たばこ塩産業 塩事業版 2004.02.25

Encyclopedia[塩百科] 31

(財)ソルト・サイエンス研究財団専務理事

橋本壽夫

『白い黄金』塩の価値について

 塩の価値と言えば、生命を維持するために代替品のないミネラルであることはすぐ頭に浮かぶ。しかし、人間社会に必需品である塩の価値も時代と共に変わって来た。古代文化の埋葬品に黄金の細工物が出土し、黄金は価値のある物とされていたが、塩も大地の「白い黄金」と呼ばれていた。歴史的に塩の価値を6点ほど考えてみる。塩の貨幣、徴税品、医薬品、宗教儀式、食物保存、生命の維持、ソーダ工業原料である。S.A.M. アドシェッドがセント・マーチンズ・プレスから出版している「塩と文明」、その他の資料を参考にした。

サラリー(給与)の語源

青銅器時代のケルト文化のヨーロッパではかなりの量の塩が流通していた。塩の生産地でもあるハルシュタットは貨物の集散地でもあった。ハルシュタットは食糧だけでなく銅,錫、武器、アフリカからの象牙を含めた地中海の贅沢品を輸入していたが、それらの支払いには塩、毛皮、輸入品の琥珀が使われた。ケルト社会では塩は贅沢品であった。
  コロンブスが新大陸を発見するまでのアメリカでは半贅沢品であった。アフリカでは半必需品であった。狩猟社会では塩を必需品としなかったからである。
  中国では紀元前7世紀に政府は塩の生産を規制し、各人の購買量の下限を定めた。このことから塩の流通が紙幣の創出に結びつき、紙幣で一定量の塩と交換できるようにして、紙幣の価値を塩で保証した。他の国々でも物々交換の仲介品として塩が使われた。13世紀にマルコ・ポーロは偉大な(カン)の時代に使われていた塩の印章について書いており、山の中では塩のコインは大きな値打ちを持って通用し、その地方では近年までそのお金が使われていたという。エチオピアでも一部の所では1900年代の始めまで「アモウリス」と呼ばれる塩の小さなタブレットが使われていたと言う。
  古代ローマでは兵士の給料に塩が支給(サラリウム・アルジェンタム)されており、サラリー(給与)と言う言葉は由来している。兵士はその塩で他の商品を得たことから、塩が貨幣的役割を果たした。塩はあらゆる商品の価値を測る尺度であった。「彼は彼の塩ほどの値打ちもない」とは奴隷を買うときの言葉で、その昔、人間の価値を塩で判断したことがあった。20世紀でも花嫁をもらうのに塩をいくら出す、と言うことが残っていた。
 塩の生産量が飛躍的に増大し、流通網が発展するにつれて貨幣としての塩の価値はなくなり、サラリーという言葉にその歴史を残すこととなった。

フランス革命の導火線に!?

 社会生活で必需品である塩は収税の対象品として古くからいろいろな国で徴税品の一つとされた。紀元前3世紀の初頭にイタリアで塩税が設けられた。
  それより有名なのは中国で、紀元前1世紀の前漢時代に武帝が国家財政窮迫の打開策として塩と鉄の専売を行い、一時的に財政危機を緩和した。その財政政策の功罪を論じた会議録が「塩鉄論」である。その後にも8世紀に塩の専売制を行い、国家財政を潤した。
 フランスではガベルという塩税が14世紀にフィリップスの王令から始まった。
  フランス北部では販売段階で税を徴収する大塩税で塩売買の自由度を抑制し、南部では生産された塩を倉庫に納めるときに徴税する小塩税で生産量を抑制した。税制が複雑で違反者への重い懲罰と不公平税制であったことから16,17世紀には塩税一揆が起こり、フランス革命の導火線ともなったと言われている。18世紀には廃止されたが、19世紀になってナポレオンにより塩税が復活し、20世紀半ばまで続いた。ドイツではヨーロッパがEUに統一されるまで食用塩には塩税が掛けられていた。
 イギリスは植民地のインドで19世紀初頭から塩を専売制にして徴税品とした。貧しい人々からも搾取し、重い税金に反発して塩税法を犯して海岸で塩を作ることを非暴力的反英独立運動の手段としたガンジーは、1930年にアーメダーバードからダンディー海岸までの160 km24日間で行進した。非暴力的反抗の象徴となった塩の行進として知られている。
 日本では1905年に日露戦争の戦費調達のために塩が専売制となり、徴税のために財政専売であったが
1919年には徴税品とはしないで、国民生活の負担軽減(価格の安定)、円滑な需給、国内の塩産業育成を目的とした公益専売に変わった。その塩専売制も1997年には廃止された。
 自由主義国家では塩の専売制はほとんど廃止されたが、EUに加盟していないスイスのようにまだ残っている国もある。社会主義国家では専売制であり、徴税品としての価値は残っている。

医薬品として古来より

 これは推定であるが、原始時代の塩はシャーマン,まじない師、専門家の振りをした呪医といったエリートの持ち物で、塩を一部入れた古代の薬として使っていたのではないか、と考えられている。薬としての塩は特に腸の寄生虫駆除と、それらに関連した疾患に対する治療薬として考えられた。
 紀元前10世紀に書かれたと思われるインドの薬に関する記載には、皮膚軟化薬、催吐薬、浣腸薬、目の軟膏、傷の手当てなどへの用途がある。塩の使い過ぎについても警告している。過剰の塩処置が習慣となっている人々では、毛がなく禿げていたり、白髪であったり、性欲の衰えで悩み、壮年期になる前に早々におこったとされている。近年のハンドブックでも、体内に塩が欠乏すると、胃の中に寄生虫が発生すると書かれているという。
 中国では、「塩は腎臓を育てるし、腎臓は骨や髄を強くし、髄は肝臓を強くする」が、他方では「塩は血液にとって有害で、あまり塩辛い味は動悸を打たせる」と書かれているという。
 死体の腐敗を防止する手段として知られていた塩が、生きている者の治療として医療的に勧められたことは当然のことであったかもしれない。
 今でも塩が薬として使われることは生理的食塩水や輸液、人工透析などで残っており、科学的に必要なことが理解されているので将来とも変わることはない。また、塩そのものではなく塩から派生した医薬品は数多くあり、医薬品の重要な原料となっている。

聖書では32ヶ所に記載が

 古代では、塩は宗教儀式で高い地位に置かれていた。聖書時代にユダヤ人は地球上で最初の果物と収穫物を塩と一緒にエホバに捧げた。初期のギリシャ人は太陽と同様に塩を崇拝しており、最初に塩を一緒に食べない者は信用されず、塩を分け合って食べた後は他人ではないと認識していた。
 塩は機知,知恵、力強さ、歓待,神聖を表している。ホーマーは塩を「神」と言い、プラトンは塩を「神へ捧げる貴重な物」と呼んだ。聖書には「汝らは地の塩なり」と書かれていることを始め、塩について32ヶ所に書かれており、それらの多くは契約や同意の成立に関するものであると言う。
  ユダヤ人は塩を交換することにより契約の証とした。ベドウィンは塩を与えた人を伝統的に襲わない。スラブ地方ではパンと塩は歓迎の贈り物であり、花嫁と花婿に対して生涯の健康と幸福を表す印である。ヘブライ人、ギリシャ人、ローマ人は神聖な供物として生贄を塩漬けにした。ローマ・カソリック教会では今でも塩は純潔と清廉潔白のシンボルであり、洗礼の儀式では子供の唇に塩の粒が乗せられるが、これは罪が清められ聡明な人間になるようにとの願いが込められている。宗教の歴史で、塩は神聖なものとして取り扱われてきたことは日本の神道でも同じである。神事を行うときの供物の一つとなっている。宗教儀式における塩の価値は現在でも変わっていない。
 塩をこぼすことは不幸をまねくと考えられており、左肩越しに一つまみの塩を投げたり、テーブルの下を這って反対側に出る、悪い効果を打ち消すことが出来るとされている。レオナルド・ダ・ビンチは有名な「最後の晩餐」の絵の中で裏切り者で不幸を招いたユダの右手首の横に塩壷からこぼれた塩を描いている。

         最後の晩餐の絵の中で倒れた塩壷から塩がこぼれている部分

「食物保存」分野では減少 

塩を食べ物に加えると腐敗が防止され、潜在的に味に差を付け、塩をいろいろな濃度で混ぜることにより味に差が出ることが分かり、塩は味の単調さを改善して、料理人や食通のために可能な全領域の味を作り出せるようになったので、プルタークは塩を最も高貴な食材と称した。
 ケルト社会では塩は贅沢品で、使える人々は限られていたとは言え、フラマン地方(現ベルギー〜フランス辺り)では塩はハムの保存処理に使われ、その他、魚の保存、皮なめしにも古くから使われたようである。プリニウスは塩の医薬的な使い方とともに、古代西洋ではほとんどの塩は食べ物に使われ、調理や食卓で使われることを述べている。また魚の塩蔵と共に、ガラムと言われる調味料の魚醤も作られるようになった。
 魚や野菜の塩蔵は現在でも行われているが、生鮮食物の保存技術としては冷凍や冷蔵技術の発達普及と塩分摂取量に関わる健康問題、食品添加物である防腐・保存料の使用等から、この分野の塩の使用量はなくなることはないが少なくなってきた。

摂取量を巡って論争続く

 生命を維持するために塩は不可欠であると言うことは論ずるまでもない自明のことである。しかし、その摂取量を巡っては絶対減塩推進論者と必要に応じた減塩推進論者との間で論争が続いている。
  世界には文明から隔離された状態で原始社会生活を送り、塩を使わないことから無塩文化と呼ばれる環境で生存している民族がいる。そこでは1日当たり1 g程度の摂取量である。この状態では加齢に伴って高血圧症になることもない。古代の原始社会では塩は通常手に入らない物であった。そのような状況下で人間は進化してきたので、基本的に塩はそれほど必要ではない。現存しているそのような民族が文明社会に移住して塩を摂取するようになると高血圧症になる。これが、絶対減塩推進論者が根拠としている論理である。4-5g程度にしたいと考えている。ただし、このような民族の寿命は非常に短いことにはほとんど言及しない。
  一方、必要に応じた減塩推進論者は、食塩感受性者だけが減塩すれば良いのであって、総ての人に減塩を強制する必要はない、としている。減塩で血圧が上昇してかえって危険となる人もいる。塩が入手できる社会で遺伝的に順応してきた文明人に、減塩による危険性がないことは証明されていない。この段階で総ての人に減塩を勧めるべきではない、という立場である。現に比較的高い食塩摂取量の日本人は世界一の長寿国ではないか、と反論して対立している。これは欧米の論調で、日本ではこのような対立した議論はなく、絶対減塩推進論者だけの意見がまかり通っている。
 結論が出るにはまだまだ時間が掛かりそうである。当面、食塩感受性の簡易な判定法の開発が望まれる。いずれにしても生命維持における塩の価値は変わらない。

文明生活にも必要不可欠

 産業革命が起こるまでは、塩は食用以外の主要な産業鉱物ではなかった。フランスでは塩から石けんの原料となるソーダ灰(炭酸ソーダ)を作る技術を懸賞金付きで募集し、18世紀末にルブランが成功したが、経済性、効率性に問題があった。19世紀の後期にソルベーがずっと簡単な方法で炭酸ソーダを製造するアンモニア・ソーダ法を発明し、さらに約30年後の19世紀末に塩を電気分解して塩素とか性ソーダを製造する電解法が発明された。
  ソルベー法の発明以来、塩はソーダ工業用の原料として大量に使われるようになり、現在ではほとんど電解法で塩生産量の約半分を消費している。塩素とか性ソーダから派生して文明社会に必要な様々な製品が作られ、現在では、塩がないと文明生活が送れないほど重要な価値を持ったソーダ工業の原料となっている。
 以上、塩の価値をいくつかの面から見てきた。時代と共に変わらない塩の価値と、大きく変わってきた価値を述べた。