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“地の塩”:歴史を通して貴重な日用品

“The Salt of the Earth” A Precious Commodity throughout History

The Vintage News

sott.netより    2017.08.22

 全歴史を通して塩の有用性は文明にとって重要であった。人類は塩資源の周囲、または塩の交易が出来る所のいずれかで何時も社会を作ってきた傾向があった。イギリスでは、所の名前に着いている接尾語の“-ウイッチ”はサンドウィッチやノリッジのように、かつてそこが塩の資源であったことを意味する。ナトロン谷はその北のエジプト帝国を支えた重要な地域であった。ナトロンという名前で呼ばれる塩の一種を供給していたからであった。ヨーロッパで現在最初の町であったと考えられている所はブルガリアのサルニツァタで、そこは塩鉱山で、紀元前5400年以来、塩のあるバルカンとして今でも知られている地域に塩を供給していた。サルニツァタと言う名前も“塩生産所”という意味である。

Salt production

           ハレの塩生産所、 サクソニーアンハルト(1670)

 

 塩はヘブライ、ギリシャ、中国、ヒッタイト、そして古代の他の人々にとって非常に貴重であった。文明の発達に貢献した要素であることは別として、塩はまたアッシリア人から始まって様々な人々によって土地を塩漬けにする軍事作戦にも使われた。ローマ市の成長と共にローマ共和国の初期に、塩を首都に容易に運べるように道路が建設された。一例はローマからアドリア海へ繋がるサラリア街道(最初のサビニ道)であった。

 

Salt ponds

            ペルーのマラス付近の塩田。インカ時代から塩泉から供給されて塩生産に使われた。

 

 浅い深度のために塩分濃度が高いアドリア海は、ローマにもっと近いティレニア海の塩分濃度と比較して塩田の生産性が高かった。

 

Red salt

                  パキスタンのケウラ塩鉱山からの岩塩

 

 “サラリー”と言う言葉は塩というラテン語から来ている。ローマ軍はしばしば塩で支払われた。彼等は兵士を“塩ほどの価値”を十分持って働いたと言う。ローマ帝国中と中世を通して、塩は塩の道を沿ってゲルマン民族の中核地域に運ばれた貴重な日用品であった。4万頭もの多くのラクダから成るキャラバンはサヘルの塩市場に塩を積んでサハラ砂漠400マイル運び、しばしば奴隷と塩を交換した:チンブクツは巨大な塩と奴隷の市場であった。