たばこ塩産業 塩事業版 2007.02.25
塩・話・解・題 23
東海大学海洋学部非常勤講師
橋本壽夫
海水溶存資源の正体は?
奇妙な表題を掲げ、製塩業界の読者には不審に思ったことと思う。常識が教育の場では常識ではなく、間違って教えられている。海水中にはイオンとなって塩類を構成する成分が存在しているが、海水を蒸発させていくと溶解度の小さい塩類から順に析出してくる。これを実験で確認しないで理論だけで考察して間違っていることと、実験は行なったが分析で正しく塩類が確認されなかった結果であると考えられる。どのようなことか解説しよう。
海水中には硫酸カルシウム(石膏)がない?!
そもそもの発端は数年前に初めて東海大学の非常勤講師として講義をした時のことである。海水中にどのような塩類がどれほど含まれているかを説明した。一人の学生が、そのことについては東海大学の付属機関である海洋科学博物館に展示されている、と教えてくれた。早速見に行くと、展示には硫酸カルシウムがないように展示されている。おまけに海水から塩を採ってみよう、とばかりに解説された1枚の紙が持ち帰れるように置いてあり、それには海水中に表1(東海大学展示)に示す塩類が含まれていることが書かれていた。
表1 海水中の溶存塩類量 | |||||||||||
海水利用 ハンドブック | 三省堂:化学ⅠA 改訂版 | 旺文社:学芸百科事典 | 共立出版:化学大事典 | Chemical Publishing Co., INC : Raw Materials from the Sea | ブルーバックス 新しい高校地学の教科書 | 東海大学海洋科学博物館 | 学研社:グランド現代百科事典 | 小学館:大日本百科事典 | Lyman & Flemingの人工海水 | ||
g/?海水 | g/kg海水 | g/kg海水 | ‰ | ‰ | g/kg海水 | g/?海水 | g/kg海水 | g/kg海水 | g/kg海水 | ||
塩化ナトリウム | NaCl | 25.8120 | 27.2 | 27.21 | 27.213 | 27.213 | 24.447 | 23.45 | 23.476 | 23.476 | 23.477 |
塩化マグネシウム | MgCl2 | 3.4462 | 3.8 | 3.81 | 3.807 | 3.807 | 4.981 | 4.98 | 4.981 | 4.981 | 4.981 |
硫酸マグネシウム | MgSO4 | 2.0826 | 1.7 | 1.66 | 1.658 | 1.658 | |||||
硫酸カルシウム | CaSO4 | 1.3196 | 1.3 | 1.26 | 1.260 | 1.260 | |||||
塩化カリウム | KCl | 0.7121 | 0.664 | 0.66 | 0.644 | 0.644 | 0.664 | ||||
炭酸カルシウム | CaCO3 | 0.1143 | 0.12 | 0.123 | 0.123 | ||||||
臭化マグネシウム | MgBr2 | 0.1028 | 0.08 | 0.076 | 0.076 | ||||||
硫酸ナトリウム | Na2SO4 | 3.917 | 3.92 | 3.917 | 3.917 | 3.917 | |||||
硫酸カリウム | K2SO4 | 0.9 | 0.86 | 0.863 | 0.863 | ||||||
塩化カルシウム | CaCl2 | 1.102 | 1.10 | 1.102 | 1.102 | 1.102 | |||||
炭酸水素ナトリウム | NaHCO3 | 0.192 | 0.192 | 0.192 | 0.192 | ||||||
臭化カリウム | KBr | 0.096 | 0.096 | 0.096 | 0.096 | ||||||
その他 | 0.053 | 0.053 | |||||||||
塩類合計 | 33.5896 | 34.9 | 35.00 | 33.74 | 35.00 | 35.452 | 34.11 | 34.481 | 34.481 | 34.482 | |
NaCl/総塩類量 | 0.7685 | 0.7794 | 0.7774 | 0.807 | 0.807 | 0.6896 | 0.6875 | 0.6808 | 0.6808 | 0.6808 | |
備考 | 40℃濃縮 | 1884年Dittmarによる分析値 | 塩素量19 ‰のとき | 塩素量19 ‰のとき | 塩素量19 ‰のとき | ||||||
平凡社:世界大百科事典ではイオンで表示、TBSブリタニカ:ブリタニカ国際大百科事典では元素で表示 |
この間違いについて博物館員に指摘したが、残念ながら1年以上も修正されないままであった。今では修正されているが、海水から塩を採ってみようとの解説書はない。
昨年、インターネットで苦汁のことを検索していたら、あるホームページに表1(三省堂化学Ⅰ)に示す表が目に止まった。ホームページの管理者に海水中には硫酸カリウムはない。すなわち、海水を濃縮しても硫酸カリウムは析出してこないことを解説したメールを送った。解説を理解した旨のメールがあり、その表の出所は三省堂の高校教科書化学ⅠAであることを教えてくれた。
高校の教科書で間違って教えられていることに驚き、教科書や参考書を調べてみた。その結果、講談社のブルーバックスで「新しい高校地学の教科書」や表1にはないが数研出版の「チャート式新地学」では%表示されており、その中に掲載されている内容は表1に示すように東海大学で間違って表示されていた表と同じであることを知って再び驚いた。
なぜこのように間違って教えられているかに興味を持ち、各種百科事典を調べてみて唖然とした。百科事典の記述には3通りあることが分かった。イオンや元素で表示されている場合、これは間違いではない。
しかし、塩類結合で表示されている場合には2通りあり、一つとして製塩技術者が参考にする海水利用ハンドブックの数値は出ていなかった。
海水濃縮で析出してくる塩類を確認
塩類の析出はその溶解度の小さい物から順に析出してくる。海水濃縮に伴う塩類の溶解度は図1、図2、図3に示すように温度、塩化物イオン濃度によって変化する。したがって、温度を変えて濃縮実験を行い塩類析出の実態を知る必要がある。例えば、40℃で濃縮した場合には図4に示すようになる。
歴史的に海水を最初に濃縮して分析したのはラボアジェで1772年のことであった。その時の析出塩類の順序は炭酸カルシウム、硫酸カルシウム、塩化ナトリウム、硫酸ナトリウム、硫酸マグネシウム、塩化カルシウム、塩化マグネシウムであった。この結果はかなり正確で、100℃で濃縮し、20℃に冷やして析出してくる塩類を調べると、硫酸マグネシウムの次に塩化カリウムが析出し、塩化カルシウムは析出しないので間違い。この温度条件では硫酸ナトリウムはわずかに析出してくる。230年以上も前のことであるので、分析で塩化カルシウムの同定を塩化カリウムと間違えたのかも知れない。
その後1884年にディットマーがチャレンジャー号で世界中の海と深度を変えて集めた77点の試料を分析し、表1に示す結果を発表した。塩類の析出順序が示されていないが、この結果では塩化カリウムがなくて硫酸カリウムがある。化合物の同定を間違えたのであろうか?全塩類中の塩化ナトリウムの割合を製塩では純塩率というが、その値は78%であり正しい値に近い。
「理論考察」だけで誤った記載の百科事典
この結果を採用しているのが、三省堂の教科書であり、旺文社、共立出版の事典も採用している。海水濃縮で析出してくる実際の塩類とは少し違っています、という程度。
ところが東海大学の展示表示と同じ数値を掲載しているのは学研社や小学館の事典である。このデータでは硫酸カルシウムと硫酸マグネシウムがなく、その代わりに硫酸ナトリウムと塩化カルシウムが多くある。純塩率も68%になっている。これはあまりにも大きな間違いである。これらの数値が何に基づいているのか、今のところ筆者には分からない。知っておれば教えてほしい。東海大学の展示では百科事典に掲載されているこのデータを用いたのであろう。
(不審に思っていたデータの出典を教えて頂いた。このデータは表の右端に赤字で書いてあるようにLyman, J.
and R.H. Fleming.1940. Composition of sea water. J. Mar. Res. 3: 134-146からの引用で、人工海水の組成を示す化合物の配合量である。溶解しにくい炭酸カルシウムや硫酸カルシウムを用いることなく、溶けやすい塩類を用いて海水組成にしようとする人工海水のレシピーである。それを天然海水の組成と間違えて引用したものと考えられる。また、出典を教えて頂いた読者から図2と3についても間違っていることが指摘され、改めて表から作図し、差し替えた。お礼を申し上げます。2010.6.4記)
もう一つ平凡社の百科事典と朝倉書店の水の事典では、実態を確認しないで理論考察だけで塩類の析出順序を述べている。もちろん大間違いで、両書とも同じ人が書いている。東京大学海洋研究所の野崎義行前教授である。平凡社の世界大百科事典(1988)で次のように述べている。「塩(えん:著者注)が飽和している状態では、その塩を構成するイオン濃度が一定であり、これを溶解度積と呼んでいる。海水の主要成分の濃度をそれらの塩類の溶解度(積)と比べたとき、海洋表層の炭酸カルシウムを除いて、ほとんどが未飽和の状態にある。そこで、水を蒸発させて海水を濃縮していくと、溶解度積に達して硫酸カルシウムCaSO4、硫酸マグネシウムMgSO4、塩化カリウムKCl、塩化ナトリウムNaClなどの塩が順に沈殿してくる。」溶解度積の小さい物質から順に析出してくることは確かである。しかし、それはほとんど水に溶けない溶解度積の小さな塩類に当てはまる現象で、ここで述べられている塩類では、硫酸カルシウムを除いて溶解度の大きい塩類には適用できない。その上、海水には多くの塩類が溶解しており、図1から3に示すように温度や塩化物イオン濃度によっても溶解度は大きく変わってくるので、実際に実験して確認する必要がある。
塩化カルシウムが析出してこない理由-おわりに代えて
表1では海水中に塩化カルシウム(CaCl2)や硫酸ナトリウム(Na2SO4)が析出するデータがある。しかし、これらの塩類は析出してこない。なぜか?海水中には表2に示すイオンがある。図4に示すようにCa2+はHCO3-とSO42-と結合して消費されてしまい、Cl-と結合するほどには残らないので、塩化カルシウムは析出してこない。一方、Na+はCl-と結合して減少し、SO42-と結合する前に、Ca2+と結合して残ったSO42-は多くあるMg2+と結合してSO42-がなくなるので、硫酸ナトリウムは析出してこない。Cl-は一番多くあり、Na+と結合しても残るのでK+やMg2+と結合することになる。
いろいろとややこしいことを書いたが、要するに、析出に伴う各イオンの物質収支を計算し、実験で確認した溶解度との関係で考えると、海水中に溶存イオンから考えられる塩類があっても、海水濃縮で析出させて得ることはできない。
表2 海水中のイオン濃度 | |
イオン | 濃度 mg/l |
Na+ | 10780 |
Mg2+ | 1280 |
Ca2+ | 412 |
K+ | 399 |
Cl- | 19350 |
SO42- | 898 |
HCO3- | 2.7 |