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人類史から見た塩の利用

Salt’s Uses across Human History

By John Warren

http://www.saltworkconsultants.com/blog/salts-use-across-human-historyより

2015.05.13

 

 19世紀に冷凍技術が現れるまで、塩の主な用途は保存剤と多くの食材の調味料であった。今日でも、ほとんどの人々は食品に塩を振りかける調味料として塩を考えており、あるいは寒い所では道路の融氷雪剤としても考えている。事実、近代的な塩の用途ではこれらは少なくなっており、塩の主な用途は化学工業の原料であり、この話題は後に考察する。本論文は化学時代が来る前の人類に対する塩の重要性に焦点を置く。

 塩化ナトリウム(ハライト)、最も一般的な工業的に蒸発させた塩は実質的に世界中のあらゆる人々によって何らかの形で使われている。人体には約110 gの塩(訳者注:これはナトリウムで塩にすると280gが正しいと思われる)が含まれている。塩は全ての生物、多くの植物に対してさえも必須である。人体はそれを作り出せないので、塩は“必須”栄養素であり、電解質として我々は汗をかくときは何時も塩を失っている。十分な塩がなければ、筋肉は収縮できず、血液は循環せず、食物は消化されず、結局、心臓は止まる。

 他の塩類に加えてハライトは人間に関する諸事で人々に重要な役割を長い間果たしてきた。初期の原人は塩湖オルドヴァイのほとりに住んでおり、塩は食事の一部であった。古代ギリシアでは、しおは非常に貴重であったので、奴隷売買で塩と奴隷を交換し、“交換した塩程の値打ちもない”と言う表現が生まれた。約4,700年前、Peng-Tzao-Kan-Muが中国で出版された。それは多分、40種類以上の塩類の緩和し治療する力を詳しく考察した薬理学に関する一番古いと知られている論文である。それにはかん水から有用な塩類を回収する2つの方法が記載されている。ハライトの用途は14,000以上あると報告されており、聖書には塩に対して30ヶ所の記述がある。約3,200年前、オーストリアのハルシュタット近くで青銅器時代の鉱夫が地表下300 mの深さで数キロメーターの坑道回路から塩を採掘していた。2,700年後に、数十ページの書籍はゲオルギアス・アグリコラによる“デ・レ・メタリカ”で塩を扱っており、塩の採掘と海水またはかん水泉から塩を生産することが書かれた。1556に出版されたアグリコラの書籍は現場の研究と観察に基づく採鉱に関する最初の本であった。

 

保存剤としての塩

 歴史的に食物が狩猟されるか、収集されるか、栽培されるか、収穫されるかどうか、社会の全てのメンバーに対して食物供給が年中、得られることは稀であった。しかし、効果的に年中、信頼できる食品貯蔵は極めて重要で、特に非遊動民の農業社会ではそうであった。今日、絶えず増加していく都会の人口に信頼できる食品供給を維持するために、我々は食品を冷凍し、冷凍乾燥し、缶詰にする。食品保存問題は世界の戦争地帯を除いて先進諸国のほとんどの消費者に対して取るに足らないことのように思える。しかし、19世紀前には効果的な食品保存は世界人口の大多数に対する生死間の差を作っていた。

 乾燥気候では食物は乾燥によって効果的に蓄えられる。しかし、もっと湿度の高い温和な気候では、カビや細菌が貯えられ、地下に貯蔵された食品を急速に破壊する。冬に氷の中で貯蔵された食品でも、春が雪解けが来ると、たちまち腐ってしまう。北ヨーロッパの記録は問題の厳しさとその解決法について手掛かりを与えている。輸送システムが比較的悪かった中世社会では、村や郡は食品自給をしなければならなかった。凶作になれば、次の収穫期まで乗り切り潜在的な災害を和らげるために十分な食物を貯蔵しなければならなかった。中世ヨーロッパは、農業社会は食品の安定性を取り扱う方法の事例を提供している。良い品質の耕作できる土地は少なく、穀物栽培できるようにしなければならなかった。そのことは、主に家畜や豚のように牧草を食べ、馬草を食べる動物は草、根、ナッツを食べさせるために夏には地方の林地に放牧されたことを意味した。したがって、冬に飼葉が比較的不足していることは、寒い気候のため動物が屋内に入れられる前に余剰の動物は一番に屠殺されることを意味していた。中世イングランドでは、例年の屠殺は伝統的にMartinmas,セント・マーチィンズ・デイ(1110)付近で行われたが、寒い気候のスェーデンではもっと早かった。したがって、その時だけ新鮮な肉が容易に食べられることを意味しており、ミルクやバターにある新鮮なタンパク質は牛舎で飼われている牛から冬だけに得られた。さらに、税金はお金よりもむしろ物品でしばしば支払われたが、それは地主が貯蔵されている食物を食べさせなければならないことを意味していた。

 スェーデン人と最も北部のヨーロッパ人の対応はほとんど全ての食物を保存しておくことで、彼等はそうするために塩を使った。牛肉と豚肉は塩漬けされ、骨付き肉、ハム、ソーセージとして乾燥された。バターは塩で味付けされた。典型的には10ポンドのバターを作るには1ポンドの塩が要った(塩は十分に高価であったので、主婦は貯蔵されているバターを使う前に塩を除いた)。魚は淡水魚でも海水魚でも塩漬けにされ乾燥されたし、パンは塩を加えられ乾燥のため吊るされた。1573年からの生存記録は、スェーデンのギュスタヴス・ヴァサ王の使用人は約102 kgの牛肉と豚肉を食べたが、その内の99 kgは塩を加えられ乾燥された物であったことを示している。彼等はほとんど新鮮な肉を食べなかった。王は城で働くように雇われた男のための税金店から3年物のバターを免除する命令を出し、4年物のモルト(大麦)の販売を命じた。モルトの中にゾウムシが発生し始めたからであった。彼は毎年の屠殺後に秋にバターや肉を貯えるように農民に命じた。しかし、彼は12ヶ月間それを食べないようにとも命じた(その時期に前年の食物を食べるべきであったからである)

 塩漬け食品保存の他に、古代エジプト人はミイラ作りの技術を完成させたことで有名である。工程の鍵となる成分はナトロンであった。それはハライト、トロナ、硫酸ナトリウムの天然混合物である。それは水を直ちに吸収し、有機物の優れた乾燥剤/保存剤となるので、古代人はその保存剤となる性質を知っていた。ナトロンは幾つかのエジプトのプラヤ湖の湖底で大量に発見されている。それは採鉱され数千年間もそのような土地から運ばれてきた。ラムセス三世(紀元前1198 – 1166)治世の古からの書物はナトロンの鉱床を記載している。これらの湖で死んだ野生動物に及ぼすその効果から古代エジプト人にはその保存剤となる性質は直ちに明らかであったに違いない。今日でもファイユーム低地の一部でまだ行われているので、早くに蒸発した塩湖水の浅い湖床を分離させて古代エジプト人は人工的にナトロンを沈殿させたエビデンスがある。精製と保存のために、ナトロンは化学的に作用を及ぼしグリースや脂質を無効にするので、ナトロンは純粋なハライトよりも優れており、それ故に(ホウ酸ナトリウムのように) 優れた乾燥剤であった。その残渣は他の放棄された防腐保蔵された物質と一緒に墓や地下室だけでなくミイラ自体に団塊や残渣の形でも発見されている。

 古代エジプト人によってミイラを作るためにナトロンが使われた方法を巡って有名な論争がある。ナトロンは魚を“塩漬けする”その当時の方法と同じ様な方法で使われた、とある者は主張する。乾燥したナトロンは多分おがくずと一緒に身体の上に散布され、またはリンネル布で包まれた身体の上に撒かれた。もっと非現実的な性癖を持った他の人々は、ナトロン溶液を入れた容器に身体を浸けた、と信じている。そのような湿式法は野生で行われて、腐敗を促進させたであろう。したがって、それはハリウッドのイメージを良くするのであろうが、身体の保存には逆効果である。乾燥した身体はお守りや他の宝石をより取り付け易くすると同じ様により容易に包帯を巻ける。ミイラ作りは一般的な文化と古代信仰で超自然の衣装であるが、その基礎は簡単な化学に根付いており、魚を塩漬けにするのと同じ普通の工程である。

 日本の幾つかの仏教徒修行僧のミイラ(即身仏学派)は入定の実行からの結果で、入定は最終的に自分自身の死を引き起こし、塩で包むことによりミイラとなることを目的とした。この儀式は終了までに数年を要し、飢えと脱水を伴った。最初の三年間、苦行中の修行僧はナッツ、種子、ベリーだけを食べることによって体脂肪を故意に減らしながら運動量を増加させた。儀式の終了に向けて、修行僧は樹皮、根、しばしば石を食べるだけでさらに食物摂取量を減らした。死後の保存は、体液を除去し、分解を促進する細菌を殺す毒性のハーブやティーを食べることによってさらに促進された。日本の即身仏修行僧は漆の木から作られたお茶を飲むことで知られていた。漆の木は中国のラッカー・ツリーとしても知られており、その樹液は食卓、器具、宝石に塗るために使われる。

 飢餓と脱水の数年後に、修行僧が死に近いと感じた時、彼の仲間の修行僧達は彼の身体を棺またはお墓の中に蓮華座に置いた。その後、彼等は身体からさらに水分を抜き、死後の腐敗をさらに防ぐために塩、木材、紙、または石灰で死んでいく男を包んだ。お墓が閉じられる時、小さな空気孔だけが開けられた。その後、修行僧は読経し、黙想し、彼が死ぬまで時々、鈴を鳴らした。

 同僚の修行僧達が静かになったことを知った時、お墓を完全に閉じた。数年後、自己ミイラ化儀式が成功したかどうかを見るために修行僧達は身体を発掘した。幾つかの東洋の伝統的な宗教のように、これらの仏教僧は、分解を遅らせた身体である腐敗してない身体は修行僧の聖性を示していると信じた。発掘後に身体が腐敗してなければ、死骸はお寺に置かれ、飾られ、信者に崇められた。しかし、お墓が開けられ、身体が腐敗しておれば、死骸はそのまま残され、お墓は再び閉じられた。その修行僧の努力は尊敬されたが、彼の身体は宗教的な遺骨に敬意を払われることはなかった。日本は1879年に墓からの発掘を禁じ、宗教的な自殺が現在、非合法であることを含めて自殺幇助を禁じた。同様の調子でダライ・ラマは塩の床に座った状態で埋葬された。

 身体がハライトで覆われるとミイラ化は自然に起こり、ナトロンは保存を改善するが、必要ない。1593年と再び1616年に塩で覆われた幾つかのお墓が自然塩の風化とHazel山脈の崩壊で現れた。ハラインやハルシュタットの現地の人々によって棺が開かれた時、内部の身体は柔らかい組織で非常に良く保存されていたと言う驚きがあった。それは新石器時代の塩鉱山で超乾燥状態であった結果であったが、おびえた信心深い現地人は、現地の聖職者によって励まされて、周囲の罪の重さを軽くするさらなる宗教努力でもって(その地方の最古の教会に対する施しの形で部分的に)素早く再び埋葬し、したがって、祈りが行われるほどより効果的な封印となることを主張した。1734年に山岳用の衣類(塩鉱山の鉱夫に似た)をまとった男の塩で保存された身体が発見された時、同様の庶民の反応があった。恐れた現地人が、一度は再び現地の聖職者によって励まされて、さらなる科学的研究もなく、あるいは遺体を観察しないで直ぐに再び埋葬することを主張した。

 イランでは最初に1993年の冬に、そして後に2004年にHamzehloo近くのZanjan地方の近代的なChehr Abad塩鉱山で、全部で5体の塩で保存された男性の遺体が、紀元前約400年には採鉱していた元塩鉱山の崩壊したトンネルで発見された。1993年冬の最初の発見は頭に工芸品を付けて覆われた塩であった。200411月の始めの後の発見は残りの身体であった。地震で塩鉱山が崩壊して5人の男が全て死んだのであろう。崩壊した塩鉱山トンネルの非常に乾燥した雰囲気に包まれたことが身体を自然にミイラ化させた。

 

塩と戦争

 塩の医学的用途と共に食品保存剤としての塩の歴史的な用途は、塩を政治的、軍事的重要性を持った価値の高い日用品としてきた。塩の供給を巡る最古の記録された戦争は紀元前3000年の中国の塩湖を巡ってであった。紀元前2200年に中国皇帝のHsia Yuaは、山東地方は皇帝の宮廷に塩を供給しなければならないことを宣言した。古代中国人の哲学者はかつて塩を“地球上で一番甘い物”と呼んだ。“戦争”や“平和”と言う言葉は古代ヘブライとアラブで塩とパンについての言葉から由来しており、ラテン語の“sal”と言う言葉は“ソース”や“ソーセージ”のような言葉をもたらした。

 塩の軍事例として、アメリカ独立戦争中の1860年代に輸入は南軍への信頼できる塩供給の重要性を考えてみよう。南部連盟国の各兵士は澱粉(粗末な食事26ポンド、小麦粉またはビスケット7ポンド、米3ポンド)、タンパク質(ベーコン10ポンド)そして塩(1.5ポンド)を提供された。ベーコンは南軍の肉で、肉1ポンドは塩を必要とした。軍人と同様、馬も餌に塩を必要とした。連盟国も傷の治療、皮なめし、軍服用の布の染色にこの貴重なミネラルを必要とした。前世紀、歴史家エラ・ロンは独立戦争中の連盟国のための信頼できる塩供給の問題の完全な本に専念した。連盟国兵士は戦争を通して北軍よりも飢えていたことを我々は知っている。豚を保存するのに塩を使わなかったので、屠殺されなかった豚は連盟国軍隊の士気を挫いたかどうか、馬に与えなかった塩が騎兵隊の士気を挫いたかどうか、我々は知らない。“食肉を作らなければならないのはどんな豚か、我々は豚を塩漬けする塩が得られない、”と186112月にミシシッピー州の統治者ペタスにサラ・ブラウン夫人は書いた。1862年にジョージア州の統治者ブラウンは、州の食肉の半分だけが1862 – 1863年のシーズンで節約されたと書いた。

 最も聡明で容赦のない有能な北軍将軍シャーマンは軍隊とその士気に対する塩の重要性について疑いを持たず、彼は火薬と同じほど重要であると塩を考えており、次のように宣言した。“塩がなければ敵軍はベーコンや塩ビーフを作れない。塩は優れた密輸品である。食肉を作るのに塩が使われ、塩がなければ軍隊は存続できないからである。”シャーマンは敵軍を援助する役目を持たせて試しに隊長を送った。彼は連盟国の戦線に塩を送った。北軍は見つけ次第塩貯蔵所や製塩所を破壊するよう命令を出した。アメリカ独立戦争を通してヴァージニア州ヴァージニアのカナワ谷のソルトヴィルとりルイジアナ州アヴェリーアイランドにある南軍の塩生産施設は北軍の目標であった。北軍はヴァージニア州ソルトヴィルを占領するために36時間戦った。そこの製塩所は非常に重要と考えられたので、連盟国の大統領ジェファーソン・デーヴィスは軍務を放棄し喜んで海岸の製塩所に行き、南軍の戦争努力を支えるように命じた。

 186311月にバーンサイド将軍はグラントへの派遣で、リー将軍はソルトヴィルの前に強力な防衛軍を配置したことを述べた。186312月に彼はフォスター将軍に書いた、“軍隊がソルトヴィルまで到達し、そこの製塩所を破壊すれば、敵にとって莫大な損失となろう。”その会戦で、連盟国は製塩所を非常に上手く守ったので、北軍は186412月まで製塩所を占領(そして破壊)できなかった。バーブリッジ将軍は、ソルトヴィルの損失は“リッチモンドの損失よりも大きいと敵軍は考える”だろうと得意そうに話した。一方、北軍は自分達の塩給源を持っていながらも、1864年だけでイングランドから86,208トンの塩を輸入した。

 同様に、何千人ものナポレオンの軍隊もモスクワからの撤退中に死んだ。塩欠乏で傷を治せなかったからであった。

 

古代の塩生産とその課税価値

 北部中国のYun Cheng湖のほとりで紀元前約6,000年頃の塩を収穫し生産するために設計された産業の最初のエビデンスを我々は見る。塩釜を作る目的で湖のかん水を蒸発させて製塩した。ヨーロッパでは、塩釜による最初に記録された工業生産は約2,500年前にイタリアで始まった。当時、初期ローマ王の一人であるアンカス・マルティウスは海水を囲われた水槽に入れ始め、その後、太陽で水を蒸発させて塩を作るようにした。ローマ人がオスティアの製塩所と港を攻撃したことの重要性は、塩がローマに運ばれた主要道路はヴィア・サラリアと呼ばれことであった。その後のヴェニスのように、ローマ市は初期の交易の多くを塩交易に置いていた。初期のローマ兵士に支払われた特別な塩の糧食は“サラリウム・アルジェンタム”として知られ、英語“サラリー”の先触れであった。ローマへの供給をほぼ独占して、オスティア港の交易者達は塩の価格を非常に高くしたので、国家は紀元前506年に強制的に産業を乗っ取った。

 ジュリアス・シーザーが紀元前55年にブリテンに上陸した時、彼は製塩者達を連れてきたが、後方ブリトンズでも熱い石にかん水を注いで塩を抽出していた。しかし、ローマ人は鉄釜を使い、その中で彼等はかん水を煮詰めた。シーザーはチェシャーにかん水製塩所を建設し、その後、他の場所の深さの浅い所で古代の製塩が始まった。深さの浅い古代の塩層から抽出したかん水から塩が作られたブリテンの町は今日では“ウィッチ”の語尾で区別されており、塩が作られた場所についてのアングロサクソン記述子であり、グリーンウィッチ、イプスウィッチ、ドロイトウィッチ、ノースウィッチ、ミドルウィッチがある。同様に、オーストリアやドイツの浅い塩層やかん水地域内では“ザルツ”や“ハレ”の付いた名前で、例えば、ザルツブルグ(“塩の町”)、ザルツカマーグート、ライヘンハル、ハレ、ハライン、ハルシュタットがあり、ガリシアの古いオーストリア/ポーランド地方でも同様に塩生産地域であったことを示している。

 サハラ砂漠の入り口であるアフリカの12世紀チンブクツの商人達は有名な学者の席であり、彼等はマリ、タウデニ付近の北にある塩湖から製造した塩を書籍や金と同じほど高く値付けた。タウデニの鉱山は古代エルグ端の塩湖の塩層の上にあり、1,000年以上も活発に採掘されていた。今日では、鉱夫達は通常、5m×5m×深さ約4mの穴を掘るために粗製の斧を使っている。鉱夫は最初に表層の赤い粘土を1.5m除く。それとは対照的にダナキルの塩鉱夫達は露天掘りをしている。その後、品質の悪い塩層を何層か除き、高品質の3つの塩層に達する。塩は110cm×45cm×厚さ5cmで重さ約30kgの平板に切られる。高品質の2層は半分に割れるほど十分な厚さを持っており、したがって、3層から5枚の平板が生産される。穴の底から塩を取り出しながら、採鉱者達は水平に掘り進み次々と平板を収穫しながら坑道を作っていく。各穴が掘り尽くされると、別の穴が掘られ、そのようにして湖の広い領域の上に今や何千もの穴が広がっている。数世紀の間に、明らかに窪んだ湖の3ヶ所でから塩が採掘されてきた。それぞれの経時的な地域はさらに南西の方向にある。その地域は衛星写真で明らかに見られる。最近まで塩は長いラクダの隊列で南に輸送されていたが、今ではもっと多くの塩が四輪駆動のトラックで南のチンブクツやモプティの河川港へ運ばれている。サハラやエチオピアのダナキル・プレインズの遊動民の幾つかでは、塩はラクダ隊で運ばれ、まだ時々、お金または現金と同等価値の物と交換するために使われる。マリのラクダ隊が塩を運ぶとき、各ラクダは4枚の平板を運んだ。塩市場に着くと、各ラクダの背中から売られ3枚はラクダ隊所有者の所得となり、残った平板の販売利益が塩採鉱者のものとなった。

 チベットでは、チベット高原の塩湖から製造された塩の小さな塊はGrand Khanの象を刻印され、コインとして使われた、とマルコポーロは述べた。古代マヤはグァテマラのSalinas de los Nueve Cerrosで塩を作った。その結果、地域には自然の塩泉が峡谷の川に流れ出し、下流の顧客達と容易に取引できるようにしている。この場所は内部低地マヤにとって唯一の大規模塩給源であった。マヤは天日蒸発技術を導入し、特別大きな陶器製の容器で塩泉からのかん水を煮詰めた。それはマヤで発見された最大の容器である。

 中国の高度に組織化された塩交易はマルコポーロによって観察された。Yangtze川の主要な交易品は塩で、海岸(特にHangchou)から内陸部の各市へ船で遡って輸送されたと彼は記録していた。中国人は様々な方法で塩を生産した:彼等はかん水を蒸発させ、海水を煮詰め、塩層まで掘削した井戸からかん水を汲み上げた。近代の油井掘削はその根源を竹による掘削技術の中国法まで遡る。その技術は元々古代のかん水源表面から塩生産のために考案された。

 

塩生産、政策と税

 塩の経済的価値は、古代中国やローマから後期中世ヨーロッパの政府や1940年代後期まで続いたフランス政府まで、政府によって課税されてきたことにある。紀元前2200年に中国皇帝のHsia Yuは塩税を徴収した。それは世界で最初に記録されている国税の1つであった。

地中海とヴェニスの勃興

 地中海の大交易港はスパイスや繊維と同様に塩を取り扱った。驚くまでもなく、より大きな港はジェノアやヴェニスで塩の交易だけでなく、交易を巡って主導権についても戦った。暑く乾燥した夏と穏やかで湿った冬のために、塩は地中海のほとんど適した海岸の平地にある塩田で作られる。したがって、オーストリアやイングランドで浅く覆われた塩の特別な地質学上の地域から交易者のカルテルを考えることが可能であるが、海岸の塩田で塩の生産を管理することはずっと難しい。そこで後から考えると、如何に効果的にジェノアがそして如何に特別にヴェニスが、13世紀から16世紀にわたって交易と同様に地中海の塩生産量の管理を行っていたかは驚くべきことである。ジェノアは西部地中海にあり、ヴェニスはアドリア海の先端にあった。それぞれは現地の塩交易を強化し、ライバルの塩交易を出来るだけ遠くまで蚕食するために政治力と軍事力を全て使った。しかし、ヴェニスは政治的により組織化され、そのことは国力のより冷酷で効果的な使用に繋がった。そしてヴェニスは塩交易に集中するために意識的に決定した。一方、ジェノアに対してそれは潜在的に利益をもたらす積荷一式の1つに過ぎなかった。塩を巡っての戦いに両者がなる所では、ヴェニスが勝ちになりがちであった。

 ヴェニスはアドリア海の塩交易の管理をさせないように支配した。ヴェニスはアドリア海の浅瀬にある製塩所からの塩交易で最初の富の何某かを所有し、13世紀に内陸のイタリア諸都市と塩を供給する多くの契約を結んだ。ヴェニスがアドリア海で塩交易を管理するようになるにつれて、その結果の利益は他の交易活動を助成するために都市によって使われた。都市に塩を配送するヴェニスの交易者達は銀行の信用を与えられた、例えば、彼等が品物を素早く購入できるようにした。歴史家のS.A. Adsheadが書いたように、“ヴェニス人にとって塩は日用品のなかの日用品ではなく…全て動いている部分の回転部に油を差し、そのモーターに燃料を供給した”。塩交易はヴェニス人の交易者達に広範囲なライバルと非常に効果的に競争できるようにさせた。塩は“我国の本当の基礎である”。

 5世紀の初めから常にヴェニス人は彼等の塩管理を促進させるために露骨な力を喜んで発揮した。ヴェネツィア州が隆盛する前に、アドリア海のローマ製塩センターはラヴェンナの少し北のComacchioにあった。ローマの凋落後、8世紀のロンバード王Luitpoldの記録は、コマッチアン・ソルトはフェララを通して少なくともパルマ、ロディ、ブレシアのような遠く内陸までロンバルディの内陸の大都市全てに船輸送されたことを示している。紀元523年までにヴェニスは塩を生産し、932年にはヴェニス人はコマッチオを破壊した。ヴェニス人は城を燃やし、住民を虐殺し、生存者をヴェニスに連れて行き、そこで生存者は開放される前に総督に対して忠節の宣誓を誓わなければならなかった。ヴェニス人は自分達のラグーンに塩田を建設し始め、1028年頃、Chioggiaがヴェニスのラグーンにもっと塩田を建設する許可を与えたヴェニス総督を我々は知る。しかし、ラグーンがComacchioにある限り、ヴェニスの比較的嵐を受け易いラグーンに塩田を建設することは難しいことが分かり、Chioggiaで塩生産が本当に成功するまでに長い時間を要した。一方、ラヴェナの南にあるセルヴィアの町はComacchioの破壊によって残された塩生産はなくなり、セルヴィアは少なくとも965 – 975年までフル生産であった。

 約1180年に、セルビアとChioggiaはそれぞれラヴェンナとヴェニスの保護の下に塩生産についてライバルであったことは明らかであった。ラヴェンナの大司教とヴェニスの総督は今やアドリア海の塩市場に政治的な圧力を掛け始めた。Chioggiaの塩が販売され、あるいはヴェニスの免許なしに船輸送することは不法であるとヴェニスは宣言し、ラヴェンナもセルビアについて同じことを行った。塩市場は今や商人の手を離れ、政治家とカソリック教会の手にあった。1234年までに、ヴェニスとラヴェンナの戦争は北方に船輸送されるラヴェンナ(ヴェニス)の塩を禁止して終わり、ヴェニスのガレー船は条約を守った。

 その後、ヴェニスはさらに論理的段階を1段進めた:全ての実行目的のために彼等は塩生産者になるように心掛けさせ、その代わり塩交易者(専売)になるように集中した。1250 – 1280年の間、彼等は益々塩の支配的な購買者になり、その後、彼等はその塩を倉庫に保管し、船輸送し、販売した。1350年代までに、ヴェニス船の契約がなかったり、ヴェニスから出港しなければアドリア海で塩が運ばれることはなかった。

 ヴェニス政策の黄金律は、彼等の管理下における全ての交易品はヴェニスを通らなければならないことであった。1590年遅くまで、彼等は内陸で販売される塩を81%値上げしてきた。しかし、しばしばそれは必ずしもそうではなかった、もっと利益を上げられる高価値商品の交易を促進させれば、ヴェニスは正常な価格よりも安く塩を売った。全てこの行動が計画され、特別な国家組織Collegio del Salによって管理された。報酬は上下し、固執と無常でヴェニスが塩事業を行ってきたことを正当化するのに役立った。典型的にヴェニスの商人達はトン当たり1ダカットで塩を購入し、ヴェニスに塩を船輸送するのにトン当たり約3ダカットかかった。それで彼等はトン当たり8ダカットの国家補助金を受け取った。国家は塩がヴェニスを通過した時、税金を集め消費者に船輸送した後では販売価格はトン当たり約33ダカットとなった。それは戦う価値のある利益であった!そして利益を得たのは商人達だけではなかった。国家利益のいくらかは建築、彫刻、絵画に使われ、今日まで残っており、ヴェニスを非常に荘厳にしている。

 ヴェニスは彼等の交易専売権を維持するために様々な方法を持っていた。パッグ島では、彼等は現地で必要としない塩を全て買い上げた。それをヴェニスに船で送り、倉庫に保管して消費者に(非常に高い価格で)販売した。ムギアとカポディストリアでは、ヴェニスは生産された塩の一部(10)を与えられ(多分、通行料として)たが、現地は効果的に塩の値段と販売地域を限定して陸地で運ばれる遠くまで残りの90%を販売できるように許された。

 1578年後期にヴェニスはトリエステの塩田を破壊し、続く20年間でロンバルディ平地の内陸で塩を販売して80%の利益を上げた。しかし、約1600年ころ、逆説的に海でトルコに敗れ、アドリア海の船輸送力は非常に大きくなり、ヴェニスは力で彼等の独占を維持できるようになった。香辛料交易による彼等の富の源泉もインドへの交易ルートが今やアフリカを回るように遮られたので、彼等の船輸送力と富は衰えた。

ヨーロッパ内陸とイギリスの塩と富

 内陸中央部と北部ヨーロッパの塩供給の多くは浅く埋まった古代の塩(二畳紀)または関連したかん水を採掘することから来た。南部バヴァリアのライヘンハルの大きな塩採掘センターがローマ時代に最初に操業されたが、後に多分Attila the Hun、もっとありそうなことにドイツのオドケアルによって破壊された。7世紀初期にザルツブルグの聖ルパートにより再建され、ザルツブルグ司教の特権となり、彼は塩交易により大きな取扱い権力と金を得た。そこで母教会は“塩僧正”を大司教に昇進させた。しかし、約1190年に大司教の許可なしにベリヒテスガーデンの近くに競合する塩田が開設され、教会と国との間で大きな喧嘩で大司教と皇帝で衝突した。教会は失い、1198年にバヴァリアン塩田はバヴァリア君主の管理下に入った。ライヘンハルの生産はおよそこの時期頂点に達し、ザルツブルグの不屈の大司教によって新しい製塩所が南にオープンして競争により後に閉鎖された。その時までの間、数百年以上も重要な塩センターとして残り、今日でも観光とハイルバーデンの治療的塩浴から収入を得ている。

 バヴァリアで反対されて、ザルツブルグの大司教は塩泉を閉鎖し、それで新しい塩産業がハラインに現れ、1232年の記録に初めて記載された。1300年までに、塩生産はライヘンハルの生産を追い越し、ダニューブに近い位置にあったので、オーストリアやバヴァリアへと同様にボヘミアまで遠くに船で塩を運べた。大司教はハラインで次第にシェアーを上げ、16世紀初期までに彼は全てを所有した。しかし、ボヘミア君主はハプスブルグ家族になり、1600年代の始めからボヘミアの大市場は大司教に対して閉鎖された。他のオーストリアの製塩所は最初小さかった。ザルツカマーグートで塩泉が谷側面の水平なトンネルから湧き出し、現地では知られなかったが、それは有史前時代に操業されていた洪水を起こした古い塩鉱山に続く古代の坑道であった。チロルのハルにある製塩所は所有者のために基盤を提供し、所有者は1363年から現地のハプスブルグ大公であった。大公はスイスに塩を売り、それでスイスに対するハプスブルグ家の宣伝のために支払う資金となった。

 塩生産はかん水を煮詰めて塩を取り出すに必要な燃料の不足によりオーストリアで常に制限された。せんごう場は現地の木材を燃やしたので、移動しなければならず、近代に高度に機械化された採鉱技術が現れるまで、この地域では塩製造で燃料が問題であった。1770年に山腹を流れ下る目的で作られた用水路があった。水の供給に使われるのではなく、せんごう場に木材の燃料を浮かべて流すために使われた。ハルシュタットでは非常に早くから燃料が尽きたので、皇帝は木製の配管を作って古代の鉱山からかん水をイッシュランドまで谷を下り、途中、ゴソウ谷に橋を架けて横切った。1600年以後、地域の政治で塩は重要な役割を演じ続けた。当時、3大塩生産者はオーストリア、バヴァリア、ザルツブルグの大司教であった。オーストリア皇帝はボヘミアとモラヴィアを取り込み始め、この塩の少ない地域はオーストリア塩生産者のために閉ざされた市場となり、ハプスブルグ皇帝に対して実質的な税金の歳入となった。塩生産は国家専売と考えられ、ザルツモノポールは“ホフカマーの所有で一番輝いている宝石”と考えられた。”1700年までに、塩は国家の全収入の約10%を提供した。

 軍事緊急事態時に、ハプスブルグは素早くお金を集めるための見返り物資として何時も塩の歳入を使った。ボヘミアが1618年異にプラハの窓外放出事件で反乱が起こったとき彼等は最初にそれを使い、プロテスタントは籠城していたウィーンを奪取した。皇帝フェルディナンド二世は、ウィーンを救い、1620年にホワイト山脈の決定的な戦いに勝ったカソリック軍隊に支払うために彼の塩歳入を抵当に入れた。ウィリチカ塩鉱山からの塩歳入は、1683年にトルコ軍の包囲からウィーンを救ったとき、ジョン・ソビスキー王下のポーランド軍隊に支払った。興味深いことに、ウィリチカの塩歳入は1657年のスェーデン侵略でポーランドに対する彼等の援助の返礼にハプスブルグ家に早くから帰属した。塩はバヴァリアでも国家専売であった。オーストリアとバヴァリアは両方とも自分達の塩輸出を促進させ、塩輸入から国内市場を守ろうと努め、それで密輸した塩で盛大な取引があった。

 1611年にザルツブルグの大司教は強制的に彼の塩をバヴァリアを通すようにしたので、競争は今や2者だけになった。オーストリアとバヴァリアとの間で中央ヨーロッパの全ての大きな塩給源が管理されるとすれば、どうして彼等がカルテルを形成するのに協力しなかった理由を理解することは難しい。簡単な同意、ローゼンハイマー塩交易条約は1649年に結ばれたが、わずか40年しか続かなかった。バヴァリア外交政策のセンターピースは西欧隣国に効果的に塩を販売する運動となり、オーストリアは強さが増すオーストリアーハンガリー皇帝を通して隣国に売れるようにした。バヴァリアは1700年代初期のスペイン存続戦争と1800年代の初期のナポレオン戦争中にオーストリアに対してフランス側について戦ってきたことは偶然の一致ではなかった。

 ブリティッシュの本島で、スコッツのメアリー女王は塩を政府歳入の税源にする考えを持った多分最初の国王であった。彼女はイタリア人にスコットランドで塩を作る許可を与え、その後、塩に重い税金をかけ、自分の物とした。イングランド女王エリザベスとメアリーの生涯の“姉妹”と最後の執行者はこれを優れた考え、同様にイギリスの製塩に課税した。塩税は誰にとっても大きな恨みの源で、イギリスやスコットランドでも同じ様に、割当を警戒して密輸が増加した。1785年にダンドナルドの伯爵は、イングランドで毎年10,000人が塩密輸で逮捕されたと書いた。アン女王御代に、塩税は当時で巨額なトン当たり30ポンドに上昇した。イングランド全体で抗議する暴動が起こり、その結果、塩税はついに廃止された。

 1700年代のバーガンディで、塩は製塩所からきたときの100%以上で課税された。バーガンディが吸収された時、この税金はフランス全土に広げられ、悪名高い塩税“ラ・ガベル”は政府財政に対して必要な収入となった。アメリカの銀がスペインにとって致命的であったように、塩はフランスにとって致命的であったとカルディナル・リッセリウは言った。塩税の廃止は1789年革命の主目標であった。23年後に彼が皇帝になると直ぐに、ナポレオンは外国との戦費に備えて塩税を蓄えた。塩税はフランス政府財源に供するために1945年まで続いた。

 南部スペインの製塩所からの収入はコロンブスの航海に大きく財政援助したと言われている。1825年にグレート・レイクとニューヨーク州のハドソン川を結んだ工学技術の驚異であるエリー運河は、建設費の半分が塩税で支払われたので、“塩が建設した水路”と呼ばれた。18世紀半ばの中国の万里の長城という植民地時代と同じものである“インドの大生垣”はパンジャブ州の西側境界からベンガル湾まで3,700 km延びていた。12,000人が配置され、ベンガルへの塩密輸を最少にするためにイギリスによって植樹され、インド塩税の徴取を強化した。1940年代の後半に、マハトマ・ガンジーのリーダーシップの下でインドの人々は塩供給に掛けられたイギリス税金に抗議した。1930年にガンジーはアラビア海まで200マイルの行進を率い、インドの貧しい人々のために無税の塩を象徴的に集めた。

人手のかかる塩と調理の期待

 今日、ハライトは鉱山の地表下、あるいはかん水製造装置、あるいは煮詰め釜の表面で生産されて取り出される安く生産される日用品である。食卓塩の製造で、製造、包装、販売はほとんどの塩製造者にとって主な費用である。近代の食卓塩の安い販売価格に対する興味深い例外は人手を掛けた“ゲランドの塩の花”で、ブルターニューの海岸に沿った塩田でまだ手作業で生産されている白い海塩で繊細なグルメの形をしている。その価格は約40/kgアメリカ・ドルで、ハライトの浮いた結晶が特に管理された海岸の塩田のかん水表面から掻き集められるに適した夏の日にだけ“paludiers”によって生産されている。塩田地盤は灰色の粘土である。現地の古老によると、塩の花は東()から風が吹いてくる暑い日にだけできる。それともっと安い灰色の塩(セル・グリス)は塩田の地盤から掻き集められ、美食家にも称賛され、前ローマ時代からフランスの海岸塩田でこのようにして作られてきた。塩の花は海水に含まれる84種類の痕跡ミネラルと微量栄養素を含む“自然”製品として販売されており、カリウム、カルシウム、銅、亜鉛、マグネシウムの自然源となっている。

このハライト製品は真白で硬くザクザクした結晶構造と明らかに“舌で感じる”高い水分を持っている。これは、“塩の花”がハライトの浮いた塊から成っているからである。これらの浮いた結晶はかん水表面上で作られ、浮いた塩結晶の薄い層となっており、毎日、掻き取り器で収穫され、天日で乾かすためにプラスチックのシートの上に置かれ、非常に手のかかる製品である。塩の花製品は他の工程を経ないで包装される。工業的に生産される海塩は、洗浄、遠心分離、燃焼熱による乾燥、粉砕、篩い分けと様々な工程を組合せて作られる。大規模製塩会社は塩田建設に数平方キロメーターを必要とするが、塩の花製品は全部で0.1ヘクタール以下の池で得られる。“塩の花”の人手を要する生産には明らかに経済的な上昇傾向にある。それは手作りの製品であるため、小さな塩田は家族グループで建設/操業され、したがって、高い塩分濃度の浜辺またはその近くに住む低収入の人々のためには新しいまたは追加の収入源となっている。

粘土のような不純物は世界中の高度に効率よく機械化された塩生産工場では灰色スポットまたは黒色スポットと呼ばれ、加工最終製品では望ましくないと考えられている。フランスの市場技術について皮肉的に言えば、多分、手作りで多大のお金と時間を費やしている中間クラスの美食家の騙されやすさであり、毎年グルメ産業は高い価格で塩田の地盤から掻き取られた未処理の汚く汚染された塩(セル・グリス)を上手く売っている。後のエッセイで様々なグルメ塩の地質学的な特性を深く考えてみる。

フランス、ヒマラヤ、その他の所からの様々な未処理の塩製品は“自然な有機”製品、“完全に未処理”製品として“最も重要な栄養素”を全て残しているとして典型的に販売されている。お金持ちで健康に関心を持ちで“新世代”のほとんど中間クラスの人口統計を目標にした売買者からのそのような包括的な主張はたまに割引して考えられるべきである。例えば、チベットの高い標高の大陸湖から生産された幾つかの種類のヒマラヤ“自然”塩はヨードを欠乏している。その現地使用は現地の農民に高い効率でクレチン病や他の甲状腺問題を発生させてきた。中国当局によるヨード添加された“加工”塩の導入はまだ抵抗を受けているが、中国でヨード添加された塩の使用は中国人口の前の水準の10%までゴイターを減らしてきた。同様の理由で、“自然に帰る”や“有機”食品はオーストラリアの中間クラスの消費者で次第に有名になっている。“ヨード添加された”塩の使用や都会の新世代両親によるヨード添加された加工製品の使用に併せて抵抗することは、メルボルンやシドニーでテストされた時、就学年齢前の都会の子供達にヨード欠乏症の健康に悪い水準までになった。同様に、マガジ湖からの自然の“未処理”の塩や食品添加物としてナトロンは使用は、収穫された塩にある“自然に”高濃度のフッ素のために現地の人々で重要な健康問題(フッ素沈着症)を引き起こしてきた。

塩、社会的立場、そして宗教上の迷信

 古くから世界で塩の高い価値のために塩は3千年以上も前から文化的、宗教的な重要性を持っていた。例えば、中世やルネッサンスのヨーロッパ王国では、食事中に容易に塩を取れることは社会的な地位を示していた。複雑に彫られた塩皿は立派な人物と思われている人々が容易に届く範囲内の選ばれた食卓に置かれた。高貴な食卓に応じて“塩の下手”に座ることはそのような贅沢品に届く価値がないと思われた。

古代前合理主義者世界で保存剤や食品添加物として使われた塩の価値から、塩は宗教的なシンボルとなり、不変で腐敗しない純粋性を表している。多くの宗教で、塩はまだ清浄を表す祭壇に置かれ、同じ理由で様々な宗派の聖水に混ぜられる。古代ギリシアの参拝者達は彼等の儀式で塩を奉献し、例えば、ヴェスタに仕えた巫女は全ての生贄の動物に塩と小麦粉を振り掛けた。塩は旧約聖書のユダヤ人と新約聖書のキリスト教者の両方に対して永続性の象徴であった。ユダヤ人に対して塩はユダヤ人とイスラエルとの間の永遠の契約を表すこととなった。ユダヤ寺院の供物はまだ安息日に塩を含んでおり、正統のユダヤ人は彼等の生贄の記憶としてまだ彼等のパンを塩に浸している。新旧聖書の両方の契約はしばしば塩で封印された。“救済”と言う言葉の起源を説明している。カソリック教会では、塩は様々な儀式を清めるために使われる。イエスは彼の弟子を“地の塩”と呼び、ヴァチカン二世までカソリック教会の祝辞は赤ちゃんの洗礼で唇に塩の小粒を置くことであった。

したがって、宗教に対して塩はイエスの永遠の神聖を表す超自然の象徴であり、迷信に対する想像上の保護を提供している。例えば、塩はまだ聖水を作るために使われており、ローマ・カソリック教会のより強力な清めの水でもある。塩は悪魔祓い中に保護円を作るためにも使われる。ヨーロッパで最後の千年の中頃に、塩は魔女、魔力、悪魔、霊魂、不幸に対して防御力を提供していると信じられた。魔女と魔法にかけた動物は塩の入った食物を何も食べられないと一般的に信じられた。宗教裁判官達は塩のお守りを身に着けることによって自分自身を守るために悪魔信仰者達によって忠告され、神聖なロウソクの台に押し付けられた他の神聖なハーブと共にパルム・サンデイで清めに使われた。塩の隠された小包を持ち歩くことは不幸を十分に撃退すると言われた。悪霊を撃退する他のよく知られた魔除けは塩壺とナイフであった。ある人々は幸運を呼ぶために彼等の左長靴に塩と胡椒を入れた。邪悪な魔女を撃退するために、農民は前の戸から塩を外に向かって投げ、戸の横に箒を立て掛けた。通り過ぎる魔女は、彼女が悪いことを出来るようになる前に、塩の粒と箒の穂先を数えなければならなかった。

同じ様に塩を捨てることは不幸の前兆となる。レオナルドダヴィンチの有名な絵“最後の晩餐”でユダ・エスカリオットは不幸と不運の前兆である塩壺をひっくり返している。仏教徒の伝統では、塩は悪霊を追い払う。それは多くのアジアの文化で、葬儀の後、家に入る前に肩越しに塩を投げる習慣の理由でもある:背中に張り付くかもしれない悪霊を塩は追い払う。キリスト教の伝統では、左肩越しにこぼれた塩を投げるべきで、中世の教会によると、右肩は守られており悪魔または悪霊は背中または左肩に張り付いている。ハワイやサモアでは、海塩は家の四隅のそれぞれに塩を置き、家に悪魔が入って来るのを防ぐために敷居の上に塩をこぼして守るために使われる。神道でも場所を清めるために塩を使う。力士が土俵に上がる前に、実際に入念な神道儀式である一握りの塩を、敵意を持つ悪魔を追い払うために中央に撒く。アメリカ南西部では、プエブロは塩の母を礼拝している。他の土着のアメリカ人種族は、塩を食べることを許された人はかなり限られていた。ホピ伝説は、怒ったWarrior Twinsが町から遠く離して価値のある塩鉱床を置き、貴重なミネラルを収穫するために重労働と勇敢を要求することにより人類を罰した。

中国の民間伝承は不死鳥が塩を発見したと信じている。北欧神話で、神々は聖牛として4日間をかけて塩辛い氷の塊から最初に来て、Auðumblaは北欧神話の最初の神Búriとオーディンの祖父を塩辛い氷の塊から連れて来た。他の創造神話では、Tiamatはメソポタミア宗教(シュメール、アッシリア、アカディアン、バビロニア)で原始創造の混沌の象徴である。彼女は原始海洋の塩辛い女神であり、Apsu(淡水の神)と結婚して若い神を創った。彼女の夫Apsuは後に彼等の子供達に戦争を仕掛け、殺される。彼女も彼女の夫の殺人者に戦争を仕掛けた時、その後、彼女はエンキの息子、嵐の神マーダックにより殺され、天アーチと地のアーチが彼女の分割された身体から作られた。マリの中流ユーフラテス川ヒッタイト王国からの記録は町の統治者Zimri-Limによるハッタ像の建設を通して塩の神ハッタの毒殺を証明している。ヒッタイトの儀式な中で、多分、塩の一番良く知られている用途は、様々なメソポタミア住民の呪いにおける塩の使用と近似している使い方である:最初のヒッタイト兵士のOathは、扇動に関わっている兵士に対する類似の呪いの儀式で塩を採用している。古代ギリシアの礼拝者も彼等の儀式を塩で清めた。

ダイアピルの塩塊の出現も迷信的な重要性を持っている。ロトの妻はFulcher of Chartres(Chaplain to King Baldwin)の雑誌で述べられた。彼は110012月に死海の谷を横切って十字軍兵士のBaldwin Iに随行した。実際にはロトの妻として述べられているapophenic特徴は死海のほとりの大きなSedom山のふもとにあるたかさ12 mのダイアピルな塩の柱である。それは、Sedom山の中心となっている中新世の塩で出来ている出現したダイアピルの石膏層を被ったくぼみに沿ってある多くの溶解残物の1つである。