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ボネールの塩ピラミッドの驚くべき物語

The Surprising’s Story of Bonaire’s Salt Pyramids

By Joseph V Micallef

Forbes 2019.04.18

 

The Salt Pyramids of Bonaire

         ボネールの塩ピラミッド

 

 歴史は点を結ぶことについて構成される。しばしばこれらの点は最も奇妙な場所で始まり、そして終わる。ボネールの塩ピラミッドは島への観光客を迎えるただの象徴的なランドマークではなく、それらは島の歴史の不可欠な部分でもある。塩はカリブ海や西アフリカの13ヶ所の元のアメリカ植民地とを結ぶ複雑な交易関係でかつて重要な物資であった。

 ベネズエラから60マイル沖の中央カリブ海の奥深くにあるボネール島はリーワード・アンチル諸島の小さな112平方マイルの島である。隣のキュラソー島やアルバ島と共に“ABC”諸島を形成している。以前にはオランダ領アンチル諸島の一部であり、オランダ領アンチル諸島が解消されたとき、オランダの合法的な自治体となった。リーワード・アンチル諸島の制約されない他の2つの島、クライン・ボネール島(小ボネール)とクライン・キュラソー島(小キュラソー)は諸島グループの残りを形成した。

 ボネール島は主として石灰岩と関連して縁取られたサンゴ礁との混合物によって覆われた火山岩の地層で出来ている。全体の構造はリーワード・アンチル諸島とベネズエラ・アンチル諸島の残りの部分と共に約9千万年前に隆起した。その時、南アメリカ・プレートを押すカリブ海大陸プレートによって引き起こされた地殻変動活動が古代の海底を曲げてカリブ海の表面から上昇させた。

 陸地が着実に上昇するにつれて、ゆっくりと上昇した島を取り囲んでいる浅い海にサンゴ礁ができた。それらのサンゴ礁が表面を壊すにつれて、島の縁にあった新しいサンゴ礁が置き換わった。何百万年もの間に、これら古代のサンゴ礁は島の地形の一部となった。活気のあるサンゴ礁は島のカリブ海側の比較的浅い海岸の水をまだ取り巻いており、スキューバダイビングのメッカとなっている。カリブ海側の多くのサンゴ礁は、特に島の南東側で浜から50フィート以内にある。

 毎年、約30万人の旅行者がボネールに来る。それらの訪問者のうち約17万人がクルーズ船で来る。島は多くのクルーズ会社のために東カリブ海旅行で有名な停泊地である。1週間のスキューバダイビング休暇も人気のアトラクションである。海路や空路で訪れた観光客を歓迎する最も著名な特徴の1つは島の南東端にある白い塩ピラミッドの特徴的な線である。ほぼ高さ50フィートのそれぞれのピラミッドには純度99.6%の塩が約10,000トンある。一年の時期によっては、出荷を待つ長い列には綺麗に積み上げられた200,000トン以上の塩がある。

Bonaire's Coral Reefs

        ボネールのサンゴ礁

 

 カリブ海最大の天日塩田の1つは今日、ミネソタ州ミネアポリスに根拠を置く複合企業のカーギルによって所有されている。塩田は南東部で平地の約16平方マイルあり、島の約13%を占めている。全ての陸地は海面上わずか2,3フィートである。製塩は一連の250エーカーの濃縮池を利用している。濃度約3.5%のカリブ海または5%の隣接するかん水湖ペケルメールから直接汲上げられた海水は濃縮池を連続的に移動し、そこで強い太陽や風により水が次第に蒸発されるにつれて、かん水の塩分は連続的に増加する。かん水が25%から30%の間に達すると、結晶池に移動される。水の蒸発で濃度が37%以上になると、塩が析出し始め、沈殿する。結局、実質的に8 – 10インチの純粋な塩の層が形成される。全製塩工程は、降雨量や大気中の塵や他の汚染物の程度が塩の結晶化を促進させる核を形成させると共に、温度や風に依存して10 -12ヶ月を要する。

 収穫された塩は塩と混合している少量の硫酸カルシウム(石膏)を除くために海水で洗浄される。純度99.6%以上になった洗浄された塩は積み上げられて、ボネールの印象的で明白な塩ピラミッドとなる。この塩田は年間300,000 – 500,000トンの塩を生産できる。それはヨーロッパ、アジア、北アメリカにほぼ等分に全て輸出される。

 天日蒸発で生産された塩特性の1つは得られた塩結晶の大きさである。地下鉱山からの“岩塩”または地下の塩鉱床に温水を注入して作られたかん水から得られた塩と違って、天日蒸発のような“自然の”工程から得られた塩はずっと大きな塩結晶である。“太陽の宝石”と呼ばれたこれらの大きな結晶は軟水器や水泳プールで使うために特に賞賛される。ボネール塩は夕食の食卓から水処理用の塩素ガス生産から冬期道路の融氷雪のためも簡単な使用を含む様々な産業工程まで様々な他の用途がある。

 さらに注目すべきことは、天日塩田が北アメリカで最大のピンク・フラミンゴの自然保護区にもなっていることである。塩田池の塩分濃度が上昇するにつれて、特徴的な生態系になる。様々な種類の藻類や細菌の古代先駆菌であるハロバクテリアは非常に高い濃度の塩水で繁殖し、池を特徴的なピンク色にする。様々な塩分濃度は異なった藻類や細菌叢を作り、塩田の色を様々に変える。これらの生物は通常の光合成とは無関係な化学工程で太陽光からエネルギーを作るためにクロロフィルよりもむしろ色素のある細菌ドロプシンを使う。

Flamingo Scanctuary on Bonaire

        ボネールのフラミンゴ自然保護区

 

 ブライン・シュリンプは藻類や細菌を食べて育ち、フラミンゴはそのブライン・シュリンプを食べて生きている。細菌中のロドプシン色素はブライン・シュリンプ内で濃縮され、それがフラミンゴによって吸収され、その結果、フラミンゴの美しいピンク色の羽毛となる。これは、東アフリカのグレート・リフト・バレーの塩湖中のピンク色フラミンゴで見られるのと同じ現象である。カーギルは同様に洗練された世界クラスの工業規模の天日塩田の中心で世界クラスの自然保護区の複雑な生態系を上手く管理している。

 ボネールの塩ピラミッドと同様に美しいパステルカラーの塩池は訪れる旅行者にとって明らかで、あまり評価されていないのは、これらの塩田がカリブ海の何世紀も前の塩交易の最新の現象に過ぎないからである。地球上で最もありふれたミネラルの1つで、最も安い物の中で重さによって取引される塩は、特に16世紀半ばから19世紀を通して歴史的に複雑な貿易関係の品目の中心にあり、カリブ海の歴史と、間接的に初期のアメリカ合衆国を最終的に形作った最初の13ヶ所の居住地の歴史にも大きな影響を及ぼした。

 1499年にスペイン人がボネールに来て、一時的に島に住んだ。彼等はボネール低地の南岸に沿って見つけた自然に生じた塩結晶を集めて、牛肉の保存のために塩を使った。しかし、カリブ海で製塩を始めたのはオランダ人で、3世紀の大部分の間、塩交易を支配した。

 当時、スペインは世界で最大の塩生産者の1つで、地中海沿岸に添ってある塩田と特に、カタルーニャのカルドナでMuntanya de Sal (塩の山)と呼ばれる巨大な岩塩床の両方を利用していた。マーク・カーランスキィの書籍Salt: A World Historyによると、15世紀のスペイン塩鉱床の理論的な価値は金や銀の埋蔵量の全価値を凌駕していた。

 

Kralendijk, the Capital of Bonaire

        ボネールの首都、クラレンディーク

 

オランダはバルチック海のニシンと北海のタラ漁で商業的な利益のために塩の巨大な使用者であった。両活動は漁獲された魚を保存するために大量の塩を必要とした。1581年のウィリアム・オレンジ候の下で9ヶ所の“北部州”の反乱とその組織化によるオランダ共和国への反乱はオランとスペインの間で80年間の戦争状態となり、彼等のスペイン塩の伝統的な供給からオランダ商人を切った。

 安い塩の新しい資源を探しているとき、オランダはカリブ海で紛れもない塩の宝庫を発見した。彼等はさらに東にあるレッサー・アンチル諸島のセント・マーチンと他のオランダ諸島上と同様に、リーワード・アンチル諸島の全3島で塩を生産し始めた。しかし、塩でオランダ交易の中心となったのはボネールであった。最初からカリブ海塩はヨーロッパに戻すのと同時に北アメリカ中に輸出された。

 16世紀半ばから19世紀初頭を通して、カリブ海塩はニューファンドランドの大浅堆の大量のタラ漁とニュー・イングランドのタラ漁のために送られた。16世紀から18世紀を通して世界の動物性タンパク質の単一最大の新しい給源であるそれらの漁獲は年間25,000 – 50,000トンの塩を必要とした。入手できるタンパク質の一番安い形態である塩漬けタラは南へ送られ、カリブ海の砂糖プランテーションで奴隷の食事で顕著な役割を演じた;特に17世紀半ばから19世紀の初頭を通して西インド諸島の砂糖ブーム中ではそうであった。

 今日まで、塩漬けタラは西インド諸島の国民食で卓越した重要な役割を持っており、タラはカリブ海では獲れないけれども、最寄りのタラ漁場は西インド諸島の北方2,000マイル以上も離れている。緑イチジクと塩蔵魚のような料理はセントルシアの郷土料理またはバルバドスの塩漬けタラ・フィッシュケーキは長い間、地元の食事の定番であった。事実、“奴隷食品”を除いてほとんど価値がないとかつて避けられた物が今やカリブ海の新しい料理の中心であり、それは伝統的な“奴隷食を基にした”西インド諸島料理と近代的な“料理の融合”に影響を受けたメニューと統合しているように見える。

 さらに、製糖の重要な副産物である糖蜜は北のニュー・イングランドや英領北アメリカの中央大西洋居住地に送られた。そこで糖蜜はラム酒に変えられた。糖蜜は北アメリカ、西アフリカ、カリブ海との間で“三角貿易”において重要な分岐点であった。

Salt Being Readied For Export

                 輸出を待っている塩

 

 独立戦争時に、アメリカの居住地はラム酒蒸溜でバルバドスに次いで二番目であった。13ヶ所の居住地に少なくとも140蒸溜場があり、その数は次第に増えたかも知れなかった。マサチューセッツ州には63蒸溜場があり、ロードアイランドには別の33蒸溜場があり、その内の20ヶ所はニューポートにあった。追加の44蒸溜場は他の居留地に分散していた。

 業界は北アメリカで最大規模であった。ウェイン・カーチスによると、植民地時代のアメリカは年間500万ガロン以上のラム酒を生産していた。ラム酒の輸出はニュー・イングランドの海外貿易値の約80%を占めていた。ラム酒業界は次に協同組合や製鉄のような他の業界を牽引した。蒸溜者は年間の生産量を維持するために年間約100,000バレルを必要とした。ニュー・イングランドからのラム酒は大西洋を超えて西アフリカの“奴隷海岸”へ送り帰され、そこで新しく捕らえられた奴隷と取引された。次に、それらの奴隷はカリブ海への悪名高い中間航路で大西洋を渡って輸送された。そこで彼等は塩や糖蜜と取引された。それらの商品はニュー・イングランドに運ばれて、そこで西インド諸島へ再輸出するためや、もっとラム酒を作るためにチーズや他の食材と共に漁獲されたタラを保存するために使われた。その工程はほとんど2世紀の大部分の関、時計仕掛けのように繰り返された。この複雑な交易関係の網の中心に、カリブ海の至る所にある塩以上の物はなく、塩交易の中心にボネールの歴史的な塩ラグーンがあった。

 今日、西アフリカの奴隷貿易は有り難いことに禁止されてから長い。ニュー・イングランドはもはや世界のラム酒の主要生産者ではないが、新しいクラフト蒸溜者が再びラム酒を生産し始めている。しかし、カリブ海塩交易は維持され、地域の塩産業の中心でボネールに中心的な役割は変わらず残っている。

 

謝辞は省略