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塩と公衆衛生:論争中の科学と証拠に基づいた意思決定の挑戦

Salt and Public Health: Contested Science and the Challenge of Evidence-Based Decision Making

By Ronald Bayer, David Merritt, and Sandro Galea

Health Affairs 2012;31:2738-2746

 

要約

 1960年代末に始まって40年間以上のあいだ、塩摂取量の増加は集団の健康にとって悪い結果をもたらし、脳卒中や心臓血管疾患による死につながるという程度を巡って、しばしば激烈な戦いが科学者達の間で行われてきた。様々な研究や試験は矛盾する結果をもたらしてきた。疾患における塩摂取量との関係を説明する証拠の質を巡って科学的な論争が行われてきたにもかかわらず、地方、国、国際レベルでの公衆衛生リーダー達は集団レベルの減塩についての事例を発表してきた。本論文はこの論争の進展を探求している。この事例における科学的な不確実性を隠していることが、科学の結果だけでなく良い政策にも寄与してきた誤解をもたらしたと本論文は結論を下す。論文はこの論争から生ずる疑問を問い質し、特に証拠が論争されている時には証拠に基づく公衆衛生行動と政策を立案することに挑戦する枠組みを提案する。

 

 40年間以上のあいだ高塩摂取量が心臓血管疾患の発症に著しい影響を及ぼすかどうかについての疑問は科学的な論争の主題であった。モデル化に基づく最近の幅広く引用されている一つの解析は、アメリカにおける減塩が年間44,000から92,000人の命を救っているかもしれないことを示唆した。そのような影響は喫煙低下の利益と同様に減塩努力を認める。しかし、そのようなモデル化運動の経験的な根拠に疑問を感じている人々に対しては、これらの結論はまったく公認されない。

 塩論争はニュース・メディアと同様に多方面の知識を有する人々や特別な医学雑誌で行われてきた。時々、意見の相違は格調高くても用心深く、現在では白熱してきた。

 2011年に塩に関する総合的なレビューを行った二人の著者は次のように言った、“多くお国々が予防医学の歴史の中で多分最大の思い違いである減塩を無批判に受け入れていることは驚くべきことである。”同時に塩摂取量の有害な結果に関する研究に長年関係してきた科学者グループは次のように書いた、“減塩の否定や延期は避けられる病気や費用の点から高くつく。そのことはまた倫理的に無責任である。”

 20126月に、ニューヨーク・タイムズは著名な科学記者であるガリー・ターブスの論文を掲載した。それには、“我々が摂取している多くの塩を制限することは死亡を早める予測を増大させる”と報告している。それに応答して減塩を支持している科学者達グループは“驚くほどの誤解をさせる”論文を挙げて、塩に関する社会の健康努力を狂わせようと望んでいる人々に武器弾薬を与えることになるかもしれず、 “将来、高血圧症、心疾患、死、災い、医療費をより増加させる”結果となると警告した。

 20129月に、雑誌“小児科学”は疾患管理予防センターによる子供達の高塩摂取量を非難する研究を発表した。塩の危険性に関して長い間疑っていたアメリカ高血圧学会誌の編集者は、減塩はほとんどの子供達に何らか良いことをすることを示唆した情報を知らなかった、と応答した。

 入手できる証拠が実際に示していることに関してこの強力な賛同に鋭く反対して、世界、国、地方レベルの公衆保健勧告は、塩摂取量を減らすべきであることは証拠で明らかであると主張していることにほぼ一致している。特にこの政策の一致は塩論争の早い時代から現れており、進行中の科学的論争によって事実上触れてこなかった。2008年に例えば、ニューヨーク市保健衛生部は国民減塩発案の発表に賛同した。州や地方の保健当局や国立保健機関85以上からなる機関は公私協力して包装食品やレストラン食品の塩分含有量を下げる自主目標値を設定してきた。

 塩と公衆衛生に関する証拠のメリットに関する結論を提供することが本論文の意向ではない。むしろ我々は政策立案者のために非常に意味深長な一連の疑問を強調しようと努めている。それらはあまりにもしばしば不明確な疑問である。

 塩について長く続いている科学的論争は何を意味しているのか?証拠の重要性が明らかにすることを認識できないか、認識しない人々の方では観念上の厳密さを単に反映しているだけなのだろうか?あるいは何を証拠として取り上げるかについての疑問や科学者達や政策立案者達が、証拠の状態が十分であり、開示の時期に達していると決定できる状態についての疑問を含めて、何か非常に重大なことを示唆しているのだろうか?塩に関する勧告を作り上げる確実さと科学的論争が続いていることとの間の溝を我々はどのように理解するか?

 

塩、健康、そして疾患:終わりなき論争

 健康に及ぼす塩の影響の研究は二十世紀の初期十数年にさかのぼる。しかし、増加した塩摂取量が健康に及ぼす結果についての最近の論争は1950年代と1960年代のレビス・ダールの研究と共に始まった。彼の明白な結論は続いて起こった論議の著しい特徴となるらしいことすなわち、科学と主張との間の緊密な関係を反映していた。“塩が恒久的で致命的な高血圧を引き起こすと言う証拠はラットでは直接的で、量的で、疑いの余地がない”と彼は書いた。“多量の証拠はヒトでは情況的であるので、幾分ほとんど何気なく忘れられてしまう。同等の証拠が同様に致命的であるがあまり関係のない一般的な疾患である癌と塩に関係しておれば、ずっと前から塩に対して強力な運動が喚起されていたであろう。”

 ダールは幼児食の塩含有量について特に危険を警告し、1969年にジョージ・マクガバン前上院議員の栄養と人の必要量に関する特別委員会に証明するために招待された。彼の研究から“慢性的な過剰の塩摂取量が人の高血圧で原因となる役割を果たし、四半世紀の間我々がしてきたように盲目的に進めていくよりもむしろナトリウムに関して今こそ注意を喚起する時期だと信じるようになったと彼は委員会で語った。”この意見は196912月に食物、栄養、健康に関するホワイトハウス会議を主催するリチャード・ニクソン大統領にちょうど選ばれた栄養学者であるジーン・メイヤーも賛同した。幼児食の塩含有量は会議の中心議題であったが、引き続いて起こる意見の相違の指摘で、意見は証拠について異なっていた。一人の委員は塩を除くことについて科学的根拠がないことを指摘し、他の委員は減塩が望ましいと結論を下した。

 次の年の1970年に、国立科学アカデミー委員会は幼児食の塩含有量の安全性を評価するために会合を持ち、また塩が確定的でないことに対しての証拠を見出した。有力な塩含有量は良くとも悪くとも幼児に何らかの影響を及ぼす証拠はないことを、委員会は知った。幼児食中の塩は生涯の後半で高血圧発症に寄与することを示唆するために“確かな科学的証拠”を見つけられず―あるいは塩が寄与しない何らかの証拠―と何らかの特別なナトリウムの最高限度を勧告するための良い根拠を見つけられなかった。それにもかかわらず、幼児食には0.25%以上の塩を加えないように委員会は勧告した。そのような基準は幼児の栄養必要量を満たしていると思われたからであった。

 ナトリウムの安全性についての疑問がマスメディアで表面化するにつれて、幼児食生産者は“塩無添加”製品を提供して市場動向を調査し始めた。マクガバン上院議員は“殺し屋疾患に関連した食事”と題して一連のヒアリングで栄養素に焦点を置き続けた。1977年に、彼の委員会のスタッフはアメリカ合衆国の食事目標と題する報告書を発表した。国民の最初の塩目標値3g/dがその中に含まれており、当時の平均摂取量はその量の3,4倍であると思われていた。

 マクガバン報告書と幼児食生産者によるナトリウムに関する市場誘導された非難は何人かの科学者達に空想的な物としての印象を与えた。減塩提案者に基づく証拠の性質とデータを作り出した研究設計に彼等は疑問を持った。それにもかかわらず、過剰な塩摂取量は血圧を上昇させる結果となり、上昇した血圧は心臓血管疾患や死亡率増加をもたらす結果となると言う主張は有力な知識となった。

 アメリカ連邦機関が1970年代と1980年代初期に減塩の重要性を容認するに至った速度は公衆衛生局長官からの報告で後に論評された。血液中のコレステロール濃度を下げることの重要性を勧告して気付くようになるまでにどれくらい長い間かかってきたかと言うことと明らかにこの速度は対照的であることを報告書は述べた。低塩食が加齢に伴う血圧上昇を予防するかもしれないという仮説をテストした公表された研究報告がないにもかかわらず塩に関する栄養政策が進められてきたことを報告書自体が認識していたので、この差はすべてにより著しいかった。慢性疾患の流行しそれがアメリカ食と関係しているとの仮説を立てると、連邦の栄養立案者達は飽和脂肪酸のような他の疑わしい食品危険物と比較して塩は“より容易な目標”を表しており、何らかの証拠を得なければならないと彼等は思っていた。

 1970年代末までに塩が有害であるという仮説に挑戦していた人々は二つの中心的な疑問に関してもっと証拠が必要であると主張しているだけの“懐疑論者”として自分自身を認識していると感じた:低塩食は高血圧発症と加齢に伴う血圧上昇を予防するか?塩で誘引される血圧の集団レベルの低下は死亡率に影響を及ぼすか?提唱者達が治療上の公衆保健介入のためにある程度の緊急性を持って主張した点で、懐疑論者達は早まった行動に対して警告した。“[塩摂取量と高血圧との関係]に賛成する最も心もとない証拠の一つがさらなる証拠として迎えられており、一方、そのような証拠を見出せないことは何とかして言い逃れてきた状況のように思える。証拠がないのであれば、塩反対運動を社会に発表し、推し進めることは正しくない。”

 事実、ナトリウム摂取が血圧を上昇させるという概念は誰でも知っているという状態になっていても、疫学的研究はしばしば理論に明らかな支持を与えられなかった。心臓血管疾患を研究するために1948年以来、マサチューセッツ州フラミンガムに住むアメリカ人集団を追跡してきたフラミンガム研究はナトリウムと血圧との間に何の相関も見出さなかった。1985年に発表された日本人家系の8000人以上の男性による研究はナトリウム摂取量と脳卒中との間に何の関係も見出せなかった。7000人の男性を調べたスコットランド心臓保健研究による短い報告書は、ナトリウムと血圧との間の本当の関係は非常に弱いと結論を下した。

 世界中の52センターで男女10,000人以上を調べた画期的なインターソルト・スタディは塩の疫学に最終的に明確化する目的を持っていた。ところが研究は賛否両論で多くの論争を引き起こした。結果は1988年のイギリス医学雑誌(BMJ)で発表され、あまり塩を食べない集団は多くの塩を食べる集団よりも加齢に伴う血圧上昇が小さいことを報告した。シカゴ・トリビューンの表紙に“全ての大人は塩摂取量を減らしなさい”との見出しが載った。

 しかし、高血圧雑誌の創設編集者であるジョーン・スェールスは結果を非常に異なった見方で考察した。同じ号の高血圧雑誌に書いたスェールスは次のように主張した。血圧に及ぼす塩の影響は非常に小さいように思われるので、栄養学者が(多分、既に存在する塩を除いた)塩で論争になるようには思えず、減塩の安全性を仮定すべきでない、と警告した。

 他の懐疑論者は、塩が有害であることをインターソルトは証明しているのではなく反対である、と主張し始めた。一人の保健政策分析者はその研究を科学で解明できるかぎりの徹底的な論破で明らかにしたものと発表した。 “アメリカ人の90パーセントについて塩はそれほど問題ではない”という表題で掲載された1990年のwire storyは“塩摂取量が高血圧の原因である結論的な証拠はなく、単なる仮説だ”と言っている食品医薬品局の栄養部長を引用した。同じ論文でアメリカ心臓協会の栄養委員会会長は“あなた達がこれらの勧告を作り、科学の変化を発表し、それらから後退しなければならなくなってきた…信頼性を損なわない方法で後退しなければならない。”

 結局、予想外のインターソルトの結果は、擁護論者と懐疑論者の両方がインターソルトのデータを味方にできるようにしてしまった。一人の科学者が研究の解釈の挑戦で述べたように、“それは聖書を読むようなものだ…どのような偏向を取り入れようとも、そのままにしておく。”

証拠に基づいた政策に向けて

 この論争が展開しているまさにその時に、科学で偏向を少なくし、より“科学に基づいた”保健介護の準備をする運動が具体化してきた。1980年代の保健研究と社会科学では、レビュー論文を作成するための典型的なアプローチは物語風で、取捨選択する研究についての特有の判断に依存しており、その結果は主観的で、科学的根拠がなく、効果がないレビューとなった。

 偏向に気付いていることは証拠を重み付する系統的な方法についての研究に導く概要論文に組み込まれた。スコットランドの医師Archibald Cochraneは、ランダム化されたコントロールのある試験だけが信用でき、したがって、研究の解析データとして使えると主張した。ランダム化された臨床試験の信頼度は偏向を減らす能力に依存していた。すなわち、研究でランダムに参加者を処理グループと偽薬グループに割り当てることによって、平均してグループが実験介入に関してだけ異なっている。

 1993年に、限られているが批判的に重要な経験的疑問に関する証拠について厳密で総合的なレビューを行うために、医師の名誉をかけてコクラン共同研究と称する非営利団体がイギリスで設立された。コクラン・レビューは典型的にメタアナリシスを含んでいた。これは明確にされた結果(例えば、血圧)に及ぼす特別な介入(例えば、減塩)の効果の総合的で定量的な推定を得るために異なった研究結果を結び付けて統計処理をする技術である。コクラン共同研究は証拠に基づく活動で主要な役割を演じ、研究の総合的なレビューを行うための最も厳しい努力は確実な証拠に基づき臨床実験と公衆保健政策決定の両方を結び付けられるという確信を反映していた。暗黙のうちにこれらの慣例は、そのような決定が偏見、間違って行われた実験からの間違った信頼性、偏屈な専門家または団体の利益から解放される程度を広げようと努めた。

 減塩は1986年に最初にメタアナリシスを行った。最初のレビューは、特に高血圧者で減塩が血圧を下げるらしいが、効果は小さいことを示した。薬を服用しない最も望ましい人々-若い軽症高血圧患者にとって、残念ながら低塩食の使用は制限されるべきであるように思われると、著者らは結論を下した。その後の15年間に、少なくとも4回以上のメタアナリシスが行われ、全て同様の結論になった。すなわち、大規模な減塩は集団全体で非常にわずかな血圧しか下げないようだ。

 一定した結論にもかかわらず、減塩がどれくらい集団の健康に影響を及ぼすかについての解釈は幅広く異なった。この延々と続く論争にもかかわらず、当時アメリカ高血圧協会の会長であったミカエル・アルダーマンは、厳しい終点、例えば、脳卒中や心臓発作を伴った長期間の試験だけが論争を終結させる期待を持てると主張した。アルダーマンについて減塩だけに焦点を置くことは、事実上全ての疾患や死因の危険性を増すようだ。

 対照的に、塩と関係している証拠は十分であると確信している人々については、さらなる研究で結論を出されて以来、長い時間が過ぎた。集団的な大食漢は論争を煽り続け、食品産業界のコンサルタントとして給料を受け取っている科学者達によって扇動され、合理性も可能性もない科学的正確さの水準を要求し続けていたと彼等は主張した。時が経つにつれてナトリウムに対する圧力を軽減するために過剰な塩の危険性を軽く扱った研究に塩産業と食品産業がひそかに注意を払ってきており、健康な食生活イニシアティブから減塩を外すための政府のタスクフォースをそっと確信してきた、とイギリスの新聞記者達は明らかにした。

 そのような状況下で、共通の最低線だけの要求を満たすために懐疑論者が現れた。イギリス医学雑誌の編集者であるFiona Godleeは“食品産業は利益が侵される脅威に対して猛烈なロビー活動を行ってきた”と書いた。“論争を続けさせることから得る大切なもの”を産業界は持っているとGodleeは述べた。

 この背景に対して、1998年に国際的に定評のある雑誌サイエンスがターブスの論争を起こしている“塩の(政治的な)科学”を発表した。その論文は科学記者の国際科学協会から社会ジャーナリズム賞を受けた。約80件のインタビューに基づいて詳細に解析し、塩と疾患率や死亡率とを関係付る論争の余地のない証拠があるという考えのまさに根拠に論文は挑戦した。“例えあるとしても、減塩の利益を巡る論争は今や医学の全ての中で最も長く継続している最も激しい現実離れした論争の一つになっている”ことをTaubesは観察した。

 塩の理解度を変える努力で組織化された情報源に依存してきた官庁のために、全人口に勧告するために証拠となる根拠に挑戦している不変の報告は面倒なことになっている。国立心肺血液研究所のディレクターであるClaude Lenfantは、専門家の論争は“減塩は問題ではない”という態度のための根拠を提供したと嘆いた。

 その後、2001年に30日間の高血圧予防食試験の結果は、典型的なアメリカ食を食べている高血圧でない人々について減塩は実質的に血圧を下げることを示唆した。著者らはニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシンで次のように主張した。減塩は高血圧でない人々について意味があるかどうかに関する論争を研究は解決すべきである。

 この主張が繰り返されたのは6年後で、高血圧予防共同研究グループ追跡調査の2007年試験の著者らであった。懐疑論者の厳しい終末の研究を要求していることにそれは答えているように思えた。前の研究は減塩の臨床的な影響を記録できなかった程度を認識しながら、以前に血圧を下げ高血圧を予防することを示した減塩は心臓血管疾患も予防するように思えると研究は結論を下した。心臓血管疾患危険率で観察された低下は実質的で、集団の幅広い減塩を強力に支持していた。結果はイギリス医学雑誌編集者のGodleeに十分に印象付け、研究は証拠についての論争で最終的な集合ラッパとなるかもしれないと彼女は言った。付随している論説は、勧告されたのはずっと昔のことであったと主張した。すなわち、加工食品中の塩を制限するように業界に強制した法律は“必要で正当であった。”

 2010年に、アメリカ医学協会はアメリカの減塩戦略という報告書で政策変更を呼び掛けた。塩摂取量の増加は有害であると言う前提で始め、報告書は「何をなすべきか?」と言う疑問に行き当った。“40年間のあいだ、ナトリウムと高血圧や他の生命を脅かす疾患との関係について我々は知ってきたが、実質的に食事中の塩を減らすことは出来なかった”と報告書は述べた。アメリカ高血圧協会の後任会長は報告書を歓迎した。“結果のマフィア”は規制することについての正当化に挑戦したのかもしれない、と彼は警告した。同じ月に、疾患管理予防センターのディレクターであるThomas Friedenと彼の同僚であるPeter Brissは、年間10万人の死は過剰な塩摂取量によるものと主張した。

 2011年にも政策の勢いは続いた。食品医薬品局は食品中の塩に関する規制政策を具体化するのに役立つデータや勧告を求めた。しかし、科学を信ずる懐疑論者はそれらのイニシアティブに挑戦し続けるどころではなかった。

 心臓血管疾患のない人々によるヨーロッパの研究は食事に関連した血圧変化と高血圧または心臓血管疾患合併症についての危険性との間に関係を見いだせなかった。事実、比較的低いナトリウム排泄量が比較的高い死亡率と関係していることが示唆された。それらの結果は全面的で無差別の減塩を勧めることの根拠に異議を唱えていると著者らは結論を下した。アメリカ医学協会誌にこの論文を発表したことは批判的な応答の動揺を刺激した。最も目立つことに、アメリカ医学協会誌の研究はがっかりさせるほど弱かったとランセットは論説で述べた。高血圧、心疾患、脳卒中の危険因子として塩の重要性についての社会的認知を混乱させるように思える。

 ナトリウム・コンセンサスに対するより有害な挑戦を指摘したのは2011年に発表された2件のコクラン・レビューであった。最初のレビューは、減塩が高血圧のない人々で全ての死因による死亡を減らした強い証拠はなかったとした。このレビューはFeng HeGraham MacGregorによって鋭く挑戦された。彼等はランセットで次のように書いた。“我々の意見では、[このレビュー]はコクラン・ライブラリーの評判と著者らについて不十分に考察している。彼等はメディアとそれによって社会をひどく誤解させてきた。”

 第二の2011年のコクラン・レポートはさらに進めた。正常血圧者のホルモンや脂質に及ぼす潜在的な影響を調べた後、低塩食が健康を改善するか悪くするかについての結論を利用できる証拠は出せないとの結論であった。著者らの結論は、さらに研究すれば、減塩の有益な影響を検出できるかもしれないが、減塩に味方する明らかな兆しのない150 RCT13件の集団研究後では、そのような兆しは存在しないことを受け入れる他の立場があるかもしれない。

証拠、懐疑論、および科学的説明の正確さの役割

 本論文の最初で塩論争が何を証拠とみなすか、塩に関する勧告の背景となってきた確実性と科学的論争の持続性との間の深い溝をどう理解するかについて塩論争は一連の疑問をもたらしてきたことを我々は述べた。

 塩を巡る論争は独特ではない。しばしば激しい戦いになる科学上の論争は普通のことである。事実、科学研究や技術研究の全分野は30年間のあいだ科学的論争の科学的根拠を注意深く解析しようと努めてきた。しかし、塩論争で目立つことは、主流の立場にいて重んじられている主張者群と傍流の反体制者群との間で論争者を適切に分けられないことである。重んじられている科学者達は境界線の反対側に自らを置いた。この衝突を我々に十分に説明できるほどの観念上の厳密さまたは共通の邪魔物に対する文献はない。

 減塩を巡る40年間の論争を記録してきた苦しさは、数千人の人々のうち数百人の命がどちらに変わるか不安定な状態にあることを減塩主張者は信じている事実から十分に食い止めている。最初から、塩が味覚強化剤である限りを除いて、塩は少ない方よりも多い方が良いと信ずる良い理由はないように思われた。そのような状況下で減塩できないことは価値がないように思われた。しかし、全員の減塩を勧める証拠は弱いと主張する人々に対しては、科学的研究の信頼性自身が危うくなっている。

 さらに、集団レベルの減塩は身体に有害な効果を及ぼさないと仮定することは単純に悪いと懐疑論者達は次第に結論付けるようになってきた。高い塩摂取量は血圧に悪い影響を与え、それによって心臓血管の健康にも悪い影響を与えることは生理学的な見地からもっともらしいが、医学や公衆保健は破壊的な意図しない結果をもたらすという表面上健全な考え方の事例で満ちている。新生児にとって百パーセントの酸素は失明の原因となる。検査目的でX線を大量に使うことは癌の大きな危険性と関係している。介入が集団全体の規模で行われると、意図しない結果の危険性は劇的に大きくなる。

 塩を巡る論争は前から批判的な方法論に関する疑問を生じてきた。その疑問はあまりにもしばしば一般的な確信によって隠されていたので、臨床実験や保健政策は証拠に基づいているに違いないと思われていた。しばしば間接的に、しばしば明快に塩論争に係わっている人々は、最も信頼できる証拠源としてランダム化されたコントロールのある試験についてや一般的な総合レビューや特にコクラン・レビューの相対的な重要性についての疑問を挙げてきた。観察研究、動物実験、臨床経験からのデータを含む“全ての証拠の重要性”はランダム化されたコントロールのある試験だけを考察している解析結果に優るべきである、と減塩主張者達はしばしば主張してきた。最高の標準的な証拠に関する主張は政策立案者に方法論的な拘束衣を着せ、政策を無力にする結果とする。最も厳しい科学標準に合わない結果は政策設定の目的に向いている以上かもしれない。

 国家保健省を指導するイギリスのNational Institute for Health and Clinical Excellenceの所長であるMichael Rawlins卿とAnthony Culyerはこのレビューを直截に述べた:“ガイダンスは最も利用できる証拠に基づいている。しかし、証拠はあまり良くなくてまったく完全ではないかもしれない。”このような状況においては、ランダム化されたコントロールのある試験の特徴は“単純化”と“擬似定量化”として特徴付けられた。“我々はこの人命救助限界から控えるべきか、全ての試験の本源を待ちながら人々を高血圧や高血圧との合併症である心臓血管疾患で死なせるべきであるか?”と最近減塩推進者の一人は尋ねた。

 政策立案者は不確実であろうとも科学的な不一致に直面しても行動しなければならないことは十分に明らかなことであると思う。そうではないと要求することは集団規模で実質的で予防できる疾患を十分に押し付けることになる。しかし、政策立案者は強力な商業利益と深く浸み込んだ行動パターンで対決を要求する新しいイニシアティブを持って前に進めることを強調するので、政策立案者の政策内容がしばしば科学の競争や不確実度にもかかわらず作成されることを認識することよりもむしろ信用できない正確さと経済学者のCharles Manskiが呼んできたことと強いて言わせられることである。

 このすべてが示唆していることは、証拠に基づく行動概念は政策立案者によって採用されてきた意気込みは科学と政策との間に本質的で多分削減できない緊張を覆い隠しがちであった。公衆保健政策立案者達は混在し、しばしば不確実な状態の科学的証拠であるにもかかわらず政策的な解決策を考えなければならなかった。行動優先の予防姿勢は多くの公衆保健の見通しを知らせる。しかし、この見通しは、科学が正当化できることを超えては動けない証拠に基づく行動に係わっている人々によって表される同じように強力な関心と矛盾する見通しである。新しい介入で証拠を表そうと最高に努力しても付随してくる研究の偏向を選んだり、不測の混乱因子について科学は包み隠さず、疑いを持って関心を持ち続けなければならない。

 “結局、誇張した確実性の害は有益よりも有害であろうか?”と本論文のレビューアーの一人は尋ねた。“結局、情報に基づく、複雑な状況説明された不確実な状態で政策を立案することは非常に難しい。”塩に関する論争を注意深く考察した後、科学的不確実性の隠蔽は科学的な政策だけでなく良い政策の両方に役立たない間違いとなる、と我々は結論を下した。証拠から行動へ簡単に移る構図は、実際にどのようにして政策が立案されたか、どのように立案すべきかを理解する我々の能力をゆがめてしまう。

 もっとも基本的なレベルで、判断や価値が証拠を知らされた政策立案で役割を果たさなければならない役割を認識することが基本であると思っている。したがって、アメリカ沿岸警備対策委員会で総合レビューを行った中心人物であるRoger Chouは次のように述べた。“証拠はありそうな利益やありそうな障害、負担、費用を我々に語っているが、これらの要因の全てをどのように重み付するかについては我々に直接的に語っていない。”政策立案者は次のことを尋ねなければならない。公衆衛生介入の責任はそんなに大きく、誰のためか?期待される利益は潜在的な費用を十分与えられているか?これらは標準的な判断が出来ない中で応えられない疑問ではない。これらの疑問に直面する代わりに証拠に基づく政策のマントラを唱えることは、論争されている証拠と科学を政策に反映させる価値との間で克服すべき関係について批判的に考える能力を我々から奪う。