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塩行進

Salt March

By History.com Editors

https://www. history.com/ より  updated:2020.01.16

 

 インドで19303月から4月に行われた塩行進はインドのイギリス法律に異議を申し立てたモハンダス・ガンジーによって指導された市民不服従の行動であった。行進中に数千人のインド人がアーメダバード近くの彼の宗教的な隠れ家からアラビア海岸まで約240マイル距離をガンジーに従った。行進の結果、ガンジー自身を含めてほぼ60,000人が逮捕された。最終的にインドは1947年に独立を果たした。

 

塩税

 1882年のイギリス塩法は食事の主成分である塩を集め販売することをインド人に禁じた。インド市民は、重い塩税を課すと共に塩の製造と販売に専売制を行使する事に加え、イギリスの統治者から必須ミネラルを購入するように強制された。インドの貧しい人々は税金に最も苦しんでいたが、全てのインド人は塩を必要とした。

 

モハンダス・ガンジーとサチャグラハ(無抵抗主義)

 モハンダス・ガンジーが南アフリカに住んでいるインド人の市民権の手間に戦った南アフリカに20年間生活した後で、ガンジーは1915年に母国に帰り、まもなく大イギリスからインド独立のために働き始めた。塩法を無視することは、多くのインド人がイギリスの法律を非暴力主義的に破る巧妙で唯一の方法であろうとガンジーは推論した。ガンジーは“無抵抗主義”または大衆市民の新しい運動の統一テーマになるイギリスの塩政策に対して抵抗を宣言した。

 

塩行進の開始

 先ずガンジーは、彼と他の人々は10日以内に塩法を破り始めることを総督のアーウィン卿に知らせる手紙を193032日に送った。その後、1930312日にガンジーはアーメダバード近くのサバーマンティの彼の住まい、あるいは宗教上の居住地から数十人の追従者と一緒にアラビア海ダンディーの海岸町まで約240マイルの旅を計画した。そこでガンジーと彼の支持者達は海水から塩を作ることによってイギリスの政策を無視した。途中でガンジーは大群衆に演説し、日に日にますます多くの人々が塩無抵抗主義に参加した。

 45日に彼等がダンディーに着くまでに、ガンジーは数万人の群衆のトップになった。彼は話し、祈りをし、翌日早朝に塩を作るために海に歩いて降りた。彼は浜辺で塩田作業することを計画し、満潮毎に結晶化された海塩で覆われたが、警察は塩の析出物を泥の中に砕き入れることにより彼の邪魔をした。それにもかかわらず、ガンジーは浜に降りて泥の中から自然の塩の小さな塊を拾い上げた-そしてイギリスの法律は無視された。ダンディーでは、ボンベイ(今ではムンバイと呼ばれる)やカラチの沿岸都市で何千人もが彼の指導に従い、インドの民族主義者達は製塩する市民の群れとなった。

 

ガンジーの逮捕

 やがて数百万人のインド人を含めて市民の反抗はインド中で起こり、イギリス当局は60,000人以上を逮捕した。ガンジー自身は55日に逮捕されたが、彼がいなくても無抵抗主義は続いた。521日に詩人のサロジニ・ナイドはボンベイの約150マイル北にあるダラサナ塩田に2,500人の行進者を率いた。数百人のイギリス主導のインド人警官は彼等に会い、平和的なデモ隊をひどく殴った。アメリカ人のジャーナリストであるウェッブ・ミラーによって記録された事件はインドのイギリス政策に対する国際的な抗議を巻き起こした。

 

塩行進の結果

 19311月にガンジーは刑務所から釈放された。その後、彼はインド総督のアーウィン卿に会い、インドの将来に関してロンドン会議で平等な交渉任務と引き換えに無抵抗主義を中止することに合意した。その年の8月に、ガンジーは国家主義者インド国民会議唯一の代表者として会議に行った。会議は期待外れであったが、イギリスのリーダー達は抑制や無視できない力としてガンジーを認識した。

 インドは19478月に独立を勝ち取った。78歳のガンジーは6ヶ月後の1948130日にヒンズー教過激派によって暗殺された。