戻る
論評:塩とエビデンスに関する意見の攻撃
Commentary: Salt and the Assault of Opinion on Evidence
By John PA Ioannidis
Int. J. Epidemiol. 2016;45:264-265
トリンコートと仲間達による多くの知識解析は減塩に関する文献の明らかな二極化を示している。多くの著者らは塩仮説に故意に賛同して発表し、引用し、レビューし結論を下しているが、多くの他の著者らは故意にそれに反対して群がっている。二つのグループは彼等間でほとんど対話しない。本誌が主要な科学者達からの論文に関して論評を要請した時、その分極は直ぐに明らかになった。私が評価した一人の科学者は我々の招待を断って次のように言った‘論文は…くずで…減塩に反対するこれらの論文の大多数は食品産業または塩産業から資金提供を受けていると言う実感はないように見える、丁度、シガレットについてたばこ産業がしたように…私は資金援助を受けてしたいとは思わない’。ブルース・ニールは論評を書くことに親切に同意したが、食品産業が未確認事項の背後に立っている立場に彼も結局、焦点を置いて、‘多数のエビデンスの鎖をバランスよく評価すると…信じない人の理由付けについて重要な疑問が生じてくる’。逆に、マーチン・オドンネルと仲間たちは、減塩(中程度から低れべるまで)に関するエビデンスは結論に達しないと主張し、したがって、明らかに彼等は信じない人々の仲間である。信じる人はガイドラインから劇的に引き離されるべきであることも彼等は主張し、かつて塩に関する意見を述べた人は皆ガイドラインの作成工程から外されることを示唆している。そこには誰が残るか?
いくつかの主要な意見はこの論争で混乱させられる。危険に曝された生命は潜在的に何百万人もあり、ダモクレスの倫理的な主張は、誰もが間違っていることは、それらの人々を故意にまたは何気なく死に運命付けられていることである。それ故、私の個人的なお気に入りの話題もある:産業は業界に有利にエビデンスをゆがめ、科学的、公衆保健研究者として私は臨機の処置を取り、機関の貪欲に対して社会を守りたい。同時に、ここには明らかに強い科学的意見や忠誠もあり、確認と他の科学的偏向は財政的魅力よりもしばしば悪い場合がある。トリンコートと仲間達はエビデンスに関して公表されたエビデンス、公表されたコメント、解釈についてメタアナリシスされたネットワークを持っているが、この公表された文献は正に長い時間をかけた検討工程の選択的な最終産物である。その一次的なエビデンスとそのコメントや解釈がどの様にして集められたかはソーセージ作りに似ている。どんな研究が行われるかをどのようにして決められたか、研究がどのように行われたか、どのように解析されたか、どのように報告されたか、どのように解釈されたか、査読者や編集者によってどのように読まれ、自分達の意見に合わないときどのように拒絶されたかを考える時、私は躊躇し、解析、結果、引用しなければならない文献、解釈にどんな変化があったことは公表の条件として編集者や査読者によって潜在的に強制される。しばしば、公表された観察的な疫学が、疫学者達の意見の強力な投票数を反映しているだけかどうかを私は疑う。1.3という危険比率は何を意味するのか?多分、それは、危険因子を信じない人々よりも危険因子を信じる人々が1.3倍もの強力な意見を持っていることを意味する。この(仮定的な)悪夢の状態で、危険比率は疫学者の正味の偏見の正確な基準である。
系統的なレビューは事実の裏に潜むこの難問を解決できない。ランダム化された試験の系統的なレビューだけが、査読者が信じているほとんどどの結論にも到達できる。例えば、鬱病用の抗鬱剤の圧倒的な185件のメタアナリシが7年間の間に発表され、その内の79%は産業界が関連しており、業界の著者である55件のメタアナリシスの内54件は抗鬱剤について警告を表明しておらず、一方、業界が関連していないメタアナリシスの半分は要約で警告とネガティブな声明を表明していた。学問的な忠誠は同程度に選択的である。適格な研究の選択は、メタアナリシスが異なった結論に達することによる一つのメカニズムであるが、結論を形作るより多くの手段がある:メタアナリシス・モデルの選択、結果の選択、結果の定義、望ましい追跡試験と言ったことである。同一の要約結果でも、何に最も焦点を当てるか:確実性または不確実性、有益性または有害性に応じて異なった結論げが出てくるかもしれない。ソーセージ製造のエビデンスのレビューよりも一層の段階になることによってガイドラインは、偏向が忍び込める多くの付加的な場所を持っており、これがしばしば一層論争を激化させることになる。
不確実性と偏向の大きな力を私は示しているので、私が塩産業界から資金援助されており、不信心者として火あぶりにされるべきである、と人々は思っているのではないかと私はいぶかる。私は資金援助を受けていないので、命を助けて下さい。その上、私は塩の摂り過ぎは健康に悪いと思っていることを白状します、アーメン。しかし、実際の生活で過剰な塩摂取量を減らすことを試みる様々な介入の相対的な有効性が何であるかも私は知らない。塩が人々を殺すとすれば、保健担当大臣または何人かの博学な公衆保健当局者は‘減塩しなさい’と言いふらしているが、口先だけで言うことが命を救うのに十分だろうか?私はそれを疑う。信心者と不信心者との間で論争された境目の疑問に答えるためにいくつか中枢の長期間で実際的なランダム化された試験がないことを私も悲しむ。私は信心者または不信心者になることを憎み、私は信じたいとは思わなかったので、科学の方へはまり込んだ。
そのようなランダム化された試験は信仰体系から免れるか?必ずしもそうではないが、設計、実行、解析の選択、結果の確認、そして最も重要なこととして解釈までもが影響を受ける。しかし、予定通りの結論に達する自由度はあまりない。多数の大規模なランダム化された試験が仮説に異議を唱える時でさえも、仮説を引用し続ける追従者たちの従者を仮説はしばしば維持する。ベータカロチンの場合のように、しばしば信心者達は、あたかも彼等が決して引用しなかったかのように、ランダム化された試験の記述のない元の主張を引用し続けている。他の場合では、心血管疾患の予防のためのビタミンEや痴呆のためのエストロゲンの場合のように、信心者達はそれらに伴う無数の問題を発見してランダム化された試験を攻撃している。間違った意見は、撲滅することが難しい伝染病のようである。しかし、より強力なエビデンスがこれらの意見の流行を含めて役立つことを期待する。