たばこ塩産業 塩事業版 2003.12.25

Encyclopedia[塩百科] 29

(財)ソルト・サイエンス研究財団専務理事

橋本壽夫

科学的根拠に基づいた塩の保健政策を

健康・栄養−知っておきたい基礎知識

 国民の保健政策の一つに食塩摂取量の低減、つまり減塩の勧めがある。何が何でもとりあえず1日当たり10 g以下を達成させようとする保健政策である。これに対して疑問視する意見、さらに反対論は日本ではほとんど聞かれない。食塩摂取量に対するヒトの反応は極めて多種・多様、異質性であり、減塩が総ての人に降圧効果があるわけではない。ところで日本の保健政策を進めて行く上で()国立健康・栄養研究所の役割は大きい。そこが出版しているQ&A方式の啓蒙書「健康・栄養−知っておきたい基礎知識−」という本がある。その中で塩がどのように取り上げられているかを述べ、それに対する私見を述べたい。

血圧が低下する人もいる

 『マスコミのおびただしい健康・保健記事、放送に対して、栄養士、管理栄養士、保健師、薬剤師、看護師は一般の人々にその信憑性を聞かれても、とまどうばかりで、医師も例外ではない。そのような問題に正しく答えるにはEBM(evidence-based medicine:科学的根拠に基づいた保健・医療)とかEBN (evidence-based nutrition:科学的根拠に基づいた栄養実践活動あるいは栄養マネジメント)が必要で、これには時間をかけて正しい情報を収集し整理して行かなければならない。医療の現場では、種々の治療法について、「有効」から「無効」まで明確にランク付けして整理したものが出版されるようになってきた。例えば、「ナトリウム摂取を減少させる食事アドバイスにより持続的な血圧低下が得られるか」という診察上の疑問に対して、「正常血圧であるか、高血圧であるかにかかわらず、減塩によって血圧が低下することが示されている。この効果は高齢者で顕著に現われた」、しかし、「罹患率や死亡率への効果を示すエビデンスは、現時点で報告されていない」としている。
  本書はニュートリショナル・エビデンスを集め、まとめたものである。』−以上はこの書籍の編集代
表者
(研究所理事長)のことばの中に書かれている内容の概要である。
  ここで、問題は「正常血圧であるか、高血圧であるかにかかわらず、減塩によって血圧が低下することが示されている」という表現である。これはEBNではない。EBNで表現すると「正常血圧であるか、高血圧であるかにかかわらず、減塩によって血圧が低下する人もいることが示されている。」と書かなければならない(下線部は筆者)。食塩摂取量に関するエビデンスは、減塩が総ての人の血圧を低下させるわけではなく、ごく一部の食塩感受性のある人だけの血圧を低下させるからである。これは国際的に認識されている事実である。ただ、食塩感受性を簡便に見分けられないことが問題である。

減塩の影響は人それぞれ

最近アメリカでは、前高血圧症(最高血圧が120-139 mmHg、最低血圧が80-90 mmHg)という新しい概念が導入された。これについて元アメリカ高血圧学会会長のアルダーマン博士がいろいろな質問に答えている。
  その中の質問のひとつは、「減塩に関する科学的エビデンスを研究してこられ、その結果、心臓血管疾患に利益をもたらすことはないことが分かった、としています。そうであるとすれば、どうしてガイドラインは高血圧症の人に減塩を続けるように書いてあるのですか?」で、それに対する答えとして、「国立心臓・肺・血液研究所は30年間、一生懸命減塩に取り組んできた。その方向を変えることは難しい。いくつかのことが明らかになってきた。ある人々で減塩すると、血圧は下がる。しかし、大部分の人々では、下がらない。そして僅かな人々では、減塩が実際に血圧を上昇させる。多様性があり、我々は総て違っているので、まだ完全には分かっていない。例えば、激しい労働や運動をすれば発汗し、そのような人々には多くの塩が必要である。塩を処理するにも遺伝的な差がある。食塩と血圧に関しては個別に7つの単一遺伝子がある。その内の2つには、十分な食塩を摂らなければ、食塩欠乏症になり、血圧が低下して死ぬ。他の5つでは、食塩を摂れば、血圧は上昇する。したがって、食塩摂取量が与える影響は習慣的、遺伝的、環境的な差がある多様な人々から我々は成り立っている。」と記載されてい
る。
http:www.medicalconsumers.org/pages/Prehypertension.htmlを見ると関連事項も掲載されている。

減塩で平均寿命の延長!?

 同書には「長寿食について」という項がある。そこでは次のように書かれている。−「平成14年日本人の平均寿命は男性78.32歳、女性85.23歳と、日本は世界一の長寿国となっています。背景には遺伝的要因、文化的要因とともに食習慣が大きく関与しています。これまで死亡率の高かった脳卒中は、血圧のコントロールと塩分摂取の低下、タンパク質の摂取増加により減少、また胃がんも食塩摂取低下により死亡率は低下しています。(途中省略)上述のように塩分は平均寿命に関係しているので現在の食塩摂
11.5 g/日から6 g/日まで減少すれば、さらに平均寿命の延長が期待できます。以下略」。
 これがEBMEBNに基づいて書ける内容であろうか?EBMEBNがあるとすれば明示してもらいたい。筆者が旧厚生省の食塩摂取量調査結果と患者調査の結果を組合わせて整理した結果では、少しデータが古くて恐縮であるが図1に示す通りで、塩分摂取量と脳血管疾患(この疾患の一つに脳卒中もあるが患者調査の統計では分類されていない)との間には何の関係もない。

     食塩摂取量と脳血管疾患患者との関係

 胃がんと食塩摂取量については、これもデータが少し古いが、昭和50年から63年までの14年間の胃がん死亡率と食塩摂取量との関係は図2に示す通りである。食塩摂取量の低下に伴い胃がん死亡率は低下していることが示されており、事実のように思われる。ところがこれは日本全国の平均値で示した図であり、調査ブロック別に示すと図3のようになる。昭和55年と63年のデータであるが、それぞれの年度だけで見ると、両年度( ○と●の分布状態)とも食塩摂取量と胃がん死亡率には関係がない。中には東海や近畿T地区のように食塩摂取量が多くなっているにもかかわらず、胃がん死亡率は下がっている地区がある。本書に書かれている「胃がんも食塩摂取低下により死亡率は低下しています」という事実は見られないが、あるとすれば明示してもらいたい。

      食塩摂取量と胃がん死亡率の関係

      昭和55年から8年間のブロック別胃がん、食塩摂取量の動き

 食塩摂取量と胃がんとの関係に関するコーエンとロエの膨大な動物実験、疫学調査の結果を整理した結果では、関係なしとの結論であった。
 「塩分が平均寿命に関係しているので、減塩すればさらに平均寿命の延長が期待できます。」とあることについてはどうであろうか。図4がそれを示している。

      男子の平均余命

0歳の平均余命が平均寿命である。昔は塩分摂取量の多いほど寿命が短くなる傾向が示されているが
1990年になるとむしろ逆に寿命が長くなる傾向が示されている。これは男子の場合であるが、女子の場合も同様の傾向であるが、1990年ではフラットになっている。
  最近の傾向はどうであろうか?筆者はその後のデータを整理していないが、このようなことを研究所で解析、整理して公表することも役割の一つではないかと思う。多くの統計調査値が発表されているが、統計値間の関係を解析した報告は少ない。減塩で平均寿命が延びるのか、健康寿命が延びるのか、最近のデータを用いて明らかにしてもらいたい。
  かなり高い食塩摂取量で日本は世界一の長寿国であるのはなぜか?アメリカでは食塩摂取量が少ないのに長寿国ではない。それなのにさらに全国民に減塩を勧める保健政策はおかしい、との意見がアメリカにはある。

EBMに則していない内容

 同書には海洋深層水についてもコラム欄に書かれている。その中で、「海洋深層水から製造した塩には、生体必須微量元素である鉄、マンガン、コバルト、銅、亜鉛、モリブデンが多く、また吸収されやすい形態で含まれているようです。」と伝聞風に書かれている。はたしてどうであろうか?
  塩事業センター海水総合研究所市販食塩の品質を調査し、発表している(塩事業センターのホームページ参照)中に海洋深層水で作られた塩が3点ある。そのデータには鉄、マンガン、銅、亜鉛が掲載されている。鉄については1点が0.70 mg/kgで、2点では検出されず(0.5 mg/kg以下)、マンガンについては1点が0.06 mg/kgで、2点では検出されず(0.05 mg/kg以下)、銅については1点が0.35 mg/kgで、2点では検出されず(0.2 mg/kg以下)、亜鉛については2点で0.180.23 mg/kgで、1点では検出されていない(0.1 mg/kg以下)。このように海洋深層水で作られた塩には、本書で書かれている成分は検出されないほど少ない場合が多い。一方、ホームページで発表されている他の塩製品については、これらの成分がよほど多く入っている商品はいくらでもある。つまりエビデンス(事実)に基づいて書かれていない。
 このようなことであると、同書に書かれている塩以外の内容についても信頼性がどこまであるのか疑われ、非常に困った状態になる。
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 以上、「健康・栄養‐知っておきたい基礎知識−」の中で食塩について書かれている部分を取り上げ、どれだけEBMEBNに則しているかを検証した。たまたま、食塩の部分だけであろうか、EBMEBNに則していない部分が見られた。
  同書の「編集代表者のことば」の中に「読者のコメントをいただいて、次の改訂版では、完全なニュートリショナル・エビデンス集にしたい。」とあるので、修正版の出版を期待したい。