて塩を採取する「せんごう工程」が必要である。
  塩田を構築するには、潮の干満差が大きく、満潮時に海底に沈む遠浅の広い土地がある地形が有利で、そこには入り浜式塩田が築造され、自然の力、現象を利用して海水を取り入れ、海水浸透を利用し、散布に労力が掛からない工夫をこらして、生産効率を良くした。
  しかし、それらの条件を利用できない能登のような地方では、写真2に示すように満潮時にも海水に浸されない高いところに塩田(写真3)を構築し、そこまで人力で海水を汲み上げ、散布しなければならない。
       
            海水汲み上げ場から釜屋を望む

写真2 海水汲み上げ場から釜屋を望む。千畳敷と言われる海蝕が進んだ岩場の一隅にある浜辺から36 ℓ入る(かえ)(おけ)2つに海水を汲み、天秤棒にぶら下げて80 kg以上もの荷を担ぎ、歩み板を伝って坂を上り、釜屋の向こうにある塩田の浜桶まで運ぶ。

        海水を担いで塩田の中央にある桶まで運ぶ

写真3 梅雨の雨で洗われた状態で、手前は浜桶に汲み置きされていた海水が撒かれており、浜桶を転がして沼井の側に置き、そこまで海水を運ぶ。

海水が蒸発して塩が砂((かん)(しゃ))に着き白くなった後の作業は入り浜式塩田の場合と同じである。すなわち、塩の結晶が着いた砂を「()()」に集め上から海水をかけて塩を溶かし濃いかん水を得る。それを釜で煮詰めて塩を採取する。塩が抽出された砂((がい)(しゃ))は再び塩田に散布される。

4~9月で1.5~2.0 tほど

 製塩作業の期間は4月に荒れた塩田を整備し、ぼつぼつと製塩を始める。しかし6月に入ると梅雨になり、雨が降れば当然のこととして塩田作業が出来ない。それまでの作業で、ある程度砂についた塩が洗い流されたり、大雨で砂が洗い流されたりする。この後、作業を始めるときには砂を補給し、余分に海水を撒いて砂に塩分をしみ込ませる準備作業からやり直さなければならない。
  取材に行った時は、梅雨の中休みで朝から晴天であった。写真4に示すように塩田地盤に貼り付いた砂の上に海水を撒き、「(こま)(ざら)え」で砂を鋤起こし筋目を立てる作業を見ることが出来た。その後、雨が降ったので、折角の準備作業が無駄となった。こうなるとお天道様の有難味がつくづくと分かる。梅雨が明けて本格的な製塩作業が始まり、最盛期の8月は短く、9月にもなると日差しが弱くなり、10月には作業を止めなければならない。

            塩田表面を鋤いて海水が蒸発し易くする

写真4 雨が降って塩が流された砂に海水を撒いて、乾燥を促進させるように(こま)(ざら)えで鋤起こし筋目を立てて、次の採かん作業に向けて準備をしている。

その間に生産される塩の量は1.52.0トンである。出来た塩を200 g500円で販売しているが、シーズン始めの塩田整備には人を雇わなければならないし、家族を養って行くにはあまりにも収入が少なすぎる。そのため海に出たり、山仕事をしたり、関西方面に出稼ぎに行ったりと、生活を支えるために大変な苦労をしてきた。
  製塩作業の辛さ、厳しさと収入を考えると、とても続けられなくて止めてしまうのが常識であろう。伝統を守る使命感を持つだけでこの仕事を続けて行けるのであろうか?その疑問に対する答えを、帰りに買った塩の中に入っていた1枚紙「仁江へきたら、オラの塩づくりを見てくれや」に先代の菊太郎さんが書いている。「時世に合わんことやけど、仁江の浜には命のかぎり残しておきたい気がしての…」という素朴な愛着を表している。
  偉大であった先代菊太郎さんの後を継いで5代目豊さんは同じ心境なのであろうか、父の後を継ぎたいという洋さんと一緒にひたすら頑張っている。
次号につづく