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塩の歴史

The Story of Salt

By Mohinder Singh

https://www.mkgandhi.org/ より  

Source: Gandhi Marg, October-December 2002, Vol. 24, No. 3

 

 ドイツの学者M.J.シュライデンは彼の本「塩」で塩税と塩鉱山との間に直接的な関係があることを主張した。アテネとローマは塩に税金を掛けなかったが、中国やメキシコは塩に税金を掛ける専制政治であった。塩税の判断基準を使って、インドのイギリス統治は明らかに専制的であった。

 塩税は中国で始まった。中国の塩行政に関する最古の書面Guanziは紀元前約300年に書かれた。その主な課題は、国家が塩を輸入し、それを売って利益を得られるように塩の購入価格よりも高く塩の価格を定めることであった。主張されているように、人々は塩がなくては動けないので、やむを得ず高額を喜んで支払うだろう。やがてGuanziの提案は中国皇帝に受け入れられた政策となった。それは生命維持に必要な日用品の国家管理専売制の歴史で最初の事例である。塩の歳入は軍事費に使われるだけでなく、万里の長城を含む防衛費に使われた。かつて国家歳入の半分以上が塩から得られた。そしてそれに対する恨みの一般的な恣意行為は鉄の手で扱われた。

 ローマにとって塩は帝国建設の必須部分であった。彼等は拡張された領土中で製塩場を開発した。偉大なローマへの道の最初である塩の道サラリア街道は塩を運ぶために建設された。ローマ軍は兵士と馬のために塩を必要とした。しばしば兵士は塩で支払われ、それはサラリーと“彼の塩の価値”という表現の言葉の始まりであった。事実、ラテン語のサルはフランス語の支払いを意味するソルデになり、それは兵士(ソルジャー)という言葉の始まりである。

 ローマ政権は中国が行ったように塩の専売制を維持しなかった。しかし、必要と思ったとき、塩価格を管理することに躊躇しなかった。平民が容易に塩を得られることを保証するために、定期的に塩の価格に助成した。帝国の最後の段階でだけ、ローマ人は戦費を調達するために塩の価格を操作した。それでもローマ市では低価格が維持された。

 18世紀後半にイギリスが人為的な貿易障壁を作る前に、インドは手頃で直ぐに入手できる塩を持っていた。インド海岸と巨大な岩塩鉱や塩湖の両方で自然な塩田を持っていたインドは製塩と貿易に古代の伝統があった。グジャラートの西海岸で、Rann of Kutchとして知られている9,000平方マイルの沼沢地で少なくとも5,000年間塩が作られてきた。沼沢地は海水で覆われ、雨期には河川も氾濫する。冬までに海水は蒸発し始め、塩結晶を残す。インド人は常に岩塩よりも天日蒸発海塩を好む;後者の純度はしばしば疑わしいと見做される。

 東海岸のオリッサは完全な自然海水帯で、主要な塩生産地域を構成している。カラリスと呼ばれる塩田は春の満潮時に満たされ、海水が蒸発するにつれて塩を土壌にしみ込ませる-そのことから出来たその塩はカルタッハとして知られている。第二の塩パンガは、海水に塩辛い土壌を混合し、それを煮沸することによりマランジスと呼ばれる塩労働者によって生産された。この塩はその白さで有名で、インドで一番の塩であると多くの人々により考えられていた。パンガ塩はベンガル付近に活発な市場があった。ベンガルのイギリス人でさえオリッサ塩を取引した。彼等は戦争のための加薬製造用に大量の塩を必要とした。

 インドのほとんどで古代からささやかな塩税の歴史を持っていた。これらはかなり軽い課税で、消費者の犠牲に対して塩の価格を上げなかったし、伝統的な塩の交易を混乱させなかった。イギリスはそのような軽い課税をしないで、彼等の塩への介入は明らかに不器用で搾取的であった。

 18世紀後半に、チェッシャーは塩生産量を増加させ、果敢に海外市場を獲得した。帝国はこれらの市場を提供すると期待されていた。しかし、チェッシャーの塩はオリッサ塩の価格と品質で競争にならなかった。全てのオリッサ塩の買い上げるイギリスの提案が抵抗に遭ったとき、彼等はベンガルのオリッサ塩を絶対的に禁じた。ベンガルとオリッサとの境界が蜜に茂ったジャングルでパトロールするには難しかったので、禁止は大規模な密輸を引き起こした。安いオリッサ塩がベンガルに溢れたので、チェッシャー塩はそれでも競争できなかった。1803年に、禁制品との戦いの名の下に、イギリスはオリッサを支配し、そこをベンガルに併合した。

 1804111日に、開発によりオリッサ塩はイギリス専売となった。塩の私的な販売は完全に禁止された。塩を所有していた人々は固定価格で直ちに政府の塩部門に販売しなければならなかった。10年以内に、政府以外の人が製造した塩は違法となった。塩部門は将来の塩生産に対して資金をマランギスに進めるだろう。マランギスはますます負債を深め、結局、当局に負債返済のために働かされた-塩部門に対する事実上の奴隷であった。塩生産から稼ぐために使ったオリッサのザミンダール達はマランギスに協力しないように駆り立てた。マランギスは不法に自分達の塩を作り始め、数百人が逮捕された。彼等は蜂起さえしたが、失敗した。それでも秘密の塩生産は続いた。

 イギリスに帰ると、インドがイギリスの塩政策に怒っていることは良く知られていた。しかし、東インド会社はそのやり方を管理した。19世紀初期に、塩税でもっと利益を上げ密輸を禁止するために、東インド会社はベンガル中に通関チェックポイントを設置した。G.H. スミスは社長として20年間の在任中に、ベンガル周辺の「税関」にシステムを拡大した。この税関を通過するために塩は税金を払わなければならなかった。1840年代までに、会社は、密輸塩が入ってくるのを防ぐためにベンガルの西海岸に高さ14フィート厚さ12フィートのサンザシの生け垣を建設した。後の1857年後に、ヒマラヤからオリッサまでインドを貫く曲がりくねった約2,500マイルに税関が置かれた。生け垣はトゲのある梨やアカシアの先端のとがったこぶのある物に拡大された。

 オリッサの人々は塩に関連した如何なる活動も禁止された。平らな表面から塩を擦り落とすことさえも厳しく罰せられる犯罪であった。多くのマランギスは飢えに苦しみ、仕事を求めて国の他の所に移動した。塩政策に異議を申し立てるためにインドで最初の公開会議が18882月にカタックで行われた。貧乏になったインド人はイギリス人の負担よりも数倍もの税金を課されたことが指摘された。塩税は「アンジャスト」と呼ばれた。課税された塩は全て海外から輸入されたからである。

 1923年に、政府は予算をバランスさせるために塩税を2倍にすることを提案した。立法議会は提案を支持することを拒否した。しかし、総督領主リーディングからの布告によって法律になった。1972年に塩税を課すという立法議会の別の提案は拒否された。1929年に、オリッサからの立法議会員であるパンディット・ニラカンサ・ダスはオリッサの製塩復活と塩税の廃止を要求した。塩税は貧しい人々がかつて作った州への唯一の貢献であったと政府は主張した。塩税はインドで深刻な圧制を引き起こし人々の不満を誘発しているとイギリス議会でも声が上がった。塩税からの歳入は不安がもたらした脅威の価値がないと他の人々は示唆した。

 1903年に、オリッサは塩の問題でオープンな反乱の近くにあるように見えた。そして今日の一般的な信念に反しているので、非常に独創的な男、マハトマ・ガンジーによって考えがひらめいたとき、塩に焦点を当てた反乱は完全に独創的な考えではなかった。オリッサは統治者の塩政策について最も苦悩に満ちた地域であった。しかし、ガンジーは塩抗議のために西海岸を選んだ。グジャラートの塩生産者に一番近いと感じたと彼は言った。塩は幾つかの地域で扮装していた問題であり、オリッサでは非常に不満が鬱積した反抗があったが、当時は国も問題ではなかった。ガンジーの仲間のほとんどはそれをほとんど認識していなかった。議会の多くは塩に関する独立運動に焦点を置いた彼の考えによって困惑させられた。しかし、塩は全てのインド人の生活に影響を与えたイギリスの悪政の一例である、とガンジーは主張した。ガンジー自身を除いて全ての人々が塩を食べた、と彼は言った。彼は何年も前に塩を食べることを止めていた-南アフリカ刑務所で非ヨーロッパ囚人として彼は塩のない食事を食べなければならなかったからであった。

 193032日にガンジーは総督アーウィン卿に書いた:“あなたがこれらの悪法に対処する方法を見られず、私の手紙が貴方の心に訴えない場合、今月の12日に、私は塩の法律の規定を無視するために、私が取ることが出来るアシュラムのような協力者と一緒に行進する。”

 総督は法律を破るガンジーの決定に遺憾を表した。1930312日にダンディー海岸まで240マイルを歩くために78人の選ばれた随行者と一緒にアシュラムを出発した。ダンディーで彼等は塩を掻き集めることによって法律を無視するつもりであった。彼は“繊細な騎士道の感覚”から女性の行進者を許可することを拒否した。彼の説明では:“我々は苦しみのために行きたくて、苦痛があるかもしれない。我々が女性を前に立てれば、政府は、そうでなければ彼等が与えるかもしれない全てのペナルティを我々に与えることをためらうかもしれない。”

 彼等は早朝6時半にスタートし、一日に12マイル歩いた。ある者は非常に疲れ、あるいは足があまりにも痛むと荷車を使った。馬がガンジーの近くに置かれ続けたが、彼は決して馬を使わなかった。アングロ-インディアン紙は彼を嘲笑した。政治家はドミニオンの地位が達成されるまで、無期限に彼は海水を沸騰させ続けることが出来る、と述べた。しかし、海外ニュース・メディアはその光景に魅了された;強大な帝国に対して行進している強弱で小さな男。

 秘密の代理人によって知らされたアーウィン卿は、ガンジーはまもなくくじけるだろうと確信した。ガンジーの健康は虚弱で、彼が毎日の行進を続けると、彼は死に、“問題は非常に幸運な解決となるだろう”とインド国務長官にアーウィン卿は書いた。毎日の行進の25日後の45日にガンジーはダンディーの海岸に到達した。今では彼と一緒に最初の78人の随行者だけでなく何千人も随行した。貧しい人々と同様に知識人やエリートも含まれていた。多くの女性も都市から豊富な塩を公平にまき散らしながらそこにいた。ガンジーはアラビア海で洗われている海岸で毎晩の祈りを行った。翌日の夜明けに浜辺に近寄って、そこで塩の地殻を壊した。彼はかがんで地殻の塊を拾った。

 そのようにしてガンジーはイギリスの塩法律を破った。