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独立戦争勝利を助けた塩

How Salt Helped Win the Civil War

南部製塩場が一番の軍事目的となった。

By Anne Ewbank

https://www.atlasobscura.comより  2018.09.28

 

The <em>Kingfisher's</em> attack on the St. Joseph salt works.

     キングフィッシャ-のセント・ジョセフ製塩場攻撃

 

ルイジアナ州のアベリー・アイランドは1868年以来そこで作られているタバスコの辛いソースの先祖伝来の生産地である。しかし、アベリー・アイランドは全く島ではない。湿地に囲まれており巨大なソルト・ドームがある。独立戦争までその塩は比較的平静であったが、その時、塩は突然に貴重な日用品となった。

 今では塩は容易に得られるが、冷凍ができるようになる前は、塩は食品保存や皮保存に必需品で、最低量の塩が健康的な食事に必要であるとは言われていなかった。塩は南部の兵士や市民に給食する鍵であることを連邦軍は戦争初期に気付いていた。南部地方の人々が自分達の製塩場を作ると直ぐに、連邦軍は攻撃目標とした。

 1800年代に、ほとんどのアメリカの塩生産は北部で起こった。数百万年前に、ニューヨーク州シラキュースに近い内海は次第に沈殿物で一杯になり、後に巨大な塩鉱床とかん水泉を残した。1862年だけで、オノンダガ製塩場はこれらの塩鉱床から9百万ブッシェルの塩を生産した。労働者達は塩泉からかん水を汲上げ、煮詰めるか天日で蒸発させた。(今日でも、セントラルニューヨークの特産品は濃い塩水でゆでたジャガイモで、製塩労働者達がかん水で昼食を調理したときの名残である。) 他方、南部は輸入塩に頼っており、外国船が南部の綿花のために来たとき、バラストとして多くの塩が使われた。

 

The once-famed salt sheds of Syracuse.

   かつて有名であったシラキュースの天日製塩場

 

 独立戦争は18614月に始まり、直ちに北軍は儲かる綿花の輸出を止めるために南軍を封鎖した。学者達はその究極の有効性を論争しているが、封鎖でほとんど直ちにコーヒーや小麦粉のような主要産物が枯渇した。封鎖されても幾分かの輸入塩は入り続けたが、決して十分ではなく、分配することが難しいのは言うまでもなかった。南軍のプラム・ケーキのレシピ-でも、小麦粉の代わりにコーンミールを、砂糖の代わりにソルガムを、バターの代わりにラードを使ったが、塩代替物を見つけることは難しかった。歴史家アンドリューF.スミスによると、必死の南軍は塩漬け肉から塩をこすり落とし、あるいは燻製場の床板から塩を煮出すことによって塩を再使用した。

 肉を保存することは最大の問題であった。塩漬けビーフとポークは兵士や市民にも同様に必需食用品であった。養豚の南では、情況は直ちに悲惨になった。南軍の兵站総監ルシアスB.ノースラップは欠乏に悩まされ、1862年に他の役人に次のように書いた、“住民の間で塩の不十分な量と悪い品質の結果として、多くの肉が腐っている。”投機と出荷の困難が問題を悪化させた。戦争の始めに、ニューオルリンズで200ポンドの塩袋は50セントであった。1862年までに価格は25ドルになった。

 間もなく、南部諸州は塩を発見し収穫した人々に報酬を提供した。南北戦争中にアベリー・アイランドは南部の中で多くの新興製塩場の1つとなった。塩は非常に重要であったので、岩塩鉱山や塩泉で働いている多くの労働者達は軍務から外された。しかし、ある労働者達は選択できなかった。男女とも多くの奴隷にされた人々は製塩場で強制労働させられた。

 

    A "Georgia salt works," before being destroyed.

              破壊される前のジョージア製塩場

 

 北軍のリーダー達は、南部が製塩し続ければ戦争に勝てることを早くに気付いた。“製塩場を破壊するには何をすれば良いか?”戦後20年経って、アメリカ合衆国海軍大将のディクソン。ポーターは修辞的に尋ねた。“塩は南軍の命であった…塩がなければ運べなかった。3日間の行軍で兵士達は煮た牛肉の小さな塊と6オンスのコーンミールと4オンスの塩を提供された。”やがて製塩場の急襲が当たり前のこととなった。

 一回以上、南部製塩場を破壊に導いたことは奴隷の勇気であった。彼等は製塩場の場所と防備に関する致命的な情報を与えた。フロリダ州製塩場の破壊理由の1つで、男子奴隷グループはアメリカ合衆国の船Kingfisherに逃れた。彼等はセント・ジョセフ湾の製塩場が半分完成したニュースを持ってきた。1862年のHarper’s Magazineに事件を詳細に述べている記者によると、船は“休戦の旗を送り、彼等が停戦しなければならないこと、または我々が製塩場を破壊すべきであることを彼等に丁寧に伝えた。”製塩場が休戦を拒否したとき、Kingfisherは製塩場に2発の砲弾を撃ち込み、空になった後に下船して破壊した。

 それは大きな打撃であった。南軍は破壊された製塩場かフロリダ州とジョージア州用の冬期間の塩に依存してきたと歴史家のアダム・ワッサーマンは述べている。この攻撃は多分、20,000人の南軍兵士を退役させることに相当した。その後の戦争のために、火、火薬、大ハンマーが沸騰している釜やかまどを破壊するために使われた。この破壊を助ける塩生産を強制された黒人男女の物語が沢山ある。時には、これは湿地に隠された製塩釜に北軍を導くことを意味した。その結果は南軍の施設に何百万ドルもの損害となり、塩価格は高騰し、南軍のリーダー達は“塩飢饉”と呼んだ。

 

The "solar method" of evaporating salt brine, practiced in Syracuse, New York.

       ニューヨーク州シラキュースで行われていたかん水を蒸発させる“天日法”

 

 これらの製塩場破壊の効果は両側で明らかであった。1863年にジョセフ製塩場ダリエンの急襲物語を詳しく述べた1人の船員が次のように書いた、“塩は南軍の希少な記事であり、多くの製塩場が破壊されるほど、我々は出来るだけ早く平和になりたく、南軍はベーコン無しでは生きられず、ベーコンを作るには塩を使わなければならなかったからである。”1人の日誌係の著者ジョン・ビーチャム・ジョンズは1862年に不平を書いた、“大統領ジェファーソン・デイビスは遠くの政治家の目には良い国政者であるかもしれないが、彼は国のためには良い製塩者でないように思える。”アベリー・アイランドについては1863年までそのこ防衛者達は攻撃を上手くかわした。その時、ナサニエルP. バンクスと彼の部下は製塩場を倒壊し尽くした。

 北軍の戦略はヴァージニア州の上手く名付けられているソルトヴィルを反復攻撃し、186412月に最終的に攻め落された。歴史家リック・ベアードの言葉では、それは“南部のほとんどの製塩”の終焉であった。塩や他の供給物のこの欠乏は独立戦争で南軍敗北の主要因であった。

 北軍がアベリー・アイランドの製塩場を破壊した後、前の経営者で一時的に銀行家であったエドモンド・マキルヘニーは破産した。北軍から逃亡後数年してアベリー・アイランドに、彼は庭の周りをうろうろする以外に何もすることがなかった。その庭に彼は幾つかの興味深い唐辛子を育てた。2,3年も経つと、マキルヘニーはジャガイモ擂り潰し機を使い、古い南軍の補給基地をタルト-もちろんアベリー・アイランドの塩で味付けしたピリッと辛いタバスコ製造工場に変えた。