塩の歴史?
History of Salt?
https//www.seasalt.com (SaltWorks, Inc.のホームページ)より
紀元前6,050年頃に塩は無数の文明に関連して来たので、塩は重要で世界史に不可欠な物資となってきた。エジプトの宗教儀式の供え物、フェニキア人と地中海帝国との間の価値ある交易品として使われ、多くの異なった文化で塩に重要性を持たせて、塩と歴史は何千年間も複雑に絡み合ってきた。今日でも塩の歴史は我々の日常の生活で重要である。“サラリー”という言葉は“塩”という言葉に由来した。塩は非常に価値があり、その生産は古代では法律的に制限されていたので、貿易や流通の手段として歴史的に使われてきた。“サラダ”という言葉も“塩”から始まっており、初期のローマ人が葉物野菜を塩漬けにすることで始まった。紛れもなく塩の歴史は幅広く独特であり、世界中の文化で消すことのできない足跡を残している。
確かにそうであるが、もっとはるかに多くのことに関係している。人類だけでなく動物の食事や多くの植物でも塩は必須栄養素である。塩は全ての食品保存で使われる最も効果的で最も広く使われている物の一つである。工業的な用途や他の用途でもほとんど数知れない。塩は面白い漫画、詩、映画製作の主題として最新の関心事である。
歴史を通して塩-科学者達は塩化ナトリウムと呼ぶ-は生活の重要な物資であり、多くの物語、寓話、民話、おとぎ話の題材になってきた。色々な時代や場所で塩は貨幣として働き、悲惨な戦争の原因になってきた。多くの国々で、訪問者にパンと塩を提供することは伝統的なエチケットであった。記録は中世時代とそれより前の時代の交易における塩の重要性をサハラやネパールのようないくつかの場所で示しており、数世紀前はどのような生活であったかを今日の塩貿易はちょっと見せている。
塩は記録された歴史の始め以前から長く一般的に使われており、紀元前約2,700年まで遡れ、薬理学に関する一番早いと知られている論文は中国で出版された。この記述の大部分は40種類以上の塩の考察に費やしており、今日使われている方法と類似の2つの塩採鉱法の記述がある。塩生産は2,000年以上も中国で重要であったし、どの時代でも多くの他の政府のように中国人は、塩税が主な歳入源であったことを知っていた。西方へ広がっていった遊動民は塩を運ぶことを知っており、紀元前1,450年も前からエジプトの絵は製塩を描いている。
塩は経済的に非常に重要な物であった。“彼は塩程の価値もない”という表現は古代ギリシアで塩で奴隷貿易を行っていたことに由来する。初期のローマ兵士に与えられた特別な塩給与は“サラリウム・アルジェンタム”として知られており、英語“サラリー”の先駆けの言葉であった。塩を参考にした言葉は世界中で見られる。特に食品に使われる塩に関して多い。例えば、ラテン語の“サル”から“ソース”や“ソーセージ”のような他の由来した言葉が出来ている。塩は探検者達が持ち運んだ重要な交易品であった。
塩は多くの文化の宗教儀式で清浄を象徴して重大な役割を演じてきた。聖書には塩を参考にして、良く知られている表現の“地の塩”を含めて30以上がある。さらに、塩に対して多くの他の文学的、宗教的表現がある。例えば、清浄を表す祭壇の上に塩を供えたり、統一教会によって“聖なる塩”を使う。
製塩はイギリス、特にチェシャー地方の歴史の多くに含まれている。中世ヨーロッパ人の記録は製塩権を述べている。ヨーロッパ大陸では、ヴェニスは塩専売を通して経済的な発展を達成した。製塩はアドリア/バルカン地域(スロヴェニアとクロアチアとの現在の境界)でも同様に重要であった;ボスニア-ヘルツェゴビナでツズラはトルコ語の塩にあたる“ツズ”にちなんで実際に名付けられている。オーストリアのザルツブルグについても同じことである。そこには観光客を大きく引き付ける4つの塩鉱山がある。ボリヴィアでも同様に、大きな塩生産地域は観光客の魅力であり、完全に塩で作られたホテルがある。スペインのフィリップ二世の豪華な設計は16世紀末にオランダの反乱によって未完成となった;モンテスキューによると、鍵の一つはイベリア製塩所の成功したオランダの封鎖であり、それによりスペインを直接的に破産させた。製塩はオランダでも同様に重要であった(現在でも重要である)。フランスは何時の時代でも大塩生産者であり、フランスの製塩や流通の議論にはガベル(塩税)の議論が含まれ、塩税はフランス革命の大きな原因となった。塩は今日でも重要である。塩税の重要性は驚くほどである;1630年から1710年まで、税金はピエール・ラズロの本塩:生命の粒(コロンビア大学出版)によると、生産費の14倍から140倍まで増加した。製塩はロシア中の多くの場所で行われたので、“シベリアの塩鉱山”と言う言葉に馴染みがあるかもしれない。中東では、アンマンとエルサレムとの間の道に面しているヨルダンのアズ・ソルトの町はビザンチン時代のサルタスとして知られており、僧正の席であった。後にモンゴル人によって破壊されたが、13世紀にマムルーク・スルタンのBaybars Iによって再建された;彼の要塞の廃墟は今でも残っている。インドの歴史は塩の顕著な役割を思い出させ(Great Hedgeとイギリスの塩窮乏政策における塩の役割を含む)、マハトマ・ガンジーのイギリス植民地政策に対する抵抗である。さらに、塩は西アフリカの歴史、特にマリの偉大な交易王(13 – 16世紀)の時代で鍵となる役割を演じており、-今でも演じている。
塩はヨーロッパ人による北アメリカの探検、その後のアメリカの歴史、カナダの歴史、メキシコの歴史でも顕著な役割を果たしてきた。西インド諸島でヨーロッパ人によって“発見された”最初のアメリカインディアンはSt. Maartenで海塩を収穫していた。15世紀末にヨーロッパの大漁船船団がニューファンドランドのグランドバンクスを発見した時、ポルトガルとスペインの船団は積載された魚を塩漬けするのに“溶液”法を使い、一方、フランスとイギリスの船団は積載された棚の上の獲物を乾かす“乾燥”または“地上”塩蔵法を使った。この初期の食品加工のおかげで、フランスとイギリスの漁師が半世紀前のヴァイキング以来北アメリカで最初のヨーロッパ住民となった。魚を塩蔵する習慣はなかったので、ヨーロッパ人はヨーロッパ海岸で漁をするように制限されてきたので、新世界の“発見”を遅らせてきたのかもしれない。
塩はアメリカ人の探検家達に動機を与えた。アメリカ革命には製塩者である英雄がおり、イギリス戦略の一部はアメリカ人の反抗者が塩を得られないようにすることであった。画期的なルイスとクラークの北西太平洋への遠征でウィリアム・クラークの心には塩があった。イギリス国王がアメリカ定住者に出した最初の特許は、マサチューセッツ湾移植者のサミュエル・ウィンスローの特別な製法による製塩に対して10年間の限定的な権利を与えた。1795年のランド法は、イロクォイのオノンダガ族とニューヨーク州との間の初期の条約に含めたように、塩の政府指定保留地用の条項(独占を防ぐために)を含めていた。ニューヨーク州は常に塩生産で重要であった。1825年に開通した有名なエリー運河は“塩を運ぶ水路”として知られている。大量輸送が難しい嵩張った製品である塩が主要な積み荷であったからだ。ニューヨーク州シラキュースは塩の歴史を誇っており、そのニックネームは“塩の町”である。塩生産は1世紀以上もミシガン州やウエスト・バージニア州で重要であった。塩はイリノイ州やネブラスカ州のような地域を含めてアメリカ国境で重要な役割を演じた。しかし、そこはもはや販売用塩生産をしていない。
塩は南北戦争でも同様に重要な役割を果たした。1864年に北軍は強行軍を行い、南軍の包囲された軍隊を維持する必須である重要な製塩工場がある場所のバージニア州のソルトビルを占領するために36時間戦った。一般国民は戦時の塩欠乏で悩まされ、劣勢であった南軍反乱者の士気も同様であった。カンサス州の歴史で塩の重要な役割はカンサス州ハッチンソンの塩博物館に展示されている。しばしばアメリカ西部の遠く離れた所から底の平らな塩船で大量に運ばなければならなかった。カナダでは、ウィンザー・ソルトは1世紀以上の歴史を持っている。アメリカ西部では、“塩戦争”はテキサス州エル・パソで戦われ、ネバダ州は銀州以上として知られていることを我々は知っている。多くの市、郡、地形、他の地殻構造は塩の重要性を反映している。もちろん塩には多くの用途がある;19世紀の写真術で“塩印刷”の製作物のような塩を使った幾つかの技術は新しい技術によって取って代わられてきたが、他の技術は代わられなかった。しかし、必ずしも全てのアメリカ人の“塩の歴史”がそんなに古くはない。塩釉の陶器はまだ人気がある。塩はアメリカで女性の人権についての戦いとも関係している。
塩はまた軍隊的にも重要である。例えば、ナポレオン軍の数千人がモスクワから退却中に死んだとの記録がある。塩の欠乏で彼等の傷が治らなかったからだ。1777年にイギリスのロードハウがワシントン将軍の塩供給の遮断に成功した時、歓喜した。
歴史を通して同様に、塩は政府の独占と特別な税の対象となってきた。フランスの王は、塩欠乏がフランス革命に寄与した点を正当化するように発展させた好意を持っている僅かな人に塩を生産し販売する独占権によって塩専売を発展させた。塩税はイギリス君主を長く支持し、何千人ものイギリス人が塩の密輸で投獄された。近代では、マハトマ・ガンジーがインドで自治のために人民の支持を動員させる手段としてイギリスの塩法を平然と無視した。近年では、世界貿易機関を通して自由貿易の促進で多くの国家専売の廃止(例えば、台湾)に導いた。
アメリカ合衆国の塩生産史
1654年にニューヨーク州オノンダガからの報告書は、オノンダガ・インディアンが塩泉からのかん水を煮詰めて塩を作ったことを示した。アメリカ合衆国憲法が起草されている間に植民地のアメリカ人は鉄製釜でかん水を煮詰めて塩を作っていた。南北戦争時代までに、何千人もの労働者は煮詰めによって225,000ショート・トン以上の塩を生産していた。アメリカインディアンは塩泉からのかん水を煮詰めて1755年までに西バージニア州のカナワで製塩していたと移住者は報告した。塩泉からの大規模製塩は1800年まで進行し、もっと濃いかん水を得る掘削法は2,3年以内に始まった。生産がピークに達した時、南北戦争中、カナワ谷は南軍に塩を供給した。
同様の事象がルイジアナ州のアベリー・アイランドで生じた。ヨーロッパ人が来るまでにアメリカインディアンは500年以上も塩泉から塩を生産したと歴史家は信じている。かん水を煮詰めて生産された塩は供給された。開放立孔または源泉からの本格的な生産は南北戦争中の1869年に始まり、最初の地下塩鉱山は立坑を掘って1869年にスタートした。
天日塩は理想的な気候でない所で1800年初頭に生産され、降雨から塩やかん水を守るために蒸発池の上に移動式で覆う屋根を建設した。天日製塩は1770年にカリフォルニア州サンフランシスコ湾で、1847年にユタ州グレート・ソルト・レークで始まった。ケープ・コッドでは1830年代に442ヶ所の塩田があった。
多重効用開放“グレーナー”釜での機械的蒸発は蒸発前にかん水を精製する方法と伴って約1833年に始まった。製塩者はきれいで白い望みの生産物を製造できるようになった。さらにニューヨーク州シルバー・スプリングスで密閉された真空缶で塩を結晶させる考え方が1800年代に開発された。
1790年から1860年の間にルイジアナ州、ミシガン州、オハイオ州、ペンシルヴァニア州、ケンタッキー州、インディアナ州、イリノイ州、ミズリー州で塩釜によりかん水を煮詰めることによって塩が生産された。1800年代の半ばには、ミシガン州のサギナウとセント・クレアの塩泉から塩を生産するための安い燃料として木材産業からの廃材が提供された。掘削者達は1882年にミシガン州セント・クレアで岩塩鉱床を発見し、蒸発装置に供給する飽和かん水を提供できる。岩塩鉱床の溶解採鉱は塩生産をしている全州に急速に広がった。掘削が岩塩鉱床に達したとき、やがて通常の地下採鉱が始まった。塩採鉱は今日、カンサス州、ルイジアナ州、オハイオ州、ニューヨーク州、テキサス州、オンタリオ州、ニューブラウンズウィック州(カリウムと塩)、ケベック州、ノバ・スコチア州といった北アメリカ中で続いている。
アメリカ合衆国のカンサス州、ユタ州、ルイジアナ州、ニューヨーク州、オハイオ州、ミシガン州における塩生産は地方の歴史と文化を豊かにした。モルトンのブランドはアメリカの通商で非常に有名な名前を作り上げた。ミシガン州デトロイト市地下の塩採鉱は長年にわたって続けられてきた。
宗教における塩の歴史
塩は宗教と文化で重要な位置を長く占めて来た。ギリシアの礼拝者達は彼等の儀式で塩を神聖な物とした。ユダヤ寺院の供物は塩を含んでいた;安息日には、ユダヤ教信者は生贄の記憶としてパンを塩水にまだ浸けている。旧約聖書では、ロトの妻が塩の柱に変えられた。著者のサリー・ティスダールは次のように言っている。塩が溶けると、塩は水の中で自由に漂い、乾くと石のように不変となる。
旧約聖書でも新約聖書でも契約はしばしば塩で保証された:言葉“救済”の語源である。カソリック教会では、塩は様々な清めの儀式で使われてきた。事実、ヴァチカン二世までは、洗礼で少しの塩を赤ん坊の唇に置いた。イエスは彼の弟子を“地の塩”と呼んだ。レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵画“最後の晩餐”で、ユダは塩壺をひっくり返している。そのことは不幸または不運の前兆として知られている。人々が塩をこぼしたとき、彼等は背後に潜んでいるかもしれない悪魔を撃退するために左肩越しに一つまみの塩を投げることが伝統として今日まで続いている。
仏教の伝統では。塩は邪悪な亡霊を追い払う。葬式の後で家に入る前に肩に塩を振りかけることが習慣になっている理由である:背中にしがみついているかもしれない邪悪な亡霊を塩は脅して追い払う。
神道でも周りを清めるために塩を使う。力士が相撲のために土俵に入る前に-それは実際に手の込んだ神道の儀式である-悪意のある精神を追い払うために一握りの塩が中央に投げられる。
南西部では、プエブロインディアンはソルト・マザーを礼拝している。他の土着の種族は塩を食べることを許されている人を大きく制限していた。ホピ族の伝説は、怒ったWarrior Twinsは人が住んでいる所から遠くに価値ある塩鉱床を置くことによって、貴重な鉱物を収穫するために一生懸命勇敢に働くことを要求して人間を懲らしめたと言っている。
1933年に、ダライ・ラマは塩層の中に座った状態で埋葬された。
今日、塩の贈物は幸運の象徴そしてマハトマ・ガンジーのインド独立の参考としてインドで続いている。インドの独立に含まれていることは貧しい国民のために無税の塩を収穫するため海まで象徴的な行進をしたことである。
塩経済の歴史
貴重で持ち運びのできる日用品として、塩は歴史を通して長い間経済のかなめであった。事実、研究者のM.R.ブロッホは、砂漠で発見された自然の塩鉱床のため、文明は砂漠の縁に沿って始まったと推測している。ヨルダン川の古代都市Essaltの近くで戦ったように、最初の戦争は都市の貴重な塩供給を巡って戦われたとブロッホも信じた。
紀元前2200年に、中国の皇帝Hsia Yuは最初の有名な税金の一つを賦課した。それは塩に課する税金であった。チベットでは、小さな塩の塊にGrand Khanの肖像を押し付けた物をコインとして使われたことをマルコポーロは述べた。塩はエチオピアのダナキル平原の遊動民の間で貨幣としてまだ使われている。
ギリシャの奴隷商人はしばしば奴隷と塩を交換した。このことから“塩程の値打ちもない”と言う表現が生まれた。古代ローマの軍団兵は “サラリー”と言う言葉のラテン語の語源である塩-サラリウムで支払われた。
12世紀にサハラ砂漠への出入り口であるチンブクツの商人と学者の席は塩を書籍や金と同じほど高いと評価した。
フランスでは、アンジューのチャールスはナポリ王国の征服資金を調達するために1259年に塩税ガベルを賦課した。ガベルを巡る不満はフランス革命を煽った。革命家達はルイ16世が退位した後、短期間税を免除したが、フランス共和国は19世紀初期にガベルを復活させた;わずか1946年に塩税は廃止された。
1825年にグレート・レークとニューヨークのハドソン川を結び付けた技術的な驚異であるエリー運河は“塩が建設した水路”と呼ばれた。塩税総収入は運河建設費の半分を支払った。
イギリス君主国は高い塩税で国を維持し、白い結晶用の闇市場をリードした。1785年に、イングランドでは毎年10,000人が塩の密輸で逮捕された、とダンドナルドの伯爵は書いた。1930年にイギリスの規則に抗議して、マハトマ・ガンジーはインドの貧しい人々用の無税の塩を集めるためにアラビア海に向けて200マイルの更新を率いた。
塩戦争の歴史
塩欠乏の効果は戦時に強調される。人体と国家経済はそれらの限界に締め付けられるからだ。
何千人ものナポレオン軍は塩欠乏の結果、傷が十分に治らず、疾患への抵抗力が弱くなったため、モスクワからフランスへ退却中に死んだ。
ヴァージニア州とルイジアナ州の塩生産施設は早くも北軍の目標となった。ヴァージニア州ソルトビルを攻め落とすために36時間北軍は戦った。そこの製塩所は反乱軍(南軍)に対して非常に重要と考えられたからだ。非常に重要なので、南軍大将のジェファーソン・デイヴィスは南軍に塩を供給させようと、海岸で製塩をしようとする意思を持った人には軍務を免除することを提案した。南軍は食用に加えて、皮なめし、制服の染色、肉の保存のために貴重なミネラルを必要とした。
歴史の中の塩
数千年前の塩の発見以来、塩は食品や保存だけでなく、人、経済、神話、宗教の各領域でも人の生活に深く影響を及ぼしてきた。塩は非常に価値のある交換品であった。そのことから“塩の道”が生まれ、塩が生産されない国々に商人達は塩を運び、販売した。
有史前時代に遡って塩交易の存在を確認をした証拠が幾つかある。フェニキア人は製塩とその交易の達人であることが判明したが、本当に製塩法を開発し、その後世界中のネットワークで交易したのはローマ人であった。
塩の生産と交易は新しい都市が生まれ道路が建設された;例えば、ザルツブルグ-文字通り“塩の町”-の場合やイタリアのヴィア・サラリア(塩の道)である。ごく最近まで、数多くの国々で塩に税金が課せられたが、今日ではその重要性はほとんど無くなった。1975年までイタリアではこの税金が財政専売と輸入関税の賦課を通して集められた。国家は塩の生産と販売に専売権を持ち、販売価格の約70%の税率を含めた最終市場価格を決めた。農業用や工業用の塩に関しては割引価格が決められ、一方、その生産はシシリー、サルディニアやイタリアのオリヴィグノやカンピオーネの町では無税であった。
最も古い文明は塩に伴う神話、宗教、魔術の儀式を伴っていた:ユダヤ人の歴史または旧約聖書の何冊かの書籍の内容だけを考える必要がある。古代ヘブライでは、塩は食卓の周りに参加する喜びの象徴となっていたので、一緒に食べることは親密に愛し合って生活していくことを意味していた。
新約聖書でも塩は同様にその位置を見出した。非常に多くの引喩または賢明、清廉潔白、永久不滅、神と人との間の提携のシンボルとして寓話に出てくる。ローマでは、誕生日から八日目に悪魔や邪悪な霊を近づけないようにするために赤ん坊を一粒の塩でこすった。福音書では、イエスは弟子に“地の塩”であれと勧め、それは罪の堕落から人を守る力になることである。
ローマ寺院内で処女達はかん水で台石をこすって生贄を置く台石を準備したように、古代ギリシア人とヘブライ人は生贄をささげる時に塩を使った。犠牲に選ばれた人の頭から塩が落ちると、不運の兆候と考えられた。これは今日まで続く迷信となり、レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐で広く知られるようになった。塩壺の側にユダ-その後まもなくイエスを裏切る-が描かれている。彼は不注意に塩をこぼしている。
そして終わりに臨んで、塩は迷信の中にも出てくる:こぼした油の上に塩を撒くことによって塩は悪例を追い払う力を持っていると多くの人々は信じている。他方、床に塩をこぼせば、不運が降りかかり、一方、他の人に塩を振りかければ、不運をもたらすと恐れている人々がいる。
ヨーロッパの多くの国々でまだ庶民に使われている習慣は、埋葬する前に死人の棺に一握りの塩を投げかけることである。腐敗しない不滅の象徴としての塩はかくして悪魔が近付かないようにする。同じ理由で、古代スコットランドでは、ビールの醸造で塩が加えられた。別の方法では魔女や悪霊によってだいなしにされると考えられた。実際には、加えられた塩は醸造で過剰な発酵を抑え、それによって潜在的な“腐敗”を避ける。
要するに、今日我々が“塩”として知っている白い粒状物質は全ての生活、特に長く様々な歴史に関して必須であった。本当に我々は幸運にも、アメリカ合衆国では塩は差別的な税金の対象ではなかったし、北アメリカでは、塩は多くあり、入手しやすく、最も安い必需品であった。