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歴史における塩

Salt in History

By Max Distro LLC

https://traveltoeat.com/salt/ より 2016.05.04

    

                            様々な種類の塩

 

 塩は地球上で最古の日用品の1つで、古代世界で帝国を作った物の1つである。我々はロサンゼルスのスタジオ・シティをしばしば訪れて以来、我々は日曜日に同じくらい頻繁にファーマーズマーケットを訪れる。我々が何時もそこに売店を持っているヘップス・ソルトからの様々な仕上げ用塩を知らされた所であった。明らかに彼等は2011年にカリフォルニア州ベニスでロサンゼルス全体の地元のファーマーズマーケットでソルト・バーを始めた。私は前に仕上げ用塩に興味を持っており、例えば、ハワイの黒い塩で、ヘップスからのこれらの塩は本当に素晴しく、特にポプコーン用であった。我々は黒と白のトリュフ塩から始めた。それはバターのような/土くさい/トリュフの香りがし、その後、シラチャ、ハバネロ、ヒマラヤ塩に移行した。我々はポプコーンとは違う他の食品にそれを使い始め、私はそれが投稿を正当化すると考えた。

 

塩の小史

          

       自然な塩舐め場のガウア(インドの野生牛) ウィキペディア

 

 塩と言う言葉はラテン語の「サル」に由来し、それは「ソル」という言葉から来ている。我々の血液は、水、ミネラルそして塩から成る海洋と全く同じ塩辛い溶液から成る「ソレ」である。塩は記録された歴史前から長く使われてきた。事実、動物達は彼等の必要性を満足させるために塩給源への道を本能的に忘れない。初期の人類である狩猟者は動物の肉を食べることにより塩を摂っていた。彼等の食事が野菜や穀類を含むように変わったとき、彼等は塩、多分、海水からの塩が肉と同じような塩辛い味を野菜に与えることを発見した。塩摂取量は良い健康に必要であるけれども、冷蔵庫のない時代に肉、チーズ、魚を保存するために大量に使われ、飼っている牛、山羊、様々な家畜のための舐め塩用の必要性は述べられなかった。

          

                 台北のLongshan寺の屋根の鳳凰 ウィキペディア

 

          

Xie Salt Bureau Daの碑文が付いた蝶ネクタイ型の塩税銀塊「Ting3212(1209 - 1213)

                    中国 河南省博物館

 

 中国民間伝承は塩の発見を神話的な“不死の象徴”または鳳凰と信じている。中国で塩採取の証拠は8000年以上も溯る。鳳凰(威厳のある雄鶏でも)は塩のような高潔さと優雅さの象徴として非常に肯定的な意味を持っている。約4,700年前、最も初期の知られた著作の1つである中国のPng-tzao-kan-mu40種類以上の塩を記録した。それは塩の2つの抽出、製塩法述べており、今日でもまだ使われている方法に似ている。紀元前2200年に、中国皇帝Hsia Yuは塩に税金を掛けることによって最初に知られた税金の1つを賦課した。彼は数千年も続く伝統をスタートさせた。秦王朝で統一された中国最初の皇帝Shi Huangdi(紀元前259 – 210)は中国の万里の長城を建設するために塩税を課した。

        1892年エジプトの塩税スタンプ  ウィキペディア

          

1930年のサバーマンティ・アシュラムからアラビア海岸のダンディーまでガンジーの塩の行進

            ウィキペディア

 

 イギリス君主は塩税を課税し、フランス王は塩専売制を発展させ、好感を持っている少数に塩を生産する独占的な権利を与えた。1700年代後半に、高税のために塩不足のイギリスで豚や牛が死に始めたとき、国会が最終的に税金を廃止するまで怒った民衆は暴動を起こした。多くの人々は、フランス王族が実行した専売制がフランス革命に直接的に貢献したと感じている。新しい議会は塩を手頃な価格にして、1790年にフランスの塩税を廃止した。1930年に、マハトマ・ガンジーはイギリスの塩税と海塩の採取を禁じたことに抗議し、海まで200マイルの行進を行った。

           

チャドのティベスティ山地にあるEra Kohorクレターのナトロン堆積物 ウィキペディア

 

 紀元前1500年に、エジプト人は交易の手段として長さ8インチ、幅4インチ、厚さ2インチ以上の塩の棒を使った。古代エジプトで、奴隷は塩と交換され、このため“彼の塩ほどの価値がない”と言う表現があった。古代エジプト人はミイラ化の過程で乾燥した湖床で発見されたナトロンと呼ばれる塩混合物を使った。油と混ぜた物は初期の石鹸であった。それは水を軟化しながら油やグリースを除いた。ナトロンは自然に存在する4つの塩類から成る:炭酸ナトリウム10水塩(ソーダ灰の一種)、少量の塩化ナトリウムと一緒の重炭酸ナトリウム(ベーキング・ソーダとも呼ばれる)、そして硫酸ナトリウムである。

            

北エチオピアのメケレ市の大きな市場の店で販売するために塩の棒を作っている男達

 

 塩は色々な時代と場所でお金として使われ、塩に対する要求は苦しい戦争の原因であった。多くの文化で、訪問者にパンと塩を与えることは、おもてなしの伝統的な挨拶であった。比較的最近まで、塩棒はエチオピアの標準的な通貨であり、価値を示す刻印のある塩塊はチベットやボルネオのような遠く離れた諸国でお金として使われた。交換に使われた塩棒またはアモクは需給の基本的な論理によって管理された。2アモクで妻を買え、5個の塩棒で馬を買えた。今では、塩はラクダの荷物当たり約9ドルを取られている。

            

ギセッペ・バシ(1710 – 1782)によるビア・サラリアのポンテ・サレロ。Rome Art Loverから

 

 ローマも2,000年以上前に塩を評価しており、塩生産地の海岸の町オスティアからローマまでをむすぶ150マイルのビア・サラリア(塩の道)を運んだ塩荷車を守る兵士の常備軍を持っていた。ビア・サラリアはその名前をラテン語の“塩”に由来しており、したがって、サビニ人がテベレ川の河口にある湿地から塩を運んできた道であった。ローマ兵士は彼等の給与の一部として塩を受け取った。“サラリウム”と呼ばれるサラリーという言葉はこのお金からきている。塩は食品に味付け、保存するために使われただけでなく、良い防腐剤でもあり、それが、これらの塩結晶についてのローマ言葉が健康の女神、サルスの最初のいとこである理由である。

 

塩の種類

       

                                           様々な塩

 

 塩生産には2つの基本的な方法がある。塩鉱山からと海水(海塩)または浅い池のミネラル豊富な泉水の蒸発による物である。不幸にも、ほとんどの食卓塩は精製されて、微量ミネラルは除かれ、ほとんど純粋な塩化ナトリウムになっている。精製された塩の主要な工業製品はカ性ソーダと塩素で、それらは多くの工業工程や塩化ビニル、プラスチック、紙パルプ、純粋な塩原料を要求する他の多くの製品の製造に使われる。ヨードやしばしばフッ化物や鉄が“強化”塩に加えられる。私は悲しいと思う。原料塩はしばしば(必ずしも常ではないが)食べるには完全に安全で、健康的であるだけでなく異なった風味を加え、しばしば塩に色付けさえできるからである。

            

       粗いコッシャー・ソルト1匙は食卓塩()1/2匙に等しい

 

 非精製のそしてまたは特別な塩はしばしば仕上げ用塩と呼ばれ、盛り合わせ中に加えられ、実際の調理では使われない。これについては議論があるが、調理中に食品と一緒に混合したとき、多分、ミネラルの微妙な風味は失われ、良い海塩でも十分なヨードを持っていない。私は個人的には、ほとんどのシェフがするように、調理のために粗いコッシャーの精製塩を使う。シェフが好んでコッシャー塩を使う最大の理由は、指の間で容易につまみ上げられ、きっちりと味付け出来るからである。コッシャー塩で均一に容易に味付けできることもできる。コッシャー塩はフレーク塩であるので、コンパクトな食卓塩の約2倍の体積を占める。したがって、コッシャー塩1匙は食卓塩の1/2匙に匹敵する。

            

        手作業で収穫された海塩のフルール・ド・セル(塩の花)

 

 最も有名な非精製塩の1つは手作業で収穫された海塩のフルール・ド・セルである。フルール・ド・セルは、塩が大規模な塩田の底に沈む前に塩の表層だけを掻き取る作業者によって手作業で収穫される。伝統的なフランスのフルール・ド・セルはブリタニー海岸で集められ、ほとんどは特にゲランドの町(ゲランドのフルール・ド・セルと呼ばれる)からであるが、ノワームティエ、イルドレ、カマルグでも採取される。古代から海塩は南ギリシャの岩場から収穫されてきた。マヤ族は1,500年前から海塩を収穫しており、交易路を通して中央アメリカ中に供給しており、ガテマラ、中央アメリカ、カリブ諸島まで広がっていた。

           

         アフリカのアッサル湖からの塩パール(球状塩)

 

 アフリカのアッサル湖の極端に暑く他の条件は“塩パール”を作る。それは水辺で転がされるにつれて自然に滑らかで丸い様々に異なった大きさで出来る塩である。塩パールは小さな玉からゴルフボールまで球状の塩である。風味は純粋でまろやかで苦味はない。この100%自然塩は様々な有益な痕跡ミネラルを持った98.5 - 99.5%純粋な塩化ナトリウムである。塩はLac Assal(塩湖)から出来、アフリカで一番低い土地で海面下155 mであり、地球上で三番目に低い凹地である。そこは南極大陸のドンジュアン湖に次ぐ世界で二番目に濃い塩湖で、死海よりも塩辛い。その独特の形状のために、塩パールは集められ、エチオピア近くで数千年間取引されてきた。

           

  マイレからの黒い塩()とジャコブセン(アレア)からの赤い塩ハワイアン海塩

 

 ハワイアン海塩と言う言葉は塩のスタイルと塩が作られる土地の両方を述べている。伝統的にハワイアン海塩は赤いが、それでも今日では白くなっており、黒い塩も発見されている。ハワイアン・レッド・ソルトは白い海塩と鉄の豊富な天然のハワイアン火山性粘土であるアラエア・クレイと混ぜて作られ、その美しさと健康利益、精神的な特性のために歴史的に尊ばれてきた。ハワイの黒い塩はしばしば“火山性”塩と呼ばれる。その名前はその事実の正確さよりもむしろそのロマンチックな魅力のために素敵である。事実、黒いハワイアン・ソルトは活性炭と海塩の組み合わせで作られ、印象的な色と解毒特性を達成している。

             

              パキスタンのケワ鉱山からの塩塊

             

  パキスタンのケワ鉱山からの塩塊  写真ナチュラル・ソルト・ヒーリング

             

          ヒマラヤン・ソルト・ブロック

           

        パキスタンのケワ鉱山からのヒマラヤン・ソルト

 

 ヒマラヤン・ソルトはパキスタンの一番知られた岩塩である。それは調理用に使われ、浴用塩、かん水、多くの工業で原料として使われる。塩を掘り出しているケワ鉱山も有名な観光地である。ケワ鉱山からの塩は花瓶、ショット・グラス、お皿、最近魚の調理で非常に有名になった調理用の平板のような装飾品としても使われている。ケワ岩塩は、アレクサンダー大王がインド従軍中にその地域を通った時に発見された。しかし、鉱山の発見はアレクサンダーでも彼の同盟者でもなく、彼の軍隊の馬が石を舐めていることを発見した時であった。

ポプコーンとヘップスの白いトリュフ塩

 

 調味料/色素と混ぜた多くの塩の事例や、もちろん、有用な対立するハーブやフレーバーと塩の混合物がある。事例にはセロリーソルト、ガーリックソルト、レモンソルト、ラベンダーソルトがあり、もちろん、私のポプコーン・ソルト、白黒トリュフ塩がある。私はポプコーン用のこの特別な塩が好きである。それは微粒で、塩味と強いバター味の両方を加えられ、カロリーがないからである。野菜に振り掛けるにも同様に素晴しい。最後に、私はシラチャ塩とハバネラ塩も好きである。

様々な種類の塩の集まり

 

 計画したより少し長くなったが、この主題についてもっともっと言うことが沢山あると言えます。塩の歴史は文明の歴史と密接に関係している。古代の塩の道は、シルクや香辛料の道よりもはるかに古い。これは長い紹介と考えて下さい。将来、多分、塩ベースのレシピの幾つかを書きます。何時ものように、コメントを下さい。