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たばこ塩産業 塩事業版 2003.06.25

Encyclopedia[塩百科] 23

(財)ソルト・サイエンス研究財団専務理事

橋本壽夫

「生活用塩」減少の背景と問題点

 1997年に塩専売制度が廃止になった。塩専売事業は()塩事業センターが引継いだ。その役割の一つは民業補完業務で、生活用塩の小物商品を供給する事業を行っている。専売廃止後6年間を経て、2002年度の塩販売量の統計値が発表された。これを機に1975年以後の5 kg以下小物商品について、生活用塩の販売量がどのように推移してきたかを示し、いくつかの問題点を提起する。

1.減少傾向をたどる「家庭用小物」

 家庭用小物商品の銘柄としてイオン交換膜製塩法による食塩5 kg, 1 kg等と、輸入塩を溶解再製した精製塩1 kgから食卓塩100 gまで何種類かの商品(表1のCS等で表示)がある。それらを合計した販売量の推移を図1に示す。日本の製塩法がイオン交換膜製塩法に全面転換されたのは1972年のことであった。図にはその後の1975年から示しており、最初大きく変動しているのは、梅や野菜の作柄による影響である。当時の小物商品の販売量は35万トン弱あった。
     生活用塩小物商品販売量の変遷

  その後、販売量はほぼ一定の勾配で減少し続け、2002年には14万トンを切り、10万トンを切るのも時間の問題となっている。塩の専売制は1997年に廃止され、届出制で海水からの製塩が自由に出来るようになった。
  それ以後、地場産業の振興、海洋深層水の利用、海外からの輸入などにより小物商品が市場にどっとあふれるようになった。当然、生活用塩の小物商品販売量は減少し、それまでの減少勾配よりも急になることが予想されたが、今のところ従来と変わらず販売合戦で善戦しているように見受けられる。
  しかし、輸入塩の関税が基本関税まで下がり、特殊製法塩の販売営業力の勢いと宣伝力の強さを考えると、今後は急激な減少勾配となり、生活用塩の数量が減って円滑な民業補完業務もできなくなってくるのではなかろうか。

2.純粋な塩でない「特殊用塩」

 旧塩専売法では需要の少ない塩、例えばごま塩などは用途、性状が特殊である塩(特殊用塩)として製造者が専売公社に届出て、専売塩を原料として加工し自主流通できる制度になっていた。しかし、海水濃縮による製塩は許可制であった。
  専売が外れた現在の塩事業法では、特殊用塩は特殊製法塩と名称を変え、財務省へ届出てどんな塩でも原料として加工し販売できる。海水濃縮による製塩も届出でれば出来る。
  製塩法が塩田製塩からイオン交換膜製塩に全面的に転換したとき、塩田製塩時代の塩のように苦汁成分を含んだ塩を製造販売したい塩製造者があらわれ、特殊用塩の届出制度を適用した。当然、彼等の販売戦略は苦汁成分があることを強調することであった。そのためには、イオン交換膜製塩法による塩は化学塩で純度が高く、純粋で薬みたいな塩である、と盛んに自社製品の優位性を宣伝しなければならなかった。
  はたして製法転換でそのような純粋な塩になったのであろうか。銘柄「食塩」の組成変化を図2に示
す。

     食塩品質の推移

製法転換により硫酸塩やカリウム塩のように大きく変化した成分と、カルシウム塩やマグネシウム塩のようにあまり変化してない成分があり、決して純粋で薬のような塩でないことは一目瞭然で分かる。宣伝が間違いであることを表している。
  特殊用塩には、右端に付記されている組成の輸入塩天日塩を原料として水に溶かし、平釜で再結晶させて作られる商品がある。再結晶工程は物質精製の1手段でもあり、必ず元の結晶中の不純物量は減る。
  つまりCa, Mg, K等の苦汁成分は減って、純粋に近い塩にならなければならない。そのようにして作った商品中の塩類が増えていると言うことは、それらの塩類を人為的に添加していることを表している。
  製法転換で化学合成品の塩になったというイメージを打ち出すために化学塩という言葉を使っている。これも間違った言い方である。
  イオン交換膜製塩法は荷電粒子(イオン)をイオン交換膜で篩い分けする物理現象を利用した海水濃縮法であるため、イオンでなければ、それも小さい物でなければ膜を通って濃縮されない。イオンになっていない油や有害有機物のような海水汚染物は膜を通らないので塩製品へ入ってくることはない。
  輸入塩を溶解再製して製造した精製塩や食卓塩の純度、組成は昔からほとんど変わっておらず、純度の高い塩である。
 これをイオン交換膜製塩法による塩と混同して消費者を惑わせるような言い方をしていることもあ
る。


3.塩にはびこるファディズム

 「フードファディズム」−聞き慣れない言葉である。ファディズム(Faddism)とは「流行かぶれ」「物好き」という意味である。今年の2月に日本海水学会の海水技術研修会が開催された。その折に、群馬大学教育学部の高橋教授は「フードファディズム−食べもの情報ウソ・ホント−」という演題で講演された。教授によると、「食べものや栄養は健康や病気へ大きく影響するが、その影響を過大に信じたり評価することをフードファディズムと言う。どの程度までは適正で、どれ以上なら過大なのかという判断は難しく、過小評価もまた問題ではあるが、体への好影響や悪影響をことさらに言い立てる論である。マスメディアが取り上げる話題にはとかくフードファディズム的情報が多い」とテキストの中で述べている。また、フードファディズムの類型として具体的な事例を次のように挙げている。
@       いわゆる健康食品:食品・食品成分の“薬効”を強調する。
A       健康への好影響をうたう食品の爆発的な流行:紅茶きのこ、酢大豆など。
B       食品に対する不安の扇動:“天然・自然”の強調、“人工・合成”の害悪視。
 この講演を聴いて図1を見ると、前述したことから考えて、製塩法の転換以来、長い間フードファディズムがはびこって、それが具体的な販売実績として現われた事例は塩をおいて他にないのではなかろうか、と思う。
  塩の消費量は全体的に見ると、減塩指向を反映して人口増加率よりも低い増加率で伸びている。図1に示す家庭用小物商品の市場規模は現在では35万トン以上あると思われるが、生活用塩が減った分、特殊用塩(現在では特殊製法塩)に置き換わっている。これはフードファディズムの端的な現れである。

4.国際食品規格と輸入の現状

 食品の安全性について近年いろいろな問題が暴露され、消費者を不安に陥れ信用をなくしている。監督官庁も不手際な対応で批判されている。
  塩専売時代の専売塩については専売公社、日本たばこが安全性を保証していた。現在では生活用塩は塩事業センターが保証している。特殊製法塩の安全性は製造者責任である。
  旧塩専売傘下の製塩企業は「食用塩の安全衛生ガイドライン」を自主設定し、安全衛生基準を設けて安全性を保証している。この中で設定されている品質基準を表1に示す。表1国際食品規格の中で食用塩についても示しており、ヒ素以下の有害不純物の設定値については、日本塩工業会では国際規格値よりも厳しくほぼ1/2に設定されている。
 食用塩の国際規格では、純度が乾物基準で添加物を除き97%以上となっている。これは天日塩に入っている苦汁成分や石こうなどの不溶解物成分を3%以下に抑える規格である。
 日本でミネラルリッチを謳い文句にしている製品の中にはこの規格を満たしていない商品がある。
  フランスなどから輸入されてくる塩にもこの規格を満たしていない商品がある。海水をドライアップしてミネラルが世界一多いとギネスブックに登録されている塩は、この規格から言えば食用塩ではない。
 食品の国際流通を円滑にするために制定された国際食品規格を受託すれば、規格を満たしている食品の輸入販売ができる。日本は食用塩の国際規格を受託してないので、この規格を満たしていても輸入できない。
  その端的な例が食品添加物の問題である。昨年YPSが添加された塩が輸入されて問題となり、急遽YPSが食品添加物に指定された。この規格には日本で承認されていない多数の食品添加物が添加できるようになっている。そのような添加物が入った塩は輸入できない。

5.エネルギーの消費量問題も

 特殊製法塩はほとんど平釜で煮詰める。エネルギー利用効率が悪く、それだけコスト高になる。煮詰めるかん水は、輸入塩を溶解した飽和かん水であったり(この場合が平釜では一番エネルギーが少ない)、濃縮塔で濃縮させたかん水であったり(多分、海水の5倍程度か)、海水を逆浸透膜で2倍くらいに濃縮したかん水であったり、とさまざまである。表2は昔の製塩法と現在の製塩法で、塩1トン当たりの製造にどのくらいエネルギーを使っていたかを表している。平釜式で煮詰めるかん水濃度は15%位である。それから塩1トンを製造するに必要な熱量を基準(100)として各方式の熱量をかっこ内に記載した。
  平釜式と真空式では1/4から1/5程度に熱量は低下し、さらに現状ではもう少し熱量は低下し、効率が上がっている。飽和かん水を煮詰めておれば、この効率はもう少し良くなるであろうし、海水の2倍程度の薄いかん水を煮詰めるときには効率はもっと悪くなる。平釜と真空式ではエネルギー消費量に莫大な差が生じ、真空式の何倍ものエネルギーを使って塩を作ることになるので、国民経済的には莫大なエネルギーの無駄使いをしている、とも言える。
  フードファディズムが蔓延して特殊製法塩の販売量が伸び、生活用塩の販売量が減少してくる姿を見ると、専売時代に必死に良品質の塩を低価格で安定供給できるように技術開発を行ってきた技術者の努力は結果的に何であったのか、と疑問に思うことがある。