たばこ塩産業 塩事業版 2009.4.25
塩・話・解・題 49
東海大学海洋学部非常勤講師
橋本壽夫
イギリスの塩産業史
豊富な塩資源 近隣諸国との熾烈な戦い
中国、ポーランド、オーストリアでは紀元前数千年前から塩作りの歴史を持っている。イギリスではブリクタージと呼ばれる製塩土器が発見され紀元前数世紀もまえから製塩されており、ドロイトウィッチでは1世紀頃の製塩遺跡が発掘された。イギリス塩産業史からいくつかの話題を紹介する。
岩塩の成因と変遷
イギリスも日本と同様に周囲を海に囲まれた島国で、長らく海水や塩泉が塩資源であった。1670年にチェシャー州ノースウィッチで石炭探査中に、地下約45メートルのところで岩塩が初めて発見された。1829年にストーク・プライアーでも発見されて以来、1910年までに次々と発見されてきたが、多くは地下100メートル位の浅いところにあった。
イギリス岩塩層の成因は2億5千万年前にさかのぼる。当時、イギリスはパンゲア大陸の中で赤道の近くにあり、砂漠に囲まれた浅い内海を持っていた。内海は干上がって塩の層を形成した。その途中で周囲の陸地から多くの砂や土が吹き寄せられて混じり、チェシャー岩塩の特徴はピンクから橙色に着色している。パンゲア大陸は分裂し、ヨーロッパ大陸と共にイギリスは北の方へ移動して現在の位置に達した。その間に岩塩層は埋まる物もあり、溶けて流れ去った物もあった。
チェシャー州の岩塩層は浅く、その下にあった地下水は塩を溶かして地上に湧き出すかん水泉となった。現地の人々はそれを2000年前に天然資源として利用していた。発見された岩塩の当初の用途は海水や薄いかん水に溶かして濃いかん水を作ることであった。そのためウィーバー川の畔にあるフロッドシャムから海岸沿いの製塩所に船で岩塩が運ばれた。
海水からの製塩
エセックス州の海岸に沿って、後期鉄器時代(紀元前5世紀頃)に製塩で使われたブリクタージと呼ばれる土器が大量に発見された。海水を入れて火の上に置き、蒸発させて塩を得ていた。製塩施設はローマ時代まで続き、「赤い丘」と呼ばれるほどの遺跡となっているところもある。スコットランドや北東イングランドでもポット法として使われていた。
平釜で海水を蒸発させて塩を作ることも行われるようになった。平釜の材質は陶器から鉛、鉄へと変わってきた。海岸で塩が付いた砂(スリーチという)を集め、キンチと呼ばれる溝に入れ、その上から海水を注ぎ、濾過されたかん水を水槽に集めた。この工程をスリーチングといった。この工程は東海岸ではマルデファングといわれた。かん水中で卵が浮くよう
になる(16%溶液)までこの工程を繰り返し、それを平釜で煮詰めて塩を得ていた。スリーチング法は1571年の大津波で多くの塩田が破壊されるまで続けられたが、輸入塩との競争に直面して最終的になくなった。
平釜の大きさは3フィート(90 cm)角で、3つを1セットとして炉の上に並べて使用された。中世末には鉄釜に代わり、大きさも幅7フィート(2.1 m)、長さ8フィート(2.4 m)と大きくなった。燃料にはピートや木材を使っていたが、鉄釜になると石炭が使われるようになった。増産のために幅20フィート(6 m)、長さ30フィート(9 m)以上と平釜も大きくなった。
8世紀から10世紀には南海岸に多くの製塩所(ソルターンと言われるのは17世紀までの製塩所で、それ以後はソルト・ワークスと言われる)が現れ、11世紀には1195以上の塩田(サリナ)を記録した。11世紀から塩蔵魚用に大量の塩が輸入され始めた。西海岸の港にはフランス、スペイン、ポルトガルから、東海岸の港にはドイツのリューネブルグから塩が輸入された。16世紀にはエセックス州の製塩所は北部海岸、フランス、ケープ・ヴェルデ諸島で生産された純度の低い海塩を再結晶させた。
スコットランドでは製塩用石炭の使用はピートに代わって13世紀から始まった。1575年には44基の平釜で毎週90トンの塩を生産し、1614年までに塩は羊毛、塩蔵魚についで三番目に大きい輸出品となった。18世紀にはアイルランドからの密輸された安い塩で苦しい状況が続いた。海水からの製塩は1870年代末に終わった。
薄い濃度のかん水に岩塩を溶かして濃くしたかん水や、岩塩層に淡水を注入して採鉱したかん水を平釜法で蒸発させるようになった。この製塩法では、火炉や煙道の上に幅が広く底が平らな鍋をおき、かん水を蒸発させる温度や速度を変えて、微粒、中粒、粗粒の塩を作り分けた。蒸発速度が速いほど結晶は細かくなる。塩に苦い塩類が混じらないように塩を掻き揚げ、かん水を補給した。週に1回定期的に火を止めて溶液を取り出して空にし、底に2.5 – 5.0 cmの厚さで付着したスケールをつるはしで砕いて除いた。
掻き揚げられた塩を写真左手前に伏せて重ねてあるペッグ・トップ・タブと呼ばれる容器に入れ、左後方に示す白い塊の形にした。後にこの形は四角形となった。製塩所の断面を図に示す。せんごう室で作られた塩の塊は煙道の上に作られた隣の乾燥室に運ばれた。14日間かけて乾燥し、必要に応じて粉砕して出荷した。
内陸塩産業の興亡
内陸でもカンブリア州からサマセット州まで伸びている岩塩層から湧き出るかん水を利用して初期製塩は6ヶ所で行われた。ドロイトウィッチで1世紀頃の製塩所が発掘され、5 – 7世紀まで火炉が使われていたことが分かった。初期キリスト教教会と塩生産を結び付ける後期ローマ時代の碑文が刻まれた鉛製塩釜がチェシャー州で発見され、塩産業の発達と資金調達の情報が得られた。
中世時代には鉛製の釜で作られた内陸の白い塩は輸入海塩との競争圧力に曝されていたが、白さが好まれて多くの用途、特にバターやチーズの製造や食卓塩用に使われた。
ドロイトウィッチの3地区(ネザーウィッチ、ミドルウィッチ、アップウィッチ)は中世の塩産業に影響を与えた。ドロイトウィッチは配送網の中心であった。新しいかん水井戸の開設や運河の開通で交易が刺激され、1872年にはドロイトウィッチの塩産業はピークに達したが、1922年に閉鎖された。
内陸部塩産業の興亡は激しかった。新しいかん水井の発見や開設で製塩が行われたが、長くは続かず、やがて閉鎖された。その多くの原因は地盤沈下による災害であった。また、化学工業用のかん水需要増加に伴って乾式採鉱後の岩塩坑内に淡水を注水してかん水を供給した。この方法が採られた鉱山はすべて地盤沈下による大災害を起した。岩塩層が比較的浅いところにあるので、採鉱にあたっては地盤強度を考慮しなければならない。採鉱方法、採鉱間隔、採鉱形状など安全対策上の採鉱条件が確立されるまでには幾多の災害に見舞われた。
海岸部の精製産業
14世紀にタインサイドで作られた塩は品質が悪く、安い石炭を燃やして鉄釜で作られた塩はしばしば黒色から灰色であった。この塩を海水で溶かして再結晶させ、白い塩に作り直すため東海岸の製塩所に送られた。白くて品質の良い塩に作り直す塩の精製は他でも行われた。また、18世紀にフランスから輸入された海塩は苦味を示すにがり分が多く含まれており、ニシンの塩漬けに使用したところ、塩漬けニシンの品質が悪くなるという苦情が出た。これも海水による溶解再結晶で苦味のない塩とした。塩の精製は岩塩の採鉱によっても強化され海岸地域における精製産業を発展させた。
真空蒸発法の発展
1905年にチェシャー州ウィンズフォードで初めて真空蒸発缶が操業された。1813年にはリバプールの製糖業者は真空蒸発法を知っていた。製塩では1889年にスタフォード州シャーレイウィッチと1901年にウィンズフォードで単一効用の真空蒸発缶が使われた。この方法では細かい塩だけしか作れなかったが、1940年代後半までに粒状と樹枝状塩を製造できるようになり、これとの競争で内陸の平釜製塩工場は閉鎖され始めた。
今日では、精製されたかん水を真空式製塩工場で煮詰めてできた塩結晶を含むスラリーを遠心分離機で分離して結晶を取り出すとき、固結防止用に少量のフェロシアン化ナトリウムを加える。食卓塩とするときには流動性を改善するために炭酸マグネシウムを加える。
塩税 生活を圧迫
塩税といえばフランス革命やインド独立の遠因の一つとして有名である。イギリスでも塩税があった。17世紀末に戦費調達を目的としてイングランドやウェールズで始まった。その後、国内製塩を保護するために輸入塩には高い税金が課せられた。スコットランドでも同様の趣旨で外国塩としてアイルランド、イングランド、ウェールズからの塩に税金が課せられ
た。
18世紀末までには農業(砂糖大根の肥料として岩塩を使用)、さらし粉や化学工業で使われる塩まで拡大された。19世紀の初めには輸出や漁業用の塩には戻し税または税金の払戻しが行われた。
貧富にかかわらず全ての人々に塩税が課税されたので密輸が流行した。密輸を規制する多くの法規や規則と高い税率は様々な問題を起した。また、富裕者は新鮮な食品を沢山食べられたが、貧困者は塩漬けマトン、塩漬けビーフ、塩漬けポーク、塩蔵魚、チーズのような塩辛い食品を食べるので、塩税は貧困者に大きな影響を及ぼした。
社会改革者や急進派と立場が違っても塩税廃止のためにはまとまり、1825年には塩税は廃止された。
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以上、イギリスの塩産業史を簡単に紹介した。製塩法の発展過程で日本と同じように土器製塩や塩田製塩があったことは興味深い。
天然かん水泉や岩塩という塩資源に恵まれたが、それに伴う地盤沈下による災害を被り、塩税をかけながら国内塩産業を守り、近隣諸国の塩産業との間で熾烈な戦いがあったことは日本と事情を異にしている。