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たばこ塩産業 塩事業版  2013.8.28

塩・話・解・題 101 

東海大学海洋学部 元非常勤講師

橋本壽夫

塩にまつわる格言・ことわざ

 

 旺文社の成語林によると、格言とは「人生の真理・機微や処世術などを述べ、教えや戒めとした短いことば」、ことわざとは「昔から広く人々の間に言い伝えられている、風刺・教訓・知識・興趣などを含んだ、比較的短い形の文句」とある。長い歴史を持つ塩がそれらの中で使われている事例を紹介しよう。

 

塩は腐敗防ぐ神聖な物

 塩の高い浸透圧は細胞内の水を引き出すので、死んだ物を腐敗させる微生物を生育させない。生物が死んで腐敗すれば、やがて無機質の骨などを残して姿は消えてなくなる。昔の人は、塩が生きていた時の姿を永遠に保存できる不思議な力を持っていることを知り、神のような神聖な物と考えたのではなかろうか。ミイラづくりに塩が使われ、高貴な人が将来復活することを願ったものと考えられる。

 ことわざ「地の塩」はキリスト教の教えであるマタイ伝の中に出てくる「汝らは地の塩なり」から来ている。イエスを救世主と信じる者は、この世の汚れを清め、腐敗を防ぎ、この荒れ果てた世の光ともなるべき役目を負わされているとされ、キリスト教の信者は現世においては腐敗を防ぐ塩のように、人心の腐敗を食い止め、生きる者にうるおいを与えなければならない、と教えられる。「地の塩」とは人の模範・鏡として例えられており、「地の塩になれ」とも言われる。

 塩の高い浸透圧を食品製造で利用したのが漬物だ。みずみずしく青々として元気であった作物が、塩を振り掛けられると萎えて元気がなくなる様を「青菜に塩」と表現する。「なめくじに塩」とはなめくじに塩をかけると水が引き出され、縮んで動かなくなり、元気がなくなる様を表現した言葉だ。同様の意味で「ひるに塩」がある。オランダのことわざには「カタツムリに塩をふる」がある。なめくじによる園芸被害を防止するために薄い塩水をトラップに入れて効果を上げている実験事例がある。

 浸透圧が高いことは強い刺激と関係しているはずだ。傷口には神経細胞が来ており、そこへ塩を塗りつける「傷口に塩」という言葉は、痛みのある傷口に塩を塗れば、傷口はしみて一層痛む、つまり事態が一層悪くなる時の例えとして使われる。「痛む上に塩を塗る」や「切り目()に塩」も同じ意味のことわざ。「弱り目に祟り目」とか「泣き面を蜂が刺す」といったことわざもほぼ同じ意味で使われる。アフガニスタンには「傷口に塩を振り掛けるな」ということわざがある。

生きるうえで不可欠な塩

 神聖な物と言う意味ではないが、塩は米とともに生きていくうえで不可欠な物であることから「米塩の資」と言う言葉がある。生計を立てるための費用、生活費のことをいう。古代ローマの兵士は貨幣の代わりとして生活の資を塩で支払われた。ラテン語で塩のことをサルと言い、給料はサラリウム・アルジェンタムと言われたことにサラリーと言う言葉は由来する。兵士の働きが悪いと、「支払われた塩ほどの値打もない」と言われ、働きが良いと、「支払った塩ほどの価値がある」とのことわざが生まれた。奴隷貿易で奴隷の売買を塩で行った時代には、奴隷の評価にこれらのことわざが使われた。

 

人の能力・状態を表現

 塩は料理に欠かせない。塩は体に悪いとされるが、塩味に対する生理的な欲求を抑えることはできない。しかし、塩味を示す安価で安全な物もない。苦みはあるが、ある程度の塩味を示す塩化カリウムを加えた塩代替物がある。美味しいと感じる塩味を示す塩の濃度範囲は狭い。例えば、美味しいすまし汁の塩濃度は0.8%程度である。

うまいまずいは塩かげん」と言われるように料理の味を決めるは塩の加え加減である。

一番うまくて、まずいものは塩」と言われるのも微妙な塩加減だけで料理が美味くもなり、まずくて食べられなくもなる。「塩たらず」とか「塩が足りない」とは加える塩の量が足りなくて、食べ物の持ち味を引き出せず、料理が不味くなり、水臭い間のぬけた味になってしまう。この表現は、のろのろしていることや、能力が低いことを表す時にも使われる。「塩気がぬけた人」とは、覇気がなく、意志薄弱でもうろくした人のことを言う。

 逆に「塩も味噌もたくさんな人 」とは、食生活で塩や味噌はなくてはならない大切なものであるところから、なくてはならない物を充実して持っている、備えているという意味で、物事を確実にこなせる人を表す言葉となっている。

ヨーロッパにも同様のことわざで「塩の豊かな人」があり、この場合もすぐれた経験のある人、教養のある人を表現するときに用いる。人間形成に係わる表現として「塩が浸む」という言葉がある。世間のつらさが身にしむとか、世の中を渡る経験を積むことを意味する。塩味の効いた味わい深い人間(の味)を醸成する言葉に塩が用いられ、「塩を踏む」という言葉でも、世の中の艱難をなめるとか、つらい目にあうことを言い、塩が人間形成に関与した言葉となっている。外国のことわざに「忍耐と言う塩はすべての人を鍛える」がある。

 

「隠し味」という観点から

牡丹餅の塩の過ぎたのと女の口の過ぎたのとは取り返しがつかない」とは牡丹餅のあんに塩を入れ過ぎることと、女性のおしゃべりが過ぎることはどうにもならない、つまり修正が効かないことを表しており、「過ぎたるは及ばざるがごとし」にも通ずる。程々にしておくことの大切さを訴える時に使われる。

塩味が効きすぎると「閻魔が塩辛を嘗めたよう 」な様になり、あまりに塩辛くてにが虫を噛み潰したようなむずかしい顔になることを言う。

塩は隠し味として使われ目立たないが、味の調整に重要な役割を演じている。「味噌に入れた塩はよそへは行かぬ」という言葉は、味噌を作るときに加えた塩はやがて見分けられなくなるが、味を調えるために役立っているとの意味で、他人のために手助けしたことは、その場ではむだなことのように思われるが、後になってみると結局は自分のためになっているものであるという教え。「情けは人の為ならず」に似たことわざだ。

 美味しさは主観的な感覚である。「手前味噌で塩が辛い」とは自分が作った味噌だと、塩辛くても本人だけはおいしいと思っていることから、自慢ばかりするので聞き苦しいことの例え。○○の話は手前味噌が多く、聞くに堪えないといった会話に使われる。

 

戦国時代の故事に由来

敵に塩を送る」とは武田信玄が塩を入手できなくて困っていた時、敵将の上杉謙信が武田信玄に塩を送り、対等に正々堂々と戦うことを望んだという故事に由来する。このような美談は日本にしかないのではなかろうか。このことわざを良しとすれば、兵糧攻めは卑怯な戦略となる。例えば、アメリカの南北戦争では北軍は南軍に対して塩の補給を絶つように南軍の塩の生産拠点を破壊し、海上からの塩補給を封鎖して勝利に導いた。石油を絶たれ、工業製品原料の鉄クズを絶たれた日本は「窮鼠猫を噛む」立場に追い込まれてアメリカと闘って負けた。戦時中には海外からの塩の補給もなく、終戦時には塩の生産量は半減していた。

淵に塩」とは深い淵を塩でうめようとすることは不可能であり、効果がないことや無駄なことの例えとして使われる。しかし、油田の掘削時に地下水の湧出で困った時には、水を止めるために塩のスラリー(泥漿)が注ぎ込まれる。水に対する塩の溶解度は温度であまり変わらず、低いままであり、安価で大量に入手できることで利用されている。

インターネットで知ったことだが、「塩を売れば雨が降り、粉を売れば風が吹く」ということわざが日本にはあるようだ。雨で塩が溶けて損をし、風で粉が飛んで損をするので、事を実行するにはタイミングを図れということか。

溶けてなくなるわけではないが、「こぼした塩は集められない」ということわざがスペインとポルトガルにある。「覆水盆に帰らず」と同じだ。塩が集められないことを中国のことわざでは「乾いた指では塩をつまめない」という。

無駄にしないということわざでは、「塩売っても手を嘗める」がある。塩を売っている人が手についた塩を無駄にするのを惜しんで嘗めることから、商人が商品を少しでも無駄にしないようにすることを言う。転じてつまらないことにまで気を使ってけちけちする意味にも。商売の習慣が身についたことわざには「塩を売れば手が辛くなる」がある。一人前の塩商人になった証の表現でもあろうか。

 

海外でも多くの事例が

鼠が塩を引く」とはねずみが一度に持っていく塩の量はわずかであるが、度重なると大量になることから、ささいなことでも何回も繰り返すと大変なことになることの例えで、大量にあった物が少しずつ減って、最後にはなくなってしまう例えにも使われる。

また、ねずみが塩を持っていく様子から、びくびくしながらこっそりと行う様子を例える場合にも使われる。「鼠が塩をなめる」も同意。

河童に塩を誂える」とは海でとれる塩を川に住む河童に注文することから、見当違いの注文をすることの例えに使われる。「河童に塩頼む」も川に住んでいる河童に塩を頼んでも見当違いで手に入らないことから、当てにならないことをさす。

 塩という言葉が使われている格言やことわざは他にも数多く存在する。日本と同じ意味のことわざが海外にもあるが、歴史、文化、環境の違う外国では塩を使った格言・ことわざでも日本にないものが数多くあり、そのうち紹介しようと思っている。