たばこ塩産業 塩事業版  2005.05.25

塩・話・解・題 2

 

製塩技術の研究開発史

次の飛躍へ

 

 1997年度から92年間続いた塩の専売制度は廃止されたが、若干の保護規制が続き8年間の経過措置を経て2005年度から完全に自由化された。多くの産業は幾多の研究開発を経て今日に至っている。研究開発しても海外との競争力がなければ、その産業は消えてしまう。塩産業は専売制の保護下で海外との競争力を持って自立化できるように育成されてきた結果、制度が廃止された。
  世界では特殊な塩生産法を採用している国内の塩産業が将来にわたって存続するかどうかは生産・流通コストと品質の競争力に係っている。コスト低減は技術開発と表裏一体の関係にある。次への飛躍に向けて製塩技術開発の歴史を振り返ってみる。

生産性向上と合理化の歩み

 日露戦争の戦費調達と塩産業の育成のため1905年から財政専売に始まった塩専売制度は1919年には代替性のない生活必需品である塩の需給調整、塩価の安定、品質向上を目的とした公益専売になった。不良塩田の整理、生産性の向上に伴う過剰生産設備の整理、生産方式の変更に伴う塩田整理などで合理化を行って生産性の向上を図ってきた歴史は表1に示す通りである。
  生産塩量を従業員数で割り込んだ一人当たりの生産量は向上の一途をたどっている。
  入浜式塩田と平釜の組合せによる生産方式が主力であった1930年(昭和5年)を基準とすると、2000年の時点でイオン交換膜電気透析法と真空蒸発缶の組合せによる現在のイオン交換膜製塩法では約100倍になっている。

技術開発推進体制の歩み

 研究開発を推進する機関の設置と生産性向上を目指した主たる技術開発が何時行われたかを表1に合わせて図1に示す。第三次塩業整備後、研究開発に従事した人員体制はどのように変化してきたかを図2に示す。この図は、筆者が入社以来20年間の研究開発機関勤務から離れて塩の技術行政を担当する本社の塩技術担当調査役という妙な課名の課に赴任してから、将来の研究開発体制を考える上で調べた数値に基づいている。
  昭和34年は第3次塩業整備が行われた年であるが、当時は110人程度の研究者がいた。この研究者の他に試験設備の運転要員、実験補助として職種の違う職員が40人程度いた。その後、塩の研究者はたばこの研究に転換し、たばこ関係の研究開発機関へ転勤していった。
  筆者が入社した38年頃は転換の最後の次期で、75名体制がしばらく維持された。やがてイオン交換膜製塩法が導入された第4次塩業整備に向けて次第にたばこ事業への転換者が増え、塩の研究者は減ってきた。1972年にイオン交換膜製塩法への全面転換に伴って第四次塩業整備が行われると、研究者は20人以下になった。この時、筆者はたばこ関係の研究開発に転換した。
  専売公社から日本たばこ産業株式会社へと民営化された1985年には13名となっていた。たばこ事業は民営化されたが、塩事業は専売制が続き、人員増加は1989年(昭和64年)以後から始まった。これは、塩業の自立化を目指して研究開発体制の充実を図るよう塩業審議会の答申に記載された結果である。

塩業審議会の議論経過

 塩業政策は塩業審議会の答申の下に実施されてきた。以下、塩業審議会、その下の小委員会で塩の技術開発について議論された内容を抜粋して示す。

@       第四次塩業整備の根拠となった塩業審議会答申(1971年1月26日)
  この中で近代化企業の要件として「ソーダ工業用等輸入原塩を直接使用する分野にまで需要を拡大していくことが望ましいと考えられ、そのためには企業自らの努力で製塩技術の改良開発を進めるのみにとどまらず、海水総合利用、発電とのコンビナート化等を含めて、たえず技術革新を続けることが必要である。」と謳われており、塩産業の将来展望では「生産業者はイオン交換膜製塩法を中心とした技術の進展に最大の努力を払うとともに、低廉なエネルギー源の確保、海水総合利用とのコンビナート化等に十分の関心を持つことが必要である。」と要望された。これを受けて専売公社は図2に示すように、塩の研究開発から大幅に手を引いた。

A       25回技術小委員会(1976年12月9日)
  1973年の第四次中東戦争を契機に第一次オイルショックが始まり、原油の価格が高騰し始めた。エネルギー費の高騰により生産コストが上昇。1976年には販売価格の値上げをせざるを得なくなった。このため塩業審議会の技術小委員会が開催され、専売公社の技術陣が大変小さくなったとの認識の下に、「製塩企業、膜メーカー、公社の三者が意を新たに技術の開発、改良に取り組み、その成果をあげることを希望する。」とのまとめを発表した。

B       71回塩業審議会議事録(1977年2月9日)
  議事録の中で技術開発に関する会長、各委員の意見を抜粋する。▽技術革新をねらうなら思い切って国費をかけて実現する努力をすべき。▽技術を今捨てると、二度と回復できない。何時でも作れるのだという態勢を持っていないと、炭鉱のようにだめになる。▽イオン交換膜製塩技術の改善に一層努力すべき。▽原価低減のため技術開発を促進する必要があるが、公社が共同研究の音頭をとってはどうか。

C       74回塩業審議会議事録(1978年4月24日)
  各委員と公社との応答を抜粋する。▽国がある期間を予定して時限的に研究目標をしぼって、相当の金を投じて塩技術で画期的な低減の方法を講ずべき。▽こんなに塩の技術者を減らしてはいかん、ということで塩技術担当調査役を戻して、塩技術についてさらに研究させる体制を整えている。十分に研究させるようにしたい。▽国が最高意志として思い切って塩の開発を考えるべき。▽ある程度の努力を継続してもらいたい。▽技術面の研究を何かの形で意見として出していい。▽技術の改善をしっかりやれ、という必要はある。▽技術に非常な執着を何時も持っており、技術は必ず問題になると思う。

D       75回塩業審議会(1978年6月13日)
  塩業政策の今後の方向について「生産コストの低減に資するため、技術の研究開発および改善を一層促進するよう配慮するものとする。」とのまとめを発表した。

   E 76回塩業審議会議事録(1979年9月25日)
     1979年当初のイラン革命を契機として第二次オイルショックが始まり、さらにエネルギー費が高  騰するようになった。以下、各委員と公社との応答の一部である。▽小田原の塩の研究所は最近ど  のように活動していますか。大体使命を達してしまったので、止めてしまうのかどうか。▽1971年  に整備して、かなりメンバーは減少しています。生産コスト低減について最近、研究活動を開始し  ました。人員は1972年に減少して、その後も余り増えておりません。

F     塩業審議会答申(1981年12月24日)
  「イオン交換膜技術は、わが国のもつ独創的基礎技術の一つであり、製塩技術の中枢的役割を担うばかりでなく、将来他産業においても多面的な展開を期待することができると思われる。(中略)ソーダ工業原料塩の自給をも可能とするよう一層、技術の開発、改善を進めると同時に、わが国塩産業が真の近代産業として自立するため、自らも主体的な役割を担うことが期待される。」この答申を受けて技術開発体制を強化する研究者の増加はなかった。しかし、製塩企業の生産コスト低減に向けた試験研究を促進させるために1トン当たりの塩買上価格の中で何某かの金額を手当てした。 

G     塩業審議会小委員会報告(1986年11月26日)
  専売公社が民営化されるにつけて塩専売事業のあり方を諮問したことに対する答申の骨子となる報告である。その報告内容の「3.新しい塩産業政策運営の機構」の中で次のように述べられている。「新しい機構は、日本の塩事情に基づく塩産業政策の課題に応え市場秩序の維持、安定による長期的な消費者利益の擁護をその主たる役割とするものであり、その運営に当たっては、塩産業の自立化の推進を基本とし、内外市場情報の的確な把握、処理、輸入塩の操作による価格調整(関税操作を含む)、在庫塩の保有による市場調整、海水総合利用を考慮した技術開発、塩の利用等に関する調査・研究等の機能とともに自立化を促進する当面の支援機能をも併せて遂行することが求められる。(改行)自立化を促進する当面の支援機能は(中略)、イオン交換膜の性能向上を含む技術開発の促進、援助、(中略)、これらの措置は(中略)あくまで経過的性格を持つものとして限時的な見直しを行うことが必要である。」

 以上が塩業審議会で塩の技術開発についての議論経過である。第四次塩業整備後、研究者数は激減した。最初はオイルショックよる生産コストの高騰に対する技術開発への要請であった。しかし、それに対する対応は取られなかった。その姿が図2に現れている。その後、民営化するに当たっての塩専売事業のあり方を小委員会報告でGのようにまとめ、これを機に日本たばこ産業では塩の研究者を採用し始めた。30人程度まで増加したが、専売制度の中では自立化までの限時的な措置であった。
  自立化したと判断して専売制が廃止された現在では当然見直され、財団として独立した組織となり、再び研究者数も減ってきている。
 ここでは専売公社時代の技術開発体制を中心に述べてきた。今後、日本の塩産業が存続するかどうかは、塩事業センター、製塩企業、膜メーカーが国内塩産業の維持に向けて各自、あるいは共同して技術開発にどのように取り組むかに依存している。

塩生産技術と塩産業構造の変化

塩技術研究者数の変遷