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いのちの塩

Salt of Life

By Noam Katz

https://www.gov-online.go.jp/   2015.10

 

この記事は日本政府の広報室が提供しているもので、下記のように仮訳されているものをコピーした。

いのちの塩(仮訳)

海からの塩やその他の必需品はかつて「塩の道」を通って日本の海沿いの地域から山間の内陸部に運ばれた。そしてそれは宿敵にさえも届けられたのである。

「敵に塩を送る」という古くからのことわざが日本にはある。16世紀に「越後」(今日の新潟県)を治めていた名だたる大名・上杉謙信が、長年の宿敵、「甲斐」(今日の山梨県)を支配する武田信玄が近隣諸国の封鎖によって塩の供給路を断たれた際、信玄に塩を送ったことに由来している。「闘いは刀と槍によって勝つべきもの。米や塩で決着がついてはならぬ」と、謙信は言ったと伝えられる。

近年、海外との貿易が始まるまで、日本での唯一の塩の供給源は海だった。内陸の大名のみならず、海から遠く離れた場所に生活する人々にとって調味料として、また保存料として必要な塩を調達するは大変なことだった。かつて「塩の道」として知られた愛知県から長野、新潟を結ぶいくつもの街道は内陸の里にこの必需品を運ぶ重要な役割を果たしていた。

「塩の道」で運ばれた塩は日本の太平洋岸、愛知県の海岸と、日本海に面した新潟の海岸地域でとれたものだった。「俵」と呼ばれる袋に詰められ、この貴重なミネラルは馬や牛に背負われ、あるいは人の力で山々を越えて主要な目的地、長野県にあるその名も「塩尻」の町に運ばれた。(「尻」は道の終着点という意味がある)。

今日の愛知県名古屋市の南区は、塩の旅の太平洋側の出発点にあたる。臨海地域の埋め立てによりかつての塩田は姿を消し、家々が立ち並ぶようになって久しいが、看板や石碑が当時「塩付街道」と呼ばれていた10キロにわたる部分を教えてくれる。その道は市の中心部、名古屋城近辺へと続き、やがて内陸へと続く幾本の道に分かれていた。

地下鉄の桜山駅と御器所駅の間の散策コースでは、「塩付街道」の1.5キロほどにわたる部分を歩くことが出来る。道沿いには神社や寺の他、10丁(昔の距離を表す単位で、10丁は約1.09km)の間隔で風変わりなお地蔵さまが並んでいる。それぞれ馬の頭を持った地蔵だ。これらの馬頭地蔵は運送人やその他の道行く人夫たちに道中の無事を祈る対象であったばかりか、重い塩を運ぶ馬たちに水を与える給水所にもなっていた。

運送人たちは当然道すがら腹ごしらえをした。街道近くには和菓子の専門店、「高砂本家」がある。60年以上前からあるこの老舗は「塩の道」の時代から食べられていた「塩大福」を再現した。餡の甘さを軽く塩をまぶしたお餅でくるんだお菓子だ。「塩を加えることで餡の甘さとバランスをとった」と店の主人である篠原隆志さんは説明する。天気のいい暑い日にはいにしえの塩の運送人たちにとってこの上ないエネルギー補給源となったことだろう。

名古屋から40キロ程度のところにある川沿いの町、足助は長野へ抜ける道、「中馬街道」の便利な宿場町だった。事実、町の名前の漢字は「脚を休める場所」を意味している。そして脚を休める必要があるのは何も人ばかりではなく、120キロ近くある塩俵を運ぶ馬たちも同様だ。「塩の道」の当時から続いている宿のひとつ、「山城屋」の明治時代の建築の宿に付属している食堂部分は、かつては馬屋であったところだ。

足助の町にある何軒かの食べ物屋は町の塩の歴史に根ざしている。 町の入り口付近にある「びっくりや」では、塩の運送人たちや、封建時代の旅人たちがおやつとして携行した地元特産の五平餅を食べることができる。炊いたご飯が木の串に巻き付けられ、普通は味噌か醤油を塗って(いずれも塩を使って作られる調味料だ)から、甘辛いなんともおいしい味に焼かれる。

足助川対岸のかつての町の中心部に近いところにある料理屋「塩の道づれ家」は本格的な伝統料理を提供している。店の建物そのものからして本格的だ。130年経つ明治時代の建築を足助生まれの主人、松井芳信さんたちのグループが改築したものだ。松井さんの料理屋は手打ちの蕎麦に海藻からとる塩、「藻塩」を添えて出している。そばつゆや他の薬味と合わせる前にまず藻塩をひとつまみつけただけの蕎麦を食べることを松井さんは勧める。藻塩は普通の食卓塩と比べるとまろやかな味がする。「めんつゆをつけるのを忘れて塩だけで蕎麦を食べる人もいる」と松井さんは話す。「塩の道づれ家」の帰りしなには隣の店、「足助まいど商店」で他の地元の食べ物や民芸品などの買い物もできる。

足助の町は「塩の道」の時代にもうひとつの大きな役割を果たしていた。愛知だけではなく、瀬戸内海などの他の地域から来る塩の輸送を規格化したのだ。「産地が違ういろいろな塩は、そのひと俵の重さも、特性もまちまちだった」とかつてのたばこと塩の卸問屋、「莨屋塩座(たばこやしおざ)」の9代目、岡本宏之さんは説明する。岡本さんの先祖をはじめ、12軒の卸問屋は塩を吟味して一定の味と品質を作り出し、俵に詰め直して長野に送り出したのだ。

さらに少し上がり、海抜約780メートルの伊勢神峠を越えると、歴史ある谷間の街・稲武に辿り着く。中馬街道でもとりわけ難所の峠越えで疲れた運送人や馬は、稲武に着くと馬を替えたり、宿泊し体を休めたりことから重要な中継地点となった。全盛期には街に塩問屋、旅館、商店などが軒を連ね、毎日数百人が行き交う盛況ぶりだったという。現在の街は当時に比べ落ち着いているが、趣のある木造の商店などは今でも通りに残っている。

車が馬に取って代わって久しい今日では、愛知と長野の間を、塩に変わってガソリンや天然ガスが中馬街道(現在は国道153号)を通って運ばれている。
時はかわれどこの街道の重要性は変わらない、と足助観光協会会長の田口敏男さんは言う。「かつて生命のエネルギーとなった塩を運んだ道は、今も化石燃料というエネルギーを運んでいる」と話す。「そういう意味では、この道は『エネルギーの道』とも言えるだろう」。結局のところ、「塩の道」は今でもライフラインなのだ。