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MRBLOCH ARCHIVEより

塩と貨幣の発達

Salt and Evolution of Money

By David Bloch

 Review of the International Commission for the History of Salt 

Vol. 7 1999[CIHS] からの転載

MRBLOCH ARCHIVE  http://www.salt.org.il/frame_mrbloch.htmlより

 

要約

 貨幣の定義について最も有益な情報はKnappによって定義されたもので、Keynesによって受け入れられた。Knappは貨幣を次のように定義した。最も取り替え易い品物が交換用に使われ、その結果として‘支払い手段’として使われた:しかし、それが国家権力によって保証され、国の行政によって税金の代わりに受け入れられた時、そのような‘支払い手段’だけが‘貨幣’となった。

 これはアリストテレスの概念とは異なっている。正しい重量と組成を確認して支配者は印を付け、スタンプを押して‘支払い手段’を貨幣に替えて、固有の物質の有用性と貨幣としてのその購入力を関係付けることとアリストテレスは考えた。

 一方、Knappによって示唆された‘国家理論’が意味していることは、基本的な貨幣の特質は、物理的に特権の標識を運ぶことに適している限り、本質的な価値とは関係ない。

 これらの二つの概念は共通して形態、重量、化学組成、色彩の標準化できる。この事実は貨幣の理解を混乱させてきて、貨幣の起源と貨幣の歴史的な発達の正しい認識をまだ妨げている。

 

公平な交換

 塩化ナトリウムまたは“食塩”は食物、燃料、贅沢品あるいは奴隷のような他の最も重要な日用品との交換価値があることが分かって来るに連れて、その価値は国家財政と貨幣の起源で重要な役割をまだ決められていなかった。塩は最も重要な日用品だけではない。塩は生命に必須なものである。基本的な必要性は生理学的なことである。大寺院の肉保存剤、ガラス製造、皮革加工、石けん、繊維、特に火薬における塩の重要性は比較的小さかった。呼吸する空気、飲む水、食べるタンパク質のように動物の生命にとっても基本的な物資である。塩欠乏は水欠乏のように重大である。塩と水は全ての植物や動物で細胞を活性化する塩の細胞外液と細胞内液の濃度を維持するのに必須である。体は食物の欠乏期間を耐えられるが、塩と水がなければ生きている細胞は脱水で直ぐに死んでしまう。‘奴隷制度’は塩飢餓の社会的結果の極端な事例である。

 正しい重量と品質についてある当局によって‘保証された’標準化された日用品の交換取引が貨幣の最初の使用を代表しているとアリストテレスは信じた。“生理的要求の生活必需品は必ずしも全て容易に持ち運びできる物ではないので、品物自身は日用品でありながら社会生活の業務で実質的に容易に取り扱える品物を相互に与えたり、受け取ったりできる交換目的で人々は同意した、と彼は言う。そのような品物は鉄や銀であり、始めにその大きさや重量で簡単に定義された。”金属は交換貨幣として使われる唯一の材料ではなかった。塩もしばしば基本的に個人的な重要性を持つ話題として特別に重要な日用品として述べられた。個人の収入またはローマ兵士の‘サラリー’はしばしば塩(サラリウム)で一部支払われ、そのことからサラリーと言う言葉が生まれた。

 ギリシャ人はペロポネソス戦争前には貨幣を硬貨を持っていなかった。リュディア人が金貨または銀貨を使った最初と考えられているとヘロドトスは我々に語り、ギリシャ人がエウボイックと呼んでいるタラントは確かにアジアから来た。コインの重量を導入し一度受け入れれば、その重さをチェックする手間を除くため、どのコインにもスタンプまたは認証極印を付けることによって確認された。コインの上に押されたスタンプは品質を示しており、最終的にコインが表している価値を保証した。それは塩塊上に押されたスタンプと同じ概念で、中央アフリカで支払い手段として今世紀でもまだ使われている。それは食塩本来の価値よりもむしろ多分、塩と同じ重さのコインの重さと特に最初関連させた。ローマ人の会計は銅コインで始まり、金はアレクザンダーの死後わずか100年で導入された。したがって、唯一使われた材料の選択は有効性と永続性を考慮したことであった。

 アリストテレスの意見を支持する良い証拠がある。例えば、それぞれ約5 kgの重さがあるパンのような塩の塊は支払い手段としてエチオピアでまだ流通している。‘Lling of Limmuの宝で、年貢として彼に初めに与えられた塩の塊は貯えられている。しかし、多くの他の投資に似て、何人かの旅行者達が王様から貰った百個もの塩の塊を売ろうとした時、当時新しい塊40個の価値しかないことを知って、理想的な宝でないことが分かった。’あるいは再び‘カメルーンの村民は彼等の塩の店を特別な家に貯蔵している共有財産と考えており、その内容は部族の富を表す主要な指標であった。’塩の標準化された塊の取引は全てお金の取引と見なされた。

 塩とお金との密接な関係は11世紀に中国を旅行したマルコポーロによって述べられた。彼はそれがあたかも金と同じほど貴重な宝物として塩のお金について書いた。‘Kai-nuは中国人がその地方で選んで使っていたお金または通貨である:彼等の金は小さな丸棒に変えられ、スタンプなしにその重さに従ってある長さに切って通用させた。これは彼等の大きなお金である。小さい方には次のように書いてある:この国では小さな釜で煮詰めて塩を作る泉がまだある。1時間ほど泉水を沸騰させると、ペーストのようになるので、2ペンスの価値がある塊にする。底面は平らで上面は丸くなったこれらは乾燥させて固くするために火の近くの熱いタイルの上に置く。この上にGrand Kihanの印を押してその後貨幣となる。彼自身の代理人以外は押せない。これらがほとんど訪れない地域まで交易者達によって運ばれた時、彼等は60個、50個、または40個の塩塊でさえもそれらに対して金の袋を得ており、…さらに彼等は町から追い出されている。同じ商人達は塩のお金が同じ価値で流通しているチベットの他の地域を通って旅をしている。これらの地域の人々は絶対に必要な物としてそれを考えているので、彼等の利益は多く、一方、町の住人は完全な塊をお金として流通させながらも、塊の壊れた破片だけでも使っている…’

 

造幣とミクロ経済学

 標準化された金属片と塩片の疑似通過の役割に加えて、製塩と貨幣製造の実際の操作との間に明確な関係を発展させた。極初期にギリシァや中世ヨーロッパの多くの古代都市は両方を行っていた。したがって、Charlemagneの治世で‘…王国領の財産管理人として塩田作業員を特別な税の徴収者として公認することは都合が良く…必要に応じて支払いを受け取る…海外または古代のコインを重量で現物支払い、現場で作り彼等の標準的な価値の保証としての役割に署名と製造場所の記録する地名を印したコインで塩田の歳入とする。’

 ドイツのシュヴェービッシュ・ハルはそのような相互に関係した通貨と交易準備の良い事例である。ハルの議会はここに塩泉と工場を所有しており、中世に彼等もコインを造幣しており、塩の購入や販売のために市場に流通させる都合の良い物であった。コインは地方の道路、橋梁、門の建設に支払う代価の法的な通貨としても許されていた。それらはハリルの‘コイン’または‘ヘラー’マネーとして知られるようになった。その名前は塩についての古いドイツ語‘ハレ’に由来している。その現地購入力の強さから、この通貨はほとんどのドイツ市場で高く評価されていたが、その価値は需要供給に従ってしばしば変えられた。塩の生産はハルの議会によって独占されていたので、議会は造幣と特権を独占していた。

 金属交易との歴史的な関係は明らかであるが、塩は一般的に受け入れられ、あるいは今日理解されている感覚で貨幣として使われてこなかった。多分、歴史的な関連とその発展を解析することは近代経済におけるお金の役割を我々が感謝することに役立っている。明らかに塩の供給を独占する能力は生命の他の重要な生理学的必要性と比較した。例えば、飲み水、呼吸する空気、食べるタンパク質はこの交換手段を管理する権限を何らかの関係器官に与えた。

 J. M. Keynesの意見では、国家はお金の機能を自由に変える権利と同様にお金を考えるべきであることを決定する。お金は国家によって作られ、または免許を与えられるという主張はお金の‘国家理論’の基礎を形成し、そのことは近代ではG. F. Knappの名前と関係するようになった。彼はお金を認めている…‘国家は支払いの代わりに、または専売品との交換で国の役所に受け入れさせるようにする物’…“まだお金ではなく支払いの手段があり;その後、それらはお金となるが;後でまたお金となることを止めた物である。” G. F. Knapp. 1924年。

 この定義付けは、お金が作られた物質がその流通価値に関係していないことを説明している。もちろん、お金は携帯できることや重さのような認識できる標準に適合させるべきであることは重要です。それはまた耐久性であるべきです。しかし、それ自身で貴重であれば、まもなく金が貴重になるように、あるいは稀な条件では塩が:あるいはその塊が美しくデザインされ芸術的なメリットがあれば、やがて収集家の対象物となる:しかし、そのような品質はお金としての重要性に関しては無関係と考えられるようになった。

 第一次世界大戦後のドイツ貨幣を復興させた人Helffrichの言葉では、…‘コインの新しい金属の重さはお金の基質となり、それについて含むべき物と必要な交換物として国家当局は最終的に無条件に使えた…’

 これはアリストテレスの概念と異なっている。正しい重さで作り物品固有の価値との関係で測定することは ‘支払い手段’をお金に変えると、彼は考えた。

 

タリーズ

 いわゆる:ラテン語で‘tally’、‘tessera’、ドイツ語で‘kerbholz’‘notched wood’、ヘブライ語で‘twins’、中国語で‘chi-chi’そしてギリシャ語で‘symbolon’-全て同じことを意味する言葉の導入は一緒に集めた時完全に同一の物とするために、近い段階で近代通貨の発展に役立ったかもしれない。

 タリー(tally)の使用は非常に古く、同一性、証書、mesa’go、領収証、借用証書、あるいは請求書の本物であることを決定する独創的な方法である。元々、タリー技術は、木片、金属、セラミックまたは紙のような物が裂かれたあるいは壊された時、出来た破片の偶然性に依存していた。それぞれの破片は独特で、破片を持って来て合わせた時、正しい破片だけが一致する。タリーをチェックする多くの他の方法があり、最も近代的な方法は電子的装置の“スマート・カード”である。しかし、本質的にそれらは全て‘タリー’に似ている。原始的でむしろ面倒な方法であるが、一つは貨幣発展の絶対に必要な部分としてこの技術を認識できる。イギリスで中世にあたかも木製のタリーズが‘貨幣’として取り扱われた。それらは価値を損なくことなく流通し、財務省に提出され、要求者の身分証明書に関係なく受け取られた。M. Siegristの書籍‘Ricardus of Ely’によると、…王室財務省は負債のある人々を信用してタリーを使って請求者の何人かにしばしば支払った。この方法でタリーは支払いの手段となった。

 タリー・システムの最も実用的な応用の一つは貯蔵品の所有標識であったように思われる。倉庫管理人は預品について正しい要求者を見分けられる必要性がある。そこで彼は預品に‘ストック’のタリーの片方を貼り付け、後にこの部分を持っていなければならない預け主には他の‘フォイル’を与え、品物を要求された時にそれが合うかどうかをテストしてチェックした。両利害関係者は‘フォイル’片を他の人々、例えば、彼等の代理人に委任できた。有形資産は登録されるだけでなく、返却すべき価値ある用役またはacreti ploughedの数、輸送された塩の袋数、等々も記録される。この種の作業は“刻み目”で数えられ、記録が残され、foilが提出された時、作業相当の物件を回収した。

 奇妙な挿話で:“…18341年に悲惨な結果を伴って古代タリーズの全蓄積を無効にすることによって挿話の功績を祝う熱意を除くこと;実際にタリーズの全ての“在庫品”と一緒に古い国会議事堂は燃やされた。”

 品物の価値、用役、相当するタリーズをどのように相互に関係付けるかと言う問題に進む前に、通常の保証金の取り扱い技術を考察すべきである。それは鋳造硬貨と他の印刷された貨幣の導入に関係しているからである。

 小さな価値の品物が預けられた時、様々な種類の個々に手作りされたタリーズはあまりにも高価で需要量を満たせなかった。大量生産の効果的な方法を見つけなければならないが、このことには明らかに大きな偽造の危険性があった。ランダムなパターンは‘壊れた’縁を粘土、ワックスまたは柔らかい金属のような柔らかい物質に押し付け、または壊れた爪の端を立てることによって作られ、容易に模造できない印が出来るので、多くの押し付けられた印影が出来上がり、母型またはマスター・スタンプ-元の壊れた縁と付き合わせられた:後に;それは絵または描かれた言葉となった。このようにして、コインについての母型、または記述された銅板で有効なトークン片を複写した。トークンにユニークに設計できる最高の芸術家を雇用することによって偽造は最小限にされた。

 所有権、本物を示すために、または権威を正当化するために設計されたシールの作成は東洋諸国で非常に古く巧みな技術であった。‘シリンダー’シールはそれを転がすことにより、それに彫ってある文字のパターンを再現させることでレシートの機械的複写の開発に役立ってきた。

 中国では、金属貨幣は1000年-紀元前700年に現れ、紀元前約630年までに重量と大きさが標準化された。ヘロドトスは131の割合で金と銀の価値を計算した:彼の約50年後に書いたプラトーは、それは銀の価値の12倍であったと言っている。彼の後、博学なブダエウスと他の人々は100デナリの合計を“リブラ・センテナリア”と“リブラ・ヌマリア”と呼んだ。一方、彼は貨幣の合計:しかし、常に板または金塊の重さを表すために使われた言葉はポンドまたはリブラのどちらでもないことを知ったと白状している。三つの種類があった:最高の価値を持つ金;中間の銀、銅/真鍮で、銅の現金は最低の価値であった。現金のコインは様々な形、大きさ、円形、長方形、正方形、真ん中に穴がある物で、スペード、ナイフまたは“トラウザー・マネー”として知られている二つの尖った角のような形であった。塩と同様にこの時期、流通していた他の‘貨幣’は錫、鉱石、羽、亀、タカラガイの殻、決まった幅と長さの絹織物であった。

 最初のコインの発明は比較的新しい鉄鋼産業によって可能となった。粘土やワックスに刻印された‘ボウチャリー’の代わりに、ずっと耐久性のある金属性資材、商業界と管理行政支払局との間の厳密性に耐える能力が今や使われている。大量生産された耐久性のあるバウチャーは硬い鉄製の母型の上に形成された。母型には琥珀金、金、銀、後には銅のような鍛えられた金属上に印章が彫られていた。非鉄金属のコインが壊れやすい粘土片に取って代わるようになった。

 硬貨鋳造用の金属不足は戦争、政治の不安定性、社会不安によって悪化され倍加された状態のあった中国に特有であったように思う。例えば、漢時代に古い硬貨が回収され、新しい青銅()の硬貨と交換された。これは中世ヨーロッパにおける全供給量よりも多く計算された約#5,000,000まで財源を増加させたと信じられた。そのことは同時に国の財源を流出させた。同様に、後でそのような多くの移動でインフレが恐ろしい問題を引き起こし、最初の保証金またはお茶、塩、他の日用品そして後に紙幣自身の記録書との‘交換証明書’を導入した理由の一つであった。

 硬貨不足を防ぐ手始めの一つは紀元前120年に行われた。皇帝の狩猟保存品で見つかった白鹿の皮から切り出された四角片が交換媒体として宮廷で貴族の限られた社会で発行された。

 製紙はキリスト紀元前に中国で発明された。一番早かったとして知られている紙片は紀元前140 – 81年のWu Ti時代に遡る。最初、それは裏地または水に浸された縁の小片からマットに織られた繊維で作られた。織物を洗うことは一般家庭の雑用であるので、多分、偶然に発見された。桑の木の樹皮を使うことで大量生産が出来るようになった。マルコポーロは次のように書いている;‘桑の木から樹皮は剥がされ、その葉はカイコの餌に使われ、きめの粗い樹皮と木質との間にある外皮から採取された…’

 新しい材料は実際に毎日使われているように思う。例えば、衣類、ベットシーツ、カーテン、その他スクリーン、タイルのような家庭用の家具、そして葬式で燃やされる供物とされる大量の物であるが、奇妙なことに書類用ではなかった。最初の紀元後の世紀まで、伝統的な文房具は竹、木材、絹で、ゆっくりと紙に代わってきた。

 古代のシールを作る習慣は製紙の発明と紙に印刷する技術との結び付きを提供した。中国のシールは通常、逆順に文字を彫刻した四角形または方形であった。シールは陶器、煉瓦またはマルコポーロが目撃したように塩の上の碑文を押すために使われた。この押印行動は木片へのプリントと類似しており、中国では紀元約700年に実現され、移動式印刷と多色印刷が出来るようになるまでその後300年、あるいは12世紀前まで続いた。

 貨幣によって与えられる本質的なサービスは貨幣材料の価値と緊密な関係はなかったが、偽造の可能性を減らすために桑の樹皮から作った紙または白鹿の皮のように素材が稀なことが望ましいことを当時の中国人は十分に知っていた。それは特権で、それを価値ある物とする皇帝による権威付けられた布告であった。支払いの手段として皇帝の行政機関によって受け取られるトークン片や塩のような専売品として保証していたからであった。この専売制は、我々が見える限り国家の最も重要な収入源であった。紀元1329年に紙幣で支払われた全ての税の中で82%は塩専売制からであった…

 重要な要因はこれらのトークン片の‘使用耐久性’であった。銅貨は適度に耐久性であったが、高価値を示す程には十分ではなかった:金と銀は非常に稀有で耐久性もあった。証書が破れたまたは汚れた物との交換を保証しておれば、紙のような壊れやすい材料は金属と置き換えられた。証書は厳密な方法と法律および古い証書が裁判官と他の高官の面前で燃やされた時執行される懲罰で管理されていた。

 中国人はこの代用品を日常業務で使えるようにし、それは貨幣に長期使用を組み込んでいた。紙は安く、十分に安くなくても低い額面金額の銅貨に替えられたからであった。これらのために、卑金属は一層経済的になった。逆説的に高い価値のある鋳造硬貨に使われる金は紙で置き換えられる、一方、単一の卑金属硬貨は置き換えられない。実用的な絹が開発され、その後、紀元1050年に北部でそれを資本に替えた南部中国で貨幣を鋳造する費用はその金属材料の価値の75%になると見なされた。

 鉄製道具の発明と非鉄硬貨との間の時間のずれは、紀元約200年の紙の発明と実質的に自由に交換できるほど十分に安く紙幣を印刷できるようになった約500年後の技術的な成功との間の遅れに幾分似ている。

 貨幣として使用するために免許を与えられた一番安い物の一つは海の貝殻で、それは専売制の国家に管理された輸入で入手できた。中国や幾つかの他の地域では、彼等は紙幣の導入を実質的に長引かせ、両方を一緒に流通させた。専売制度下で国家はそれらを鋳造し流通させるので、したがって、貨幣として輸入される貝殻は税金支払いの手段として役立った。例えば、Lopburiでは、24 liangの貨幣は10.000 cowrie貝の価値があった。ビルマでは10 liang (紙幣)11,520 cowrie貝と等価で、再び雲南では紀元1276年に貝殻は貨幣として輸入された。2,3年後の紀元1282年に税金は金で支払うように制定されたが、貝殻でも支払えるようになり、1305年には雲南統治者は代わりとして紙幣でも使えるように命じた。貝殻輸入の禁止は王朝の法律で成分化された、Yuan-schi(YS)104,5a~を引用し、…そして(貝殻の)個人輸入があたかも偽金の場合のように罰せられ、1637年の遅くまでも特別な巻貝が通貨とニュー・イングランドのオランダ当局によって税金支払いの手段として認められた。

 支配的な条件に間に合わせて、食品と塩の生産は改善され、10世紀の始めには流通資金の購入力をどのようにして増すかと言う問題が深刻になった。

 それは国家によって解決されたが、民間部門の財と用役を増加させることからの収入の代わりに流通している一定数の資金単位を確保している。財と用役が利用できる資金単位から見ると安くなって、価格が低下したことをこのことは意味していた。その代わりにもっと多くの資金が放出され、例えば、比例して財を多くし、流通資金単位数を増加させる、と書籍は述べている。このように、価格は安定して維持されるが、それでもさらに財と用役の交換を可能にしている:一時的な‘拡張’である。

 利用できる資金単位が財と用役の増加に比例して増加すれば、‘あまりにも資金が多過ぎれば…あまりにも少ない財を追いかける’と言う近代的な概念は適切ではなかった。金と銀の鋳造硬貨が卑金属産業の追加によって増加した時、農業生産と交易が悪くなると言うことはしばしば考えられる。

 

海岸線と繁栄の後退

 事実、おそらく反対の場合がある。これらの期間中の一時期、紀元10世紀に海洋は後退し、もっと塩を生産できる巨大で平らな蒸発領域が現れ、かなり増加した量を生産できるようになった。ヨーロッパで、Domsday記録が示すように特に“メリー・イングランド”で海岸の製塩は盛んであった。

その結果経済が拡大し、国家事業と民間取引者の必要量が合わない金属硬貨の厳しい不足を引き起こした。中国では、これらの条件で中国人は紙幣を用意し、それを流通させるように要請された。Balazsは“一方では軍隊と統治による政府とお互いの大きな経済と交易の発展による巨大な需要のため”として財政的な困難を述べている。後に新しいSung皇帝は行政機関を再編成したが、同じ巨大な軍費のため政府は新しい貨幣を作らねばならなかった。紀元1050年に銀貨は13倍になり、紀元800年よりも8倍の銅、14倍の鉄となった。紀元1000年と紀元1021年の間に、国家予算は22,200,000から150,800,000に増加した。紙幣の発明は増大した民間経済の産物であったことには疑いはない。これについての前提条件である製紙と印刷はもっと早くからできていた。

12世紀の中国では、経済状況は比較的簡単で、その機能または紙幣は人民によって容易に理解された。南中国の地租を除けば、塩は50%、アルコールは36%、お茶は7%、関税は7%に寄与し、穀物は国家歳入にとって民間セクターによって生産される日用品の最大部分であった。塩と穀物の両方の生産は気候変化と洪水によって影響を受けた。海岸の塩田が十分な塩を生産できなければ、塩不足が起こり、その後、塩の価格と塩に掛ける税金は上昇し:同様に、穀物の価格は穀物不作で変動した。

 中国の皇帝が官僚または議会や国会のような団体に支えられようともギリシャ地域ではどこの当局も貨幣の製造と使用を管理する法律を制定した。これらの法律の下で、貨幣トークンは税金とある種の税支払いの代替えとして許された;支払うべき税金が決められ、しばしば調整され、最終的にその結果の歳入が当局の義務と出費を償う予算であった。

印刷とこれらの公共体が支払うように許可された貨幣は民間団体やグループによって提供された財と用役を買うために使われた。一般的に社会が十分に良く組織化され、非合法な買収から守られるようになって以来、取引は手段の一つであって、それによって通常の人々またはグループは彼等の努力と引き換えに何をどれくらい多く要求できるかを明らかにできた。例えば、公認された貨幣は他の不可欠な日用品、民間で生産されたパンと同様に不可欠な専売品の一つ、特に塩を購入するために使われた。そこで塩‘anona’の形で、または公認された貨幣で給与を得ていたローマ兵士は農夫からパンを購入するためにそのいずれかで、または両方を使った。農夫としては貯えて、好きなだけ両方を使えた。いずれによっても彼は近隣の農夫から油や肉の支払いに貨幣を使え、その農夫もそれで塩を買い、税金を支払った。ここで蓄積/支払いの連鎖は通常では長くもっと複雑な手続きとなり、‘高利貸しと銀行’を含んでいた。そのような業務が実行される毎に、当事者は要求がどれだけ緊急かを考えなければならなかった:そして窃盗のような危険があれば、気候の変わり易さまたは幾つかの品物の腐敗しやすい性質は貨幣を蓄積する危険性より重要であった。しかし、貨幣の貯蔵には記載事項の消滅または硬貨の腐食から、最初に貨幣を公認し、一部または全体的に税金を貨幣で受け取る約束を守らないかもしれない不安定な制度の幅広い意味まで、貨幣自身の問題があった。

 

海岸線後退と洪水

 中国で後のこの状況の逆転は紀元14世紀の始めに起こった。その時、海面が上昇し、塩田は冠水し、塩は再び払底した。その時、流通貨幣単位を増加して対応しなかったので、一般価格は2倍に上昇した。1260年から1325年の間に印刷された量は約6千万ユニットであり、その内の47百万は新しい紙幣と交換後に行政の命令で燃やされたと思われる。したがって、流通している貨幣は23百万を越えなかった-5千万から6千万人の人口に対してインフレになる量ではなく…しかし、購買力は低下し…紀元1276年から1308年の間に1/25になった。この災害の原因は生産の‘減少’として巧妙に言及された。突然の原料不足は一部洪水のような自然の大災害のためであった-流通している貨幣単位量の欺瞞的な増加よりもむしろ1351年に黄河の堤防が壊れ、当時の高い海水面で海岸の塩田は失われ、気候変動と疫病の流行によるためであった。

 同じ期間中、北ヨーロッパは塩の需要増加を満たすことが難しいことを知った。海岸の塩田が冠水した時、古い製塩場所は十分に生産できなかった。バルト海はもはや自立できなくなり、プロシアは塩凶作に影響されやすくなり、低地諸国の泥炭採掘は海水防備を危険に晒すので禁止された。その後、1349年に黒死病が襲った。

 イングランドも状況は良くなかった。作業力の低下とともに塩田は未整備のままで、生産量は低下し、他の生産業界に加えて沿岸製塩は生産量の低下と閉鎖に遭遇した:生活費は劇的に上昇した。小作人からの支払いが良いために革命的な需要に直面すると、貴族と上流社会は雇用を制御し、賃金を凍結するように議員立法を主張した。国は当時の17世紀でも‘湾’の塩の輸入者となっており、その塩はイギリスの塩より品質が悪く、ニシンの塩漬けには適していないと考えられた。19世紀までにイングランドは再び塩の主要な世界の輸出国となった。

 

経済

 塩は真実の言葉では決して貨幣ではなかった。それは生命に極めて必須な物の一つで、その量と品質を標準化できる日用品であるから交換または取引の便利な手段として使われた。しかし、それはまた国を公認された貨幣でより魅力的に望ましくする最も重要な方法の一つとしても使われてきたかもしれない。多くの重要な経済のために、塩は専売による日用品で、政府により管理され、国が公認した貨幣で購入できた。貨幣の価値は、政府の専売制が用意した価格に事実上関連しており、またはそれ自身のサービスと品物を販売できた。古代では、これらの独占的なサービスは始めに成長社会に塩の供給を保護し保証することから成っていた。古代ヘブライ語で‘平和’と‘戦争’の言葉は‘塩’に対する言葉に根差していることは多分、符合していない。圧政の直接的な結果として、必要な組織は非常に限られた内陸の給源からの塩を‘勝ち取ること’に関係しており、これらのサービスもその使用を専売化することをしばしば含めていた。これらは主に塩漬けと肉・魚の保存、皮なめしであった。儀式執行と今日の宗教のほとんどで受け継がれている習慣は、犠牲、屠殺、タンパク質肉の脱水のために古代寺院で‘祭壇’の最初の使用に基づいているかもしれない。パンテノンやエルサレムの寺院は紛れもない屠殺場であった。

 産業革命の時代が来るまで、塩は一般に主要国家の専売品の一つとして認識されていた-主要な物でなければ-多くの国家の歳入の約50%を占めていたからだ。その有効性は気候、海水面の変化、効率的な輸送と配布、特に高度に見識のある防護機関に依存していた。塩田の冠水を引き起こした海水面の変化は何年もの間にわたって起こり、ゆっくりと多分、世代以上の期間をかけてゆっくりとしか感じられなかった。そのようなゆっくりと進行する現象は観察や記録しづらく、今日でも我々は多くの事例を見られる。例えば、クラウディウス、トラヤン、アウグストゥスのポルトゥス港の継続的な建設、あるいはクラシス、ラベナ、アクイリアの製塩センターの交替、あるいは地中海沿岸の数百の海水面下の塩田である。

 これらの供給場の一つでも無くなると、次には壊滅的な市場変化、人口移動、貨幣変動、衰退を引き起こした。石炭や油がピートや蒸発製塩法の多くに必要な太陽エネルギーと置き換わり始めるにつれて、世界中の塩供給は早急に安定し、歴史を通過した‘食塩’の重要性は間もなく忘れ去られた。

 

要約

 貨幣は行われた仕事または与えられたサービスに対しての受け取りを表す‘タリーズ’のシステムから生まれた。硬貨や紙幣としてのタリーズも大量生産されたが、容易に偽造され、したがって、それらは価値が下がる傾向にあった。全ての種類のタリーズはそれらを貨幣に替えるために‘ハル’と刻印されてから流通された。国家当局は賦課金と税金として‘ハル’と刻印された貨幣を受け取るように義務付けられた。タリーズはその市場価値に対する代替品の本質的な品質に依存していなかった。

 11世紀の中国で紙幣の成功した導入は、Knappによって定義された貨幣の機能が十分に理解されていたことを示している。金属が拡大する経済のためにはあまりにも希少であった時、紙は‘貨幣鋳造’の代替物となった。紙幣は金や銀と容易に競争した。理由として紙は比較的安く、擦り切れたり、破れたりしたとき、国家は手数料なしに必要量の交換を保証していた。

 ごく最近まで、工業化時代が到来し、無制限な量で生産される油や石炭を使えるようになっても、塩は最も重要な国家専売品であった。貨幣鋳造を保証する特権を国家の専属とした。その特権は世界中で貨幣の購入力変動で決定的な役割を演じた。穀物のように紙の生産は自然現象に左右され、日用品や貨幣市場に予測できない影響を直接及ぼした。

 近代経済は日用品として貨幣を取り扱う傾向であるが、その元々の使用は価値を表し評価することだけであった。事実上、貨幣が価値のある何かと交換されるまでは、最初、貨幣は何の価値もないことを意味していた。したがって、商品やサービスの価値は消費者の識別力によって決定されなければならない。塩の便利さはその均一性にあり、最も原始的な消費者でさえもその価値を認識できる。次には、貨幣の有用性は価値の変動だけでなく、有用性とサービスや貨幣が表す基本的な日用品の品質も決めることを理解するように我々を導かなければならない。かくして社会レベルで貨幣は上手く使われ、貨幣の増加で社会幸福もデフレーションとも呼ばれるかもしれない。他方、貨幣は貧しいサービスに悪く使われ、あるいは基本的な商品の限られた有用性はインフレにならなければならない。