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MRBLOCH ARCHIVEより

                           塩について     

http://www.salt.org.il/frame_mrbloch.htmlより

 

 歴史学者は産業革命までの古代とほとんどあらゆる科学的分野に関して塩の重要性を考察することを無視してきたようである。要するに、食塩の需要と供給の影響は、上昇、低下またはほとんどの古代権力の発達における要因としてさえも鍵として考察されてこなかった。特に考古学者と歴史学者が塩の重要性に深い感銘を受けてこなかった理由は多分、壺、土器片、火打石、金属は遺跡に残り、一方、水に容易に溶けるアルカリ塩類は古代遺跡でたどれない。“スパイス”と言う用語もロマンチックで異国のアピールで味付けして過去に貿易の主目的として考えられた。しかし、最も重要なスパイスは塩であることは明らかで、匂いもなく、嵩張る日用品で文明社会では大量に必要な物である…

 MRBLOCH SALT ARCHIVEは紀元前1000年から産業革命までの期間を通して食塩(NaCl)の重要性を研究している。産業革命で新しい燃料を燃やして必要な大量の塩を比較的早急に製造出来るようになった。

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 M. R. Bloch教授は190282日にAussig-an-der-Elbeで生まれた。ベルン大学から哲学博士を受けた後、1926年にカールスルーエの技術大学で金属組織学X線分光学部長になった。彼の活動は結晶核形成と冷凍技術に関する研究と過冷却水の防止に関する実験を行った。イスラエルでBloch博士は太陽エネルギー・プロセスと死海の資源利用の研究開発に携わり、ネゲブ砂漠研究所長になった。彼はイスラエルの太陽エネルギーの父として知られるようになった。

 Bloch博士はイスラエル科学賞と1966年にワイズマン科学賞を授与され、幾つかのイスラエルの科学と学術研究所の名誉職となった。

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経済と塩

 ローマ時代の始めには海水面は氷河期の海水面上昇の最後の変動を起こした現在の水面より少なくとも2 m低かった。海水蒸発池を満たすことは海水面に依存していた。製塩は西ヨーロッパ海岸と地中海で十分に確立された。製塩のために理想的なこれらの広大で平坦な海岸地域は次第に浸水され、紀元約400年までにMeersBroadsClairs、オスティアの伝統的なローマ塩田、AquileaRavennaは全て冠水した。ローマの港は3回内陸に移動した。今日の海水面より約2 m高い海水面の影響は西ヨーロッパの製塩者にとっては大災害であった。“暗黒時代”中には塩交易はほとんどなくなり、イギリスやフランスの海岸は不毛の地となった。

 北からのゲルマン民族の流入にもかかわらず人口は低下した。死海、アフリカやアジアの塩鉱山、Tattaのような荒れ果てた湖のような見捨てられた場所の‘ビア・サラリア’を建設するようにローマは迫られた。これらはヨーロッパ市民にとって内陸の塩聖域となった。

 紀元約700年から海水面は低下し始め、海岸の平地は再び現れた。ドゥームズデイ・ブックによると、1086年までに数百の塩田がイギリスの河口域で再び操業され、Bourgneufの“湾”の塩はスカンジナビアからバルチックまでの蘇ったヨーロッパに供給され始めた。真空塩はイギリスとフランスの塩センターを引き継ぐスカンジナビア人で突然に満たされ、アラブ人でさえもプロヴァンスのノルマン人と最終的に衝突するスペインに侵略した。ラヴェンナ、ヴェニス、イギリスのヤーマスは繁栄し始めた。同時に内陸のアジアとアフリカの給源は海洋国家に対しての重要性を失った。世界の熱心な研究によって今日入手できるデータは、これらの海水面変化が可能であったことを示しており、200ヶ所以上の水没した地中海の塩田からの考古学的データはそれらを確認している。

 ガベル(フランスの塩税)のような千年期も初頭に始まった前の浸水中に制定された塩専売制は比較的整理された歴史に基づいているが、今でも権威主義者の中世史であった。塩専売制は修道士や彼等の国王の兄弟によって執行された。後に地方の内陸塩専売制を線引きした関税と塩税の‘境界’は課税場所よりもむしろ領土境界を生み出し、さらに今日の独立国の国境となった。そのことは幾つかの公共部門で専売制を執行している政府は有能でしたがって、我々自身の財産であると言う誤解に導いた。