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たばこ塩産業 塩事業版  2015.6.25

塩・話・解・題 123 

東海大学海洋学部 元非常勤講師

橋本壽夫

 

製塩装置の発達史 日本編

採 か ん 海藻を利用、塩田…独自に進化

せんごう 土器から多様な塩釜、蒸発缶へ

 

 日本の製塩では海水が原料となるので、海水の塩分を5倍程度まで濃縮するする採かん工程と得られたかん水を煮詰めて塩を取り出すせんごう工程が必要である。採かん工程は日本独特の発展を遂げてきた。せんごう工程は世界共通の土器製塩から始まり、金属資源がないため多様な石釜が発達し、その後の鉄製平釜から1缶で年間5万トン程度の塩を生産する蒸発缶まで進歩してきた。両工程の歴史を簡単に振り返ってみる。

 

古墳~江戸時代 様々な形状の土器で製塩

 飛鳥時代から奈良時代に詠まれた万葉集の中にある「藻塩焼く」という言葉は日本の製塩史の一端を示している。日本における製塩は、海水で濡れた海藻を焼いて灰にし、その灰を海水に混ぜて濾し取った(採かん工程)かん水を製塩土器に入れて煮詰めた土器製塩(せんごう工程)に始まる。図1は日本各地で出土した製塩土器の歴史が良く整理されている。様々な形状の製塩土器が縄文後期から平安時代までに全国で出土しており、この図を引用したサイト「愛知県の博物館」では製塩土器について興味深い考察をしている。

製塩土器の発達

図1 製塩土器の発達  たばこと塩の博物館 常設展示ガイドブックより

図2には藻塩焼きから流下式塩田までの採かん工程の歴史をまとめている。塩田製塩は自然の状態にある浜の砂に海水を掛け、塩が付着した砂から海水により塩を溶かし出してかん水を作り出す自然浜と称する塩田採かんから始まった。砂浜のない地方では粘土を塗って人工の地盤を構築し、その上に砂を敷いて塗浜と称する塩田で採かんした。人力で汲み上げた海水が粘土地盤により遮られて地下に浸透損失することはなくなった。能登半島では揚げ浜式塩田として現在でも残っている。

採かん工程の歴史

図2 採かん工程の歴史  「愛知県の博物館」製塩の歴史3より

江戸~昭和時代 入浜式塩田と塩釜の変遷

江戸時代には潮の干満を利用して自然の力によって塩田に海水を取り入れる入浜式塩田が開発され、大きな製塩技術の発展となった。海水を塩田まで人力で汲み上げる重労働が解消され、塩田の規模を大きくできるようになった。瀬戸内海沿岸の十か国(例えば、長門、播磨、阿波の国など)では大規模な入浜式塩田が構築され十州塩田と言われ、昭和時代の戦後まで続いた。

一方、煮詰めの技術は土器製塩から塩釜で煮詰める方法に発達した。塩釜は初期の土釜と言われる土と他の素材を塩水で練った漆喰で作られた釜や、割竹で編んだ物を心材にして表裏に漆喰を塗って作った釜から平たい石を継ぎ合わせた隙間を漆喰で埋めて固めて底を作った石釜に発達してきた。入浜式塩田で大量のかん水が得られるようになると、この石釜は大型の物(2.7m、奥行き3.6m、深さ0.120.15m程度)が開発され、十州塩田で使われた。通常ではこのように大きな石釜の底を支えられないので、写真1に示すように釜の上に櫓を組み、底を支える金具を吊り下げている。

石釜の模型

写真1 石釜の模型  赤穂市立歴史博物館展示より

江戸時代までに鉄釜が使用された記録としては8世紀に中国から渡来した鉄釜があり、塩竃市の塩釜神社にある鉄釜は12世紀から15世紀に作られた物と言われている。江戸時代になると北陸地方では鋳鉄製の平釜が使われ、三陸地方では錬鉄製の平釜が使われるようになった。

ヨーロッパではこの時期、鉛製平釜から石炭の使用により大規模な鉄製平釜に変わってきたが、日本の鉄製平釜は小さなもので、前述した石釜が主流であった。

 

昭和時代以降(戦後~現在) イオン交換膜導入で自動化

入浜式塩田は戦後まで続いたが、流下式塩田が開発され置き換わった。これで毎日重い砂を沼井まで掻き集め、海水を掛けて砂に付着している塩を溶かし出した後の砂を再び掻き散らす重労働から解放された。さらに昭和28年頃から流下式塩田に枝条架が付設されると、昼夜連続して海水濃縮ができるようになった。これにより塩の生産量は飛躍的に増加した。

昭和25年頃からイオン交換膜を使用して直流の電流を流すことにより電気的に塩の成分を集めて濃いかん水をイオン交換膜電気透析法による海水濃縮法として工場で稼働されるようになり、昭和47年には流下式塩田がこの方式に全面転換されるに伴い全ての塩田が廃止された。エネルギー費をほとんど考えなくてよい太陽熱や風力(相対湿度を利用)による自然エネルギー利用から化石エネルギーの利用に変換することによりエネルギー費が極めて重要となる工程になった。

煮詰めの技術は明治時代も半ば過ぎてから大型の鉄製平釜が導入され、やがて平釜の表面を覆い、蒸発した蒸気を予熱釜に導き熱効率の上昇が図られるようになった。昭和の時代になると、昭和2(1927)に初めて真空式蒸発缶が導入された。最初にアメリカで導入されてから約40年遅れてのことであった。昭和30年頃には流下式塩田と真空式蒸発缶の組合せで標準的な製塩技術が確立された。

昭和45年頃には前述したイオン交換膜電気透析法による新しい採かん法の技術導入の見通しが立つと、新たな煮詰めの技術が検討され、真空式蒸発方式は変わらないが、蒸発缶の形を変え、熱効率をより良くし、容易にメンテナンスできる装置とした。新しい採かん法でスケール成分の少ないかん水が得られるようになったことと合わせて、昭和47年以後の製塩技術では数か月間の連続運転ができるようになった。これで台風被害を含めて気象条件の影響を受けない製塩法となり、製塩装置は自動化され、計画的に生産できるようになった。

イオン交換膜電気透析法で採かん工程に多大の電力を必要とすることから、設備動力や照明を含めた工場内電力を賄うために自家発電装置が設置され、ボイラーで発生させた高圧蒸気が大気圧近くになるまでの蒸気圧力で発電し、その後、取り出した蒸気を真空式蒸発缶の熱源に利用する熱電併給(コジェネレーション)システムを構成することにより化石燃料のエネルギー効率を飛躍的に向上させ、製塩コストを激減させた。

 

専売制当初・廃止後では生産性は360倍に向上

 明治38(1905)に塩の専売制度が始まり、国の管理下で製塩法に関する試験研究が行われた結果、塩田はなくなり、製塩工場数は7か所(現在では5か所)まで減り、平成9(1997)92年間続いた塩専売制度は廃止された。製塩法の変遷に伴って生産性の向上が図られ、塩田整理による4回の合理化が行われてきた歴史を表1に示す。塩専売制度が始まった頃と廃止された頃とを一人当りの塩生産量で比較した指数として示すと360倍にも生産性は向上している。

 塩専売制度が廃止された今日では、海外から自由に塩が輸入され、国内では生産性の低い小規模の製塩場が多数乱立して価格が高くても、消費者ニーズに応えて成立っている状態である。

塩専売制時代の製塩技術開発による生産性向上と合理化の歴史
表1 塩専売時代の製塩技術開発による生産性向上と合理化の歴史